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第106話 横浜にて(3)

 江藤の前で、怜はふと顔を上げた。窓の外を見ながら、じっと鳩の鳴き声に耳をこらし、呟くように言う。 「……江藤さん、あなたは何が好きなんですか?」  なんの話を始めた? 「好きって?」 「ご飯です。オレは、祖母が作ってくれたコロッケと角煮とか、唐揚げが好きだと薫さんに話したことがある」  はぐらかすような流れに、江藤は溜息をついた。所詮、こいつはその程度か。 「そうだな。俺も唐揚げは好きだ。あとは……なんだろう、カボチャの煮物とか、天ぷらとか……」 「カボチャが好き?」 「あぁ」  怜がふわりと微笑んだ。穏やかな顔だ。 「薫さんは大学時代、弟さんと一緒にカレーとポテトサラダを作った話をしてました。あの時、オレは図書館で本を見ていた。料理の本です。薫さんみたいな本が読みたかったけど、難しくて。でも写真と一緒に料理の作り方を説明する本は、面白かった」  懐かしそうに、怜は目を細めた。 「薫さんは、本を読むのに大事なのは、自分が楽しいと思うことと、書かれていることを理解できることだと言った。オレが読んでいるものをバカにしなかった。そしてご飯の話をしてくれた」  なにかの隠喩を話そうとしている。江藤はそれに気づいて、話の続きを聞くことにした。結局、薫も自分も怜には甘いのかもしれない。 「オレは頭が悪いけど、薫さんの言葉は覚えてる。大事な人と食べるだけで、どんなものでもご馳走になるって」  怜はコーヒーを飲んだ。江藤が淹れたコーヒーだ。たとえ毒が入っていると気づいても、怜は飲み干したかもしれないと江藤は気づいた。 「2年前、薫さんを撃ってしまって抜け殻みたいになっていた時、同じチームだった人が、オレを車に乗せて蒲田のばあちゃんのところへ連れていってくれた。高遠から匿ってくれたんだ。その時、その人はオレに生きていてほしいって、いつかオレだけが高遠を倒せるんじゃないかって、そんなことを言っていた気がする。  ばあちゃんは、飲み食いもできなければ声も出せない状態のオレの面倒をみてくれた。ゆっくりゆっくり時間をかけて、オレはもう一度話せるようになった。  それから、オレは蒲田の街を作りだした。最初は何もなかったんだけど、ちょっとずつ人を集めた。オレは、誰でもあったかいご飯が食べられる場所を作りたいって思った。大事な人と。そういう人がいなかったら、新しい人と。今の東京では、ひとりでご飯を食べるのは寂しいから。  オレは料理ができないけど、料理人の人とか、昔レストランでバイトしてた人とか、いろんな人が、仕事ないかって来てくれた。オレは食器とか、食材とかを、あっちこっちにメールしたり電話したりして、みんなと集めた。  蒲田は、オレの街だ。這いつくばってでも、オレはあの街を守りたい。  よく考えたら、最初から、オレはひとりでなんにもしたことがない。どこに行くのかも、何をするのかも、全部、誰かが示してくれて、誰かが手伝ってくれた。そして2年経って、木島さんが現れた。あの人は、何を考えてるのかイマイチわからないけど、でも、オレの話を聞いてくれた。そして、中央線南を本当に仕切らなきゃいけないのは、オレだと気づかせた。  オレは自分でも知らないうちに、中央線南を仕切り始めていた。高遠の支配の及ばない、清潔であったかい街を。  木島さんは言ったんだ。蒲田は最初からオレの土地だったと。オレは、自分の土地に自分の街を建てた。だからそれを主張すればいい、這いつくばることだけが、守る手段じゃないと。  オレは2年かけて、中央線南をすべて獲り返すために必要な基盤を築き、人を集めていた。あなたは、オレが自分を甘やかしていると言った。そうだ。オレは徹底的に甘えている。自分の過去に浸り、傷を舐めている。でも弱いからこそ、オレは人を集め、できることを提供し合って生きる場所を作れた。  江藤さん、誰もが強いわけじゃない。小さい人たちが集まって街はできている。木島さんが、蒲田を守るための武器をオレに与えた。誰かがオレを助けてくれるのは、これが最初じゃない。だから、オレは迷わずその武器を受け取れた。拒絶せず、素直に。  世界は弱い人でできている。人こそがオレの財産であり、生きる手段であり、生きる目的だ。  人は誰でも失敗する。取返しのつかない失敗なんか、世の中にあふれてる。東京都心に空いた穴なんか、オレのちっちゃい人生とはケタ違いの失敗だ。  だから、敢えて言います。オレは弱い。だからあなたの助けも必要だ。オレは薫さんの後継者として生きているんじゃない。薫さんが遺した街を、オレの街として生き返らせるために生きている。そのためなら、手に入るものすべてを使う。  あなたは、薫さんのためだけに生きているんですか? それとも、『政府』のため? あるいは……『東京』のため? あなたが生きる理由は?」  お見事。  江藤は心の中で盛大に溜息をついた。怜はひとりで江藤のところに乗り込み、自分が対等に交渉する権利を勝ち取った。江藤の表情を見て、怜は微笑んだ。艶やかに、華やかに。  いつの間に、こいつはこんな大物になった? 薫の誘導があったとはいえ、この緊張する場所でひとりでこれだけの演説ができるなんて。 「俺は、俺のために生きてる。この神奈川も、この国も、すべての人間も、俺が『よし』と言えるものになるまで、俺のものだ」  くすりと怜が笑った。 「それもいいかも。あなたは面倒見がいいんですね。……今度、食堂にご飯を食べにきてください。かぼちゃの煮物、おいしいですよ」  2人は向かい合ってコーヒーを飲んだ。 「で? お前は何が望みだ。蒲田から手を引けと?」  怜の目が、今度こそ力強く光った。 「いいえ。逆です。あなたは蒲田だけじゃなく、中央線南をすべて取り戻すつもりで侵略してください。裏切りを許さず、高遠たち全員を吊し上げるために」  目を丸くして江藤は怜を眺めた。お前は、薫に入れ知恵でもされてきたのか? 「……その作戦、誰に教わった?」  怜は煌めく目で江藤を見返している。 「誰かに教わるような時間なんかありません。今、ここに来るまでに考えただけです。一番効率的な作戦ってなんだろうって。高遠のケツに火をつければ、あいつは今度こそ焦る。オレはあなたの侵略を迎え撃ち、あなたを東京から叩き出すことで、高遠配下の全員を掌握する」 「……」  こいつは、薫の考え方のすべてを吸収している。きれいな顔して、とびきり過激だ。 「いいだろう。防衛する準備をしておけ。ただ……、お前の演説に免じて、俺は武器を持たない者は一切攻撃しない。火も使わない。それでいいか?」 「ええ。ありがとうございます。あなたへの見返りは何がいいですか?」 「そうだな……」  江藤は腕を組んで考えた。 「多分、お前たちがもう一度話し合うことかもしれん」 「? お前たち?」 「あぁ」  薫。悪いが俺は、怜の行く末も見たくなった。こいつはもう、お前が現れた途端にふにゃふにゃになるような弱い男じゃない。ただ、支えは必要だ。だから俺は自分の決断で動く。 「薫と、一度ちゃんと話し合え。そろそろいいだろう……あいつに言ってくれ。もう、赦してやれと。怜のことも、お前自身のことも」  怜の目が見開かれた。息を呑む音。手が震え始めている。その手が、何かを求めるように膝から浮き上がった。 「薫さんが……生きているっていうんですか?」 「自分で確かめろ」 「ど……どこに、いるんですか」 「さぁな。木島に聞け。あいつが知ってる」 「薫さんが、薫さんが」  ぶっ倒れそうなほど青白い顔で、怜はふらふら立ち上がった。 「お前、帰れるか?」 「運転、してもらい、ます」  喉に引っかかった声。 「そうしてもらえ。お前、まともに歩けないだろ」  呆然としたままの怜を、江藤は玄関まで連れていき、問答無用で押し出した。  さぁて怒りまくった電話が薫から入るのは何時頃かね? まぁ何時でもいいが。俺の読みだと、多分明日の朝。どうせ今夜は2人とも寝られないだろ。  江藤はマグカップを流しに運ぶと、配下との打ち合わせをするために、パソコンを立ち上げた。

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