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第99話 蒲田にて(25)

 (れん)は風呂を使い終わった後、じっと洗面台の鏡をのぞいていた。痩せたと思う。緩やかな自殺のように、食欲が戻ることはない。日々最低限の食事だけでなんとか生きている。  ふと、この鏡がついている壁の向こうには執務デスクがあることを思い出す。もし木島がデスクに座っているなら、壁を隔てて向かい合っていることになる。  でも、彼は自分の仕事を真面目にしているだろう。  木島が高遠に奪われたという『最愛の者』とは誰なんだろうと、怜は漠然と思った。怜を抱かない理由は、その人かもしれない。きっと、本質的に木島と自分は同じなのだ。高遠に人生の意味と価値を奪われた痛みを、木島も感じている。  我知らず、怜は右手の平の脇を左手で撫でた。2年前、そこには深い切り傷があった。何度か傷は開いてしまい、なかなか治らなかった。そのせいで、そこには引き攣ったような痕が残っている。  時々、傷痕は痛む。  魂を失くして、それでもなおこの体は痛みを感じている。鏡に手を伸ばし、そっと顔の輪郭をなぞる。壁の向こうの木島の顔をなぞるように。  同じ痛みを共有しながら、彼と自分は隔てられている。木島はまだ魂を失っていないから。戦おうとしているから。  それはきっと、ある意味薫さんより遠い。死者以上に遠い。  溜息をつき、怜は洗面台から離れた。こうして鏡を見ていても、何かが見えるわけじゃない。  バスルームを出ると、木島はやはりデスクにいた。書類に何か書き込んでいる。 「あの、ありがとうございます」 「あぁ、早かったな」  怜は裸足のまま、窓際のソファに行き、ぽすんと座った。  これからどうしよう。  最後に誰の顔を見たい? 怜は考える。ばあちゃんの顔を見て、それから食堂と商店街のみんなの顔を見たい。沢城と、調理場を仕切る重雄さんには迷惑をかけてばかりだ。みんな、怜の頼みに応じて集まってくれた人たちだった。ろくに料理もできない怜を鼻で笑わず、仕事と食事を提供するひとつの『場』を作り上げるという考えに乗ってくれた。  いまだに、怜が調理場でできるのは仕込みや配膳だけ。調理場での重雄さんは厳しい。おかげで包丁の使い方は上達したけれど、卵を割るのは今も怖い。  ばあちゃん、何してるだろう。  もう一回挨拶したら、江藤さんの所に行かないといけない。蒲田には手を出さないでくれと、這いつくばって頼みこむ。オレが最後にできるのはそれだけだ。 「怜」  木島が声をかけている。 「はい」 「何か温かいものを淹れよう。ココアがあるが……飲むかね?」 「ココア。……お願いします」  にこりと笑うと、木島は電気ケトルをセットし、マグカップを用意し始めた。  その仕草をぼんやり眺めながら、怜は考え事の続きに戻る。  2年前の事件の後、それでも怜は死ななかった。  人は誰でも失敗するもんだよ。  ばあちゃんは言った。  取返しのつかない失敗なんか、いくらでもある。それでも人間、次を生きなきゃいけないことになってる。死ぬよりしんどいけどね。理由? 私にはよくわからんねぇ。  あの時2人は、どこからか手に入れた布地の整理をしていた。小さな端切れが大量にあって、それを色の系統や大きさごとに分けていく。  青い色はこっち。黄色は……。 「これ、あんまりきれいじゃない」  怜がもそりと呟く。鼠色で、しかも15センチ四方程度の小さい布だった。片隅には血の跡のようなシミまである。  ばあちゃんは怜の手元を覗き込んで言った。 「ちゃんと、似た色のところに入れといて。使いどころはあるから」 「なんで?」 「パッチワークをやるときに、他の色との組み合わせでその色が生きることもある。生かせる場所に生かせる部分を使うから、捨てることない。今の時代は端切れも大事だ」  そういうものなのかと怜は思った。  生かせる場所に、生かせる部分を使う。  蒲田の街のことを考えている時、怜はいつもこの言葉を思い出す。なんとなく、それは布地の話だけでなく、もっと深い意味がある気がして。  俺も、お前も、人はみんな同じ価値を持ってる。  薫さんも、最後に同じようなことを言っていた。  木島がマグカップを持ってきて、怜は両手でそれを受け取った。ココアの優しくて甘い匂いに包まれる。 「あったかい」 「そうだな。……舌をやけどするなよ?」  顔を上げる。優しくからかうような目だ。 「子どもじゃない」 「知ってる」  のんびり言うと、木島は隣に座った。  そっと一口ココアをすする。甘くて、コクがある。木島も何か飲んでいた。 「何、飲んでるんですか?」 「ん? 