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第108話 蒲田にて(28)

 気絶していたのは、ものの数分だったらしい。  目を開けると、薫はまだドアの前に転がっていた。怜は真面目な顔で、薫の右手に白いパッドを貼っているところだった。 「戻りましたか?」  静かに怜が聞いた。 「……気絶、してたのか?」 「えぇ。あなたがこんなに取り乱すなんて思わなかった。立てますか?」  左手をついてなんとか起き上がると、薫は壁を伝ってよろよろとベッドに向かった。怜が支えようとしているのはわかったが、今は触れられたくない。伸びてきた手を弱く振り払い、薫はベッドに倒れ込んだ。  片足がはみ出ている。上げる気力もなく虚脱状態のままベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめる。  怜に撃たれた後も、自分はずっとこうしていたと思い出す。  どうして。  翔也、俺はお前に甘えすぎていたのか? 一撃で急所を刺し息の根を止めたいと思うほど、お前は俺が疎ましかったのか?  怜は黙ったままベッドの反対側からよじ登り、薫の隣でヘッドボードに背中を預けた。  薫の取り乱し方に気圧され、自分は冷静になってしまったらしい。  2人はしばらく無言だった。  数分も経った頃、怜が静かに言い始めた。 「江藤さんの伝言には続きがあるんですけど、話してもいいですか?」 「……なんだ」 「『もう、赦してやれ』って。オレのことも、薫さん自身のことも」  俺自身を、赦す?  薫は身を起こし、自分もヘッドボードに寄りかかった。  隣の怜を見る。  澄んだ眼差しだった。不安そうではあるけれど、怜は真剣に薫を見ていた。 「あなたの『最愛の人』って、薫さんのことなんですか?」 「いや……いや、違う」 「じゃあ、あなたと薫さんとは、どういう関係?」  薫は答えなかった。どう答えればいい? 頭がうまく働かなかった。  俺自身を、赦す。それはどういう意味だ。  2年前、俺は高遠が怜を潰すのに加担した。怜を守ろうとし、気づかぬうちに怜の思考をコントロールしようとしていた傲慢な自分を、薫はまだ赦していない。  そのことを言っているんだろうか。  違う気がする。  今のこと? 2年かけて高遠の支配圏に部下を大量に潜り込ませ、自分もずっと高遠の部下として動向を探り続けている。同時に『政府』の方では警察機構を東京に入れる準備をし、最後の要として怜を作り替え、高遠を潰すために送り込む。  そうやって怜が父親との軋轢を克服できるように……。  俺が2年かけて東京を怜のためにお膳立てしたことを、翔也は怒っているのか。以前にも言われた。私情を挟みすぎるなと。俺は……今の自分には私情しかないと開き直った。  まぁ、客観的に見たら過保護だと思う。怜のために全部用意してる。  そうか……そうだな。俺は2年前から何も成長していない。いまだに高遠と同じことをやってる。周囲の環境を動かして、怜をコントロールしようとしてる。怜本人の意志に任せると言いながら、その意志が働く余地を塗りつぶしていってる。  俺はバカだ。  翔也に愛想を尽かされてもしょうがないほど、俺は怜に執着し、思い通りにすることに人生を懸けてる。  これは愛情じゃない。自分の思い通りに相手を動かすなんて、一番赦されないことだ。  全部やめろ。『東京』から、怜から手を引け。  翔也、お前はそう思ってるのか?  手の平で顔を覆ってうつむく。今のこの最悪な姿は怜にさえ見られたくない。  怜は……どう思っているんだろう。父親にコントロールされ、今なお木島に──薫にコントロールされていることを。翔也は怜に直接会い、薫のコントロールから怜を解放してやるべきだと考えたのだろうか。  そうかもしれない。  怜は誰をも魅了する。恋愛感情とは関係なく、会う人に未来を期待させる。翔也も怜と話すことで、怜の将来のために薫を切り捨てさせるべきだと思ったとしても、不思議じゃない。 『東京』にとって価値がないのは、俺の方なのか。  精神的な支柱が音を立てて折れてしまった気分で、薫はじっとしていた。  心配になったのだろうか。怜の顔が近づく気配がする。  触らないでくれ。頼むから放っといてくれ。  だが怜は離れていかなかった。そっと頭が抱き込まれる。じっと、熱を分けてくれる。 「……お前は江藤と何を話したんだ?」  呟くように薫は聞いた。 「薫さんのことを、話しました」  俺のこと? 思い出話に浸ってきたのか?  惨めな気分のまま、薫は怜の胸の音を聞いていた。穏やかな鼓動が耳を打っている。怜の命の音に、薫は耳を澄ませた。とくん、とくん。  お前は薫を想いながら今も生きている。傲慢な意志で今もお前をコントロールしている醜い男のことを、お前はまだ江藤と話す。 「どんな……ことだ」 「一度、図書館で晩ご飯のことを話したって。薫さんは、オレが読んでいる料理の本をバカにしないで、ご飯の話をしてくれたって」  そんなこともあったな。あの穏やかな時間がもう一度欲しかった。すべての重荷を忘れ、ただ怜の優しい寝顔を包みこんで、眠りたい。 「考えてみたら、オレはずっと誰かに行き先を示され、誰かに手伝ってもらってた。2年前に薫さんを撃った……後も、オレは蒲田に匿ってもらって、そこで面倒みてもらった。集まってくれた人がいて、オレは蒲田の街をひとつずつ作った。  そうやって、オレが小さくて弱いから、街ができた。あなたはオレにその街を守る手段、武器を教えてくれたって。  オレは薫さんが遺した街を、ただ、薫さんの意志に従って生きてきたわけじゃない。自分の街としてこの『東京』を生き返らせるために生きている。そのために高遠もあなたも利用すると」 「私は、君を思い通りに動かそうとしている。君は……誰かにコントロールされることに嫌悪感を持っていた。違うか?」  怜が薫の目を覗き込み、くすりと笑った。 「えぇ。2年前は、高遠を憎んでいた」  綺麗な目だ。吸い込まれそうなほど純粋な光を湛えて、怜の目は人を見る。 「……今は?」 「久しぶりにあいつに会って、オレは拍子抜けしたんです。昔は、あいつが怖かった。あいつに操られることに怯えていて、あいつの言葉に反発しようと身構えていた。でも……今のあいつを見たら、なんだか……かわいそうな感じがして」 「かわいそう?」 「ええ。哀れでちっぽけな生き物だった。なんにも自分でできないから……幸せになるために自分で戦うことができないから、口先だけで偉そうに嫌なことを言っていただけの、変な生き物。なんでこんな奴にオレは踊らされたんだろうって思ったんです。突然現れたオレに何も言えず、部下たちの勝手な行動を止める力もない。  あんなの、復讐するだけの価値もない。バカバカしいほど、どうでもいいやって思ったんです。  ただ、みんなで作った街だけは、守りきりたい。高遠の部下たちの派閥争いをすべて終わらせて、オレの街がめちゃくちゃにされないようにしないと。  今のオレの目的はそれだけです。だから江藤さんには、派手に中央線南を攻めて欲しいって言ってきました。東京全体の危機感を煽って、オレが一気に全体を掌握する。短い期間で決着をつけます」  翔也は驚いただろうなと薫は思った。怜は、薫のやり方を完全に身に着けている。  そうか……俺が、怜をコントロールしたいとか、守りたいとか傲慢なことを考えている間に、怜は自分の中に蓄えたものを使いこなし始めていたのか。  いまだに高遠と同じことをやってる俺は、怜の邪魔でしかない。怜が薫と対等に話せるところまで上がってきたら真実を告げようなんて、どれだけ傲慢なんだ?  最初に蒲田の街を歩く怜を見た時に、気づくべきだったんだ。  怜が蒲田の街を作り高遠の影響から離れられたのは、怜自身の努力だった。自分はどうしてそれを、思い通りに怜を作り替えるための土台ができたなんて考えたんだ。  反吐が出るほど嫌な奴だよ、俺は。 「怜……今のお前は、2年前とは違う。それでも、薫に会いたいのか?」  静かな問いかけだった。お前は成長し、俺は置いていかれた。