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第105話 横浜にて(2)

 次の日、怜は午後1時きっかりにエントランスの呼び出しボタンを押してきた。  江藤はインターホンのカメラで怜の姿をチェックした。 「はい」 『こんにちは。木島さんから部屋番号をお聞きしました。高遠怜です。お話があって来たのですが、入れていただけますか?』  端正な声だった。 「おう、上がれ」  ボタンを押し、自動ドアを開けてやると、怜は中に入った。  来たか。さてさて、薫もいないことだし、どうすっか……。  ふと、面白くなった。薫の奴、まさかこのマンションの近くで怜のストーカーやってないだろうな? 過保護も、やり過ぎればただのヘンタイだ。  あいつほんと、なんだかんだ恋愛経験が少ねぇんだよ。しかも何に限らず暴走するしよ。  ピンポーンと軽やかな音がして、江藤はドアを開けた。怜はやはり江藤から見ると小さい。身長差は30センチ近くあるだろう。  2年前より痩せたなと、江藤は改めて思った。この間、蒲田の食堂で吊し上げた時にも感じたことだ。  好きな奴を撃ち殺すってのは、まぁまぁデカいトラウマだ。薫の思っているように、一気に自己肯定感まで上がったようには江藤には見えなかった。  江藤を見上げると、怜は困ったような顔をした。 「あの、入れてくださってありがとうございます。先日の件で、お話しに来ました」  硬い声だ。どうしても江藤相手には腰が引けるらしい。 「ま、上がれ。コーヒーか何か飲むか?」 「いえ……。えぇ……やっぱり、頂きます」  怜は素直に江藤の後をついてきた。広いリビングは、前の住人から引き継いだ家具がそのまま残っている。江藤自身の趣味ではないが、黒に統一されたスタイリッシュな調度品は別にストレスにならないので、江藤はそのまま使っていた。  怜はリビングの中を見渡し、また困った顔をした。 「そこに座れ、今コーヒー淹れてやる。っていっても、貰い物のインスタントコーヒーなんだが」 「ありがとうございます」  怜は示されたソファーに静かに座り、やはり困惑した顔で目を動かしている。 「どうした? 落ち着かないか?」  キッチンでコーヒーを淹れながら、江藤は声をかけた。何を見ているんだろう? 「いえ……あの、この部屋、江藤さんの部屋ですか?」 「あぁ、前に住んでた住人が、ここを引き上げて大阪に行くっていうから、家具ごと丸々引き継いだんだ。俺も成田に戻れってせっつかれてるんで、仮住まいにはちょうどよかった」  やっと、怜はほっとした顔になった。なるほど、こいつは住人の性格と部屋の内装がずれていることに、瞬時に気づいたってわけだ。  マグカップと砂糖、ミルクをトレイに載せて持っていくと、江藤は怜の前に置いてやった。怜はそれを眺め、一度持ち上げて香りを嗅いだ。いい傾向だ。変な薬を入れられたら終わりだからな。  一口飲んでみてから、怜は砂糖とミルクを入れた。スプーンでゆっくりかき混ぜる。 「このインスタントコーヒー……貰い物って言いましたよね?」 「あ? そうだ」 「誰から?」 「……仕事仲間だ。なんか、神戸の実家から大量に送られてきたって。何か気になるか?」 「いえ。ただ、木島さんが同じ物を飲んでいたなと思って」  やべぇ。こいつ、そういうところから人脈を判断してんのか? 薫と俺とのつながりがバレバレじゃねぇか。  コーヒーを持ってきたのは田嶋だった。彼は今や『政府』の最有力者になっていたが、いまだに実家の両親には、まともに生活もできない地域に住んでいると思われている。  江藤は自分のコーヒーを飲むと、テーブルに置いて怜を観察した。  どこから切り出すか。怜は考えあぐねているような顔で窓をぼんやり見ている。  高遠相手に啖呵を切りに行った時は、相当緊張していたに違いない。そして、江藤相手にはまた別な形で緊張している。自分が殺した男の親友。つい先日、江藤はその事実を容赦なく断罪した。  性質が違う2種類の過酷な状況に、怜は連日さらされている。  ……考えてみれば、今に始まったことじゃないけどな。  2年前の戦場で見た横顔と、今の怜の横顔とが重なる。あの時も、江藤に詰め寄られた時、怜はふと窓の外を見た。茫漠とした目。それが……鮮やかに変貌する。  怜の目に光が宿った。  スイッチが入ったな。江藤は得体の知れない興奮が背中をざわりと撫でるのを感じた。お手並み拝見といこうじゃないか。 「江藤さん。先日、あなたは食堂で言いました。