貰い物のインスタントコーヒーだが……私の口には合わないな」  ソファーの横にあった小さなテーブルを2人の前に持ってくると、木島はそこに自分のマグカップを置いた。  よくわからない静かな時間だった。ただ並んで、目の前のダブルベッドとその向こうの執務デスクを見つめている。 「お風呂に、入らないんですか?」 「もう少ししたらな」  ココアを飲みながら、横目で木島の様子を伺う。こっそり見たはずなのに目が合って、怜は焦って目を逸らした。  なんでこの人、ずっとこっちを見てくるんだろう? マグカップをテーブルに置いて溜息をつく。別に抱いてもくれないのに。 「君は……」  不意に木島が動いた。怜の体が反応する。はぐらかすように、木島は自分のマグカップを取り、一口飲んだ。 「これからどうするつもりだ?」 「これから……」 「昼間、君のところに江藤が来たというのは、君を連れ出す時に沢城から聞いた。一週間以内に君が食堂を出なければ火をつけるという条件を残して行ったそうだな。君はどう対処する?」  怜はどんよりした目のまま、力なく答えた。 「蒲田は、2年かけてみんなと作った街だ。小さいけど、でも大事な場所だ。だから……明日は江藤さんのところにひとりで行って、土下座して頼みこむ。オレを殺してもいいから、蒲田には手を出さないでくれって」 「その後は?」 「江藤さんが殺してくれなければ……」  その先の人生なんか、今の怜には存在しなかった。自分さえいなくなれば、みんなは生きのびる。それでいい。  木島はマグカップを持ったまま、呟くように言った。 「自分の場所を、自分で守ろうとは思わないか?」 「守りたくても、オレがいたら蒲田はなくなる」 「そうじゃない。蒲田は君のものだ。元からな。あの街並みを作る前から、君はあの街の統括者だった。違うか?」  何を言っているのかわからず、怜は顔を上げて木島を見た。真剣な目だった。 「元から?」 「そうだ。中央線南は君のものじゃないのか?」 「……何を言ってるのか、わからない」  木島は溜息をつき、マグカップをことりと置いた。 「よく考えろ。いいか。ここが正念場だ。2年前のあの時のことを思い出せ。そもそも中央線南を統べていた者は誰だ」 「か……佐木さん」 「そうだ。江藤じゃない」 「うん。佐木さんが図書館で統括ペンダントを守っていた。あの抗争でも、全体を指揮していたのは最初から最後まで佐木さんだった」  中央線南の真の王は、書庫を守る『司書』だった。 「では聞く。君はなぜ2年前に書庫に入った」 「それは……」  ずきんと胸に痛みが走る。佐木の命令を無視したことで、自分は最悪の事態を引き起こした。絶対に覆せない失敗。図書館の屋上で、佐木は最後まで怜を呼んでいた。  頼むから行かないでくれ。ここにいてくれ。  それを無視したのは自分だ。  一番大事な時に、命令違反という一番やってはいけないことをした。 「オレが……考えなしだったから」 「そうじゃない」  木島が手を振った。 「なぜ、自分が書庫に入れると思った? 他の人間は誰も入らなかったのに。それは、お前だけが自分はあの火の中でも短時間で目的を達成できると考えたからだ。なぜだ」  そういえば。そこを考えたことはなかった。 「統括ペンダントの場所を……」  他に誰も統括ペンダントの場所を知らなかった。怜は今まで考えもしなかった可能性を考え始めていた。自分は統括ペンダントの場所を知っていた。なぜ? それは。 「薫さんに、教えてもらったからだ」 「そうだ。あの時にペンダントの場所を知っていたのは佐木本人、そして江藤。残るひとりはお前だけだ。佐木と江藤は共同統括者として運命を共にしていた。では、中央線南の統括者が死んだ時、それを正式に継承する者として指名された者は誰だったんだ」  怜は目を見開いた。  あれは……雑談じゃなかったのか。酒を飲み、鯨の話をしたのは自分だった。薫さんは……そういえば、なんとなく嬉しそうだった。薫さんは、ずっと嬉しそうだったんだ。  怜が覚えられるように、薫さんは紙に書いてくれた。イシュマエル。船が転覆したときに、たったひとり生き残る者。 「薫さんは……オレを後継者に指名していたのか?」 「考えろ。怜。高遠に踊らされる可能性を知っていてなお、佐木はお前にペンダントの場所を教えた、その意味を。『正式に』ペンダントの場所を教えられ、実際に引き継いだのは誰だ?」 「オレ、だ」  怜は思わず立ち上がった。  考えろ。考えるんだ。  じっとベッドを見る。その向こうの執務デスクを見る。  真実を見ろ。中央線南の真の王は誰だ。 「薫さんは……高遠と決着がついたら『政府』に戻ると合田さんに言っていた。中央線北の統括は合田さんに任せると。でもあの時、南をどうするかは何も言っていなかった。