お前は生き抜き、俺は2年前に死んだままだ。  怜の心臓は穏やかに脈打っていた。 「えぇ……会いたいです。2年前のことを謝りたいし、色々なことを話したい」 「まだ?」 「えぇ」  怜はきっぱりと言った。 「どうして」 「薫さんが、寂しがってるんじゃないかって思って」  予想もしなかった答だった。寂しがる? どこからそう思ったんだ? 薫が思わず顔を上げると、怜は穏やかに笑った。 「あの人、割と面倒な性格なんです。寂しがっていても、自分がリーダーだと思ってるから人に甘えられないし、芯まで強くあるべきだと思ってるから、そのリーダー面を自分じゃ捨てられない」  それは初めて聞く、怜の自分への評価だった。  そんなことを思ってたのか……? 「高遠と違って、お前を支配しないようにしてたから、とかじゃなく?」  くすくす笑って、怜は薫──木島の髪をなでた。 「あぁ、薫さんは高遠よりひどい人でしたよ。オレを独占したくて、全部自分の思い通りにしたくて……。2人でお風呂に入ったら、オレを頭のてっぺんから足の先まで洗いたがるんです。髪の毛をドライヤーで乾かしたがるし、足の爪を切らせてくれって真剣に言うし。  あの人が一番安心して眠るのは、オレをがちがちに抱え込んで、絶対に逃げられないようにできた時でした。足も押さえ込んで、オレは身動きもできなくて。途中で抜け出してトイレに行くのも一苦労だし、重たいし。しかも、自分の思い通りに面倒をみられないと、わかりやすく拗ねるんです」 「……そういう、奴なのか?」 「そういう人でした。でも、薫さんは自分の弱さを知っていた。オレをコントロールしたがる自分を嫌悪していたと思います。可愛い人だったんですよ。高遠と違って、そういう支配は全部、オレを甘やかすことで自分が甘えたいから、オレをリラックスさせることで自分が幸せを感じたいからだったと思います。  純粋で、真面目な人だった。でも、卵ひとつ割るのさえできないオレに、自分のペースで練習すればいつかできると言いながら、自分でやってしまう人でした。仕方のない人だった。でも、優しかった。  薫さんの重さに耐えられる人は、多分他にはいないと思うんです。だから……きっと寂しがってる」  薫は起き上がり、怜の顔をじっと見つめた。  赦してやれ。薫。お前自身を。  翔也、お前は俺を裏切ったわけじゃない。それは俺の傲慢な早とちりだ。お前が心配していたのは、怜が折れることじゃなく、俺が折れること。俺がこれ以上もたないことを、お前は見抜いたんだ。怜が俺のところに上がってくるのではなく、俺が自分から怜のところへ近づくのが、お前の願いだった。  俺がやるべきなのは、怜に甘えたくて甘えたくて仕方がない自分を赦すこと。  差し伸べてくれる怜の手の存在を赦すこと。 「怜」  そっと囁き、怜の頬に手の平を当てる。温かくて柔らかい肌を感じ、その澄んだ目を覗き込む。  愛してる。  何もかもどうでもいい。俺は、ただお前を愛したいから、愛してるだけだ。  策略も、支配も、すべて言い訳だ。  俺はお前を抱き込んで、逃がしたくないだけだ。自分の意志で俺を愛してほしいなんて、どうでもいい。お前は俺がそう思うまでもなく、嫌なら勝手にいなくなる。  お前がこの街に踏みとどまっている限り、俺は赦されている。  最初から……。そうだ。初めてお前の目を見たあの瞬間から、2年前にお前が俺の心臓を貫いた時から、そしてお前が食堂の階段を下り、俺の銃を構えた時から、俺はお前の美しい手に包まれていた。俺の胸に食い込んだ銃弾は、怜を父親から切り離すためのものじゃなかった。俺を高遠から切り離すための一発だったんだ。  くちづけは柔らかく心臓を濡らし、心の沼に、澄んだ一滴を落とした。  悲しみを薄めてくれる小さな水の粒は、沼の底へ広がっていく。  生きていける。  怜。お前に支えられて、初めて俺は息ができる。  薫は怜から唇を離し、自分の顔を覆う『木島』を剥がし始めた。

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