一週間以内にオレが明け渡さなければ、食堂に火をつけると」 「言ったな。お前はどうする? 這いつくばって俺に赦しを乞うか? 惨めったらしくあの食堂を出ていけば、今回は満足してやる」  怜はゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。揺れる水面を眺め、それからテーブルにマグカップを置く。 「……あなたが食堂から出て行った後、俺はそうしようと思っていました。薫さんを殺した罪は、あなたに裁いてもらうのが一番公平なんじゃないかと。あなたに殺してほしいと、オレは惨めに思っていた」  今の怜が、本当の哀しみを見せられる相手は自分だけかもしれないと江藤は思った。薫はいない。木島は別人だと怜は頑なに思っている。2年前に、宿命的な裏切りを覚悟してなお薫を愛していると言い切った時から、怜は本質的に変わっていない。  壮絶な強さと、脆く砕ける弱さを持ち、悪魔のように白く、天使のように黒い。すべての者を泥の中へ引きずり込む恐ろしいカリスマ性を持ちながら、善良な魂を奥底に隠し持つ。  カミソリの刃の上に怜は立っている。バランスを取るのは元々難しかったのだ。薫でさえ失敗するほど。 「で? 今は、殺されるのは割に合わないと思い始めたのか?」 「えぇ……。あの時、江藤さん、あなたは知っていたんですか? ペンダントの場所が『白鯨』だと」 「知っていた。だがペンダントは権力の象徴だ。あれを手に取るなら、自分が中央線南を仕切ることになる。俺は面倒くさがりでね。最初に、薫と2人で『政府』を抜けて東京を仕切ろうということになった時、誰がペンダントを管理するか俺たちは話し合った」  怜はコーヒーを飲みながら、黙って江藤の話を聞いていた。 「結果、薫が図書館の書庫でペンダントを守り、俺はペンダントを持っているふりで盾になることになった。派手に動き回り、全体を仕切っているように見せることで、俺はペンダントと薫を隠した。薫は何度か、俺を心配して交代したいと言ったが、俺は承諾しなかった」  コーヒーを一口飲み、江藤は外を見た。 「俺は、あいつこそが王だと知っていた。俺は盾だ。自分たちの仕切っているエリアに危機が迫った時に、一切迷うことなく全ての責任を背負うだけの覚悟があるのは、あいつの方だった。俺は、同じ状況になった時に踏みとどまれない。その自覚があった。書庫の奥にいながら、薫は……王だった」  怜の目に痛みが走った。失ったものは、あまりにも大きい。 「そのあいつが、2年前のあの日、抗争直前に俺に言った。怜。お前を育てたいと。決着がついたら、お前に南のペンダントを譲ると。俺は了承した。元々、自分が仕切る気はなかったからな」  ひく、と怜の喉が鳴った。 「お前がペンダントを書庫から持ち出したと後で聞いた時、俺がどう思ったかわかるか? 裏切り者。お前は自分が継承したペンダントをあっさり高遠に渡して逃げ出した。薫と痴話喧嘩をやらかしたところまでは仕方ない。だがお前は、薫と俺が命がけで守っていたものを自分で引き継いでおきながら逃げたんだ。  なにが『宿命的な裏切者』だ。お前は高遠の犬だ。自分から高遠に鎖でつながれ、言われた通りに芸をするのを喜んでる、頭の悪い息子でしかない。なぜ高遠をブチ殺してでも、ペンダントを取り返さなかった。お前は、お前自身の薫への愛さえ裏切った。薫が守っていたものをあっさり放り出し、自分の感情に浸って泣いてるだけのクズだ」  怜は唇を噛み、下を向いて黙っていた。  苛烈な言葉に怜は反論しない。  さぁ怜、どうする? 2年間、お前はただ黙って泣いていただけだ。何年経とうと、裏切りの清算をするために立ち上がることさえできなかった。お前が立ち上がったのは、ただ、薫が手を差し伸べたからだ。  薫もお前もバカでしかない。薫はお前のためにお膳立てをした。お笑いだぜ。自分を殺した奴のために、自分を殺した償いのチャンスを用意するなんて。怜、お前もお前だ。言われるまで何もしなかったくせに。薫があそこで実際に死んでいたら、お前は死ぬまで自分を甘やかし、可愛そうな自分に酔っていたんだろう?  怜の唇が震えた。何かを言おうと必死で動かしている。厳しい目で、江藤はそれを見つめていた。  お前が高遠に押さえつけられていたのは知ってる。あの時の精神状態が、高遠によって歪められ、反撃できないように縛られていたのも知ってる。  だがそれでも、江藤は怜が2年間逃げていたその一点が許せなかった。今ここでそれを突きつけなければ、江藤自身が薫と怜を引き裂くだろうと思えるほどに。  怜、俺は薫と違って