江藤さんは……」 「江藤は佐木と同じように『政府』出身だ。東京の覇権争いに決着がつけば、佐木と一緒に『政府』に戻ることになっていた」  木島と目が合う。彼の目もまた、挑むように光っていた。怜はその目を正面から見返しながら、息を吸った。 「つまり高遠を倒した時点で、中央線南の統括者はいなくなる。それを見越して、薫さんはオレを継承者として考えていたんだ」  そうだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう?  あの時の怜の行動は、正式な王位継承の『儀式』だったのだ。前の王から教えられた場所へ行き、危険を冒して自分でペンダントを取って戻ってくる。言われてみれば、薫さんは燃える図書館の中で、「ペンダントを返せ」と一度も言わなかった。 「蒲田を含めて、中央線南の統括は、オレがあの瞬間に引き継いだんだ……」  満足そうに木島が笑う。 「そうだ。それを横から卑怯なやり方で奪ったのは誰だ」 「……オレの父親、高遠周だ……」  考えろ。奴は怜のことを愚かな子供と呼んだ。それは奴の策略だったのだ。誰よりも、高遠自身よりも高貴な場所にいる怜を引きずりおろし、最初から継承権はなかったのだと錯覚を起こさせるために、奴は言葉を操ったのだ。  木島は低い声で言った。 「なぜお前が江藤の足元にひざまずく? なぜお前が高遠に好き勝手にやらせている? 蒲田はお前の土地だ。そしてそこにお前は自分の街を建てた。お前はなぜ、這いつくばることでしか自分の土地を守れないと思うんだ? 前統括者である佐木薫から、お前は何を学んだ」  怜は立ったまま、木島に向き直った。  なぜ。なぜ自分は虐げられなければならなかったのか。  それは高遠が、怜には力がないと錯覚させるためだったからだ。すべての嘘に惑わされ、自分は無様に逃げ出した。  引き攣るような痛みに気づき、右手を見る。固く拳を握っていたせいで、傷痕が白く浮かび上がっていた。  オレはなぜ生きている。痛みを感じる体の中で、熾火のように魂が光る。もう一度。もう一度だ。  取返しのつかない失敗なんて、誰だってするものだ。  でも、次を生きなきゃならない。  薫さんなら、きっと不敵に笑う。決して逃げず、高遠を罠にかけることだけに頭を使う。  オレは、薫さんを撃った。  そしてそれと同時に、薫さんの魂を引き継いだ。  目を覚ませ。心の深い深い場所に潜む怒りに、もう一度火を注げ。薫さんなら、持てるすべてを使って自分の街を守るだろう。あの図書館で、薫さんは最後まで屋上に残っていた。あの人を今も愛しているなら、オレは、オレの街を最後まで守らなきゃいけない。最初に死ぬようなやり方じゃなく、あの街が誰にもめちゃくちゃにされないことを見届けるまで、生き抜くのがオレの責任だ。  右の拳をしばらく眺め、やがて怜は吹き上がる炎のように、壮絶な笑みを浮かべて木島を見つめた。 「あなたはオレを『切り札』にすると言った。今わかった。あなたの狙いは、オレが目覚め、父親を倒して東京を手に入れること。あなたはオレに東京を統治させることで、この街に秩序を取り戻すつもりだ」  木島がにやりと笑った。 「正解だ。怜。虐げられてきた者なら、私がこの街に公平な秩序を取り戻す必要性を理解できるだろう。私は君を駒に使う。君は私と『政府』を後ろ盾として利用し、高遠を排除する。私はそのために君の元へ来た。君が自分の意志で東京を統べる者となり、私と対等の場所へ自らの力で上り詰めるために」  怜は思った。  そうだ。おそらく木島はこの瞬間を待っていた。  自分には価値がないと思いこんでいる者、生きる気力のない者に興味はない。彼が望むのは、自分の価値をきちんと理解し、木島と対等に話す者。  彼は怜を作り変えた。強者に気圧され、おどおどと後ろをついていく者から、強者と肩を並べ、共に挑む者へ。  君はあの夜、誰に何をした。  木島の最初の問いかけに、怜は頭の中で答えた。  オレはあの夜、オレを殺した。オレの魂を汚し、価値のないものとして捨てた。  でも自分はまだ生きている。薫さんの意志を継ぐ者として。己の魂を拾いあげ、もう一度その血を拭え。人は死なない限り、失敗と共に次を生きなきゃいけない。  木島の顔を覗き込み、怜は誘惑するように笑いかけた。 「木島さん……あなた、本当はオレを抱きたいんじゃないですか? でも、弱弱しく言いなりになるオレは好みじゃない。……楽しみに待っていればいい。オレは東京を獲りに行く。すべてを取り戻した暁には」  怜は木島の耳に口を寄せ、掠れた声で囁いた。 「高遠の死体の横で、抱かれてあげます」

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