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第107話 蒲田にて(27)
定宿のエントランスに木島が足を踏み入れると、怜が駆け寄ってきた。
蒼白な顔だ。怜は木島にすがりつき、早口で言った。
「あなたに聞けばわかるって、わ、わかるって」
「何をだ? 何があった? ……とにかく部屋に上がろう。誰かに聞かれたくない」
先日、緊急用に電話番号は教えてあったが、こんなに早く怜が連絡してくる事態になるとは思っていなかった。数時間前に怜は江藤に会ったはず。何があった? というか……江藤は怜に何を言ったんだ?
エレベーターに乗り込むなり、怜は木島の襟首をつかみ、顔を近づけた。
「え、江藤さんが、江藤さんが」
「部屋に入るまで重要なことは話すな。だめだ」
木島は厳しい口調で言った。どこで誰が聞いているかわからない。迂闊なことを言わせるわけにはいかないのだ。
肩をぽんぽんと叩いてやると、怜は荒い息のまま木島から離れ、壁に手をついた。ふらふらで、立っているのもやっとという感じだ。
チンという音と一緒に、怜はエレベーターを飛び出した。部屋のドアの前へ走っていき、木島を待っている。なんだか子犬のようだと思いながら、木島はいつもの手順でドアを開けた。
怜は木島より先に部屋にずかずか入っていくと、振り向いた。イライラしているような仕草だ。
「一体、何があった」
部屋に再び鍵をかける。それを待っていたように、怜は乱暴に木島の襟首をつかみ、ドアに押し付けるように詰め寄った。
「薫さんが生きてるって! あなたは知ってるんでしょう?」
あの野郎!!
脳天をカチ割られるような怒り。
一瞬で、木島──薫は激昂していた。
最後まで真実を明かさないと俺は言ったはずだ。勝手にバラしやがって! 全部の計画がこれでパァだ!!
高校時代からお互いによく知っていた。2人で協力しあって生き抜いてきた。誰よりも──肉親よりも恋人よりも信頼がおける相手だと、疑いもしていなかった。
この2年、血を吐く思いですべての計画を立て、実行してきた薫を、江藤は一番近くで見てきた。
その男が、よりによって今、ここで、足元からすべてをひっくり返したのだ。
爆発するような怒りが、腹の底から脳天まで突き抜けていく。
ここまできて、まさか一番考えていなかったところで裏切られるとは思っていなかった。
ゴギッと奥歯が鳴る。意識が遠のくほどの怒りに、薫は立っていられなくなった。ドアに寄りかかり、もがくようにドアを引っ掻く。ギギ、という嫌な音が部屋に響き、怜はひるんだ顔になった。
「……あいつは、何て言った」
「2人でもう一度ちゃんと話し合えって」
ふざけるな。2年前、言葉は意味を持たなかった。高遠と薫は言葉で怜を操ろうとし、怜は砕けた。だからこそ話し合うのは、怜が高遠の言葉を聞く可能性をすべて断った後だと誓ったのに!
どんなに、どんなに怜を抱き締めたいと、もう一度この腕に抱いて、すべての悲しみから守りたいと俺が思っているのか、あいつは知らないはずがないのに、なぜ裏切った! なぜ!!
激烈な感情にまかせて、薫は拳を振りかざした。ドアの横のキッチンに叩きつける。
ガシャァン!
壮絶な音と共に、置きっぱなしのガラスのティーポットが砕けた。
「危ない!」
怜の声がする。ぽたん、ぽたん、血が滴る感触がする。
霞む目で、薫は拳を見つめた。右の手の平の脇──あぁ、怜と同じ場所だ。深い切り傷から赤い血が湧きあがり、手首を伝ってワイシャツの袖を濡らしている。
「止血しなきゃ。救急箱ありますか?」
焦ったような怜の声。
「あぁ……デスクの右、一番下の引き出し……」
ドアに寄りかかったまま、薫はずるりと座り込んだ。
全部終わる。俺は、最も信頼していた友に裏切られ、最も愛していた男を失った。
目の前が暗くなってきていた。どうして……。翔也。どうしてお前は、最悪のタイミングで裏切ったんだ。
ぐらりとバランスを崩し、薫はドアの前で倒れこんだ。ゴンと頭が壁に当たる。鈍い痛みと共に、すべてが闇に落ちていく。
悲しみの沼の底へ、底へ、底へ。泡がひとつ、ごぽんと口から漏れて浮かんでいく。
「しっかりしてください! 今止血しますから」
怜の心配そうな声が、どこか遠い水面の方から、くぐもったように響いていた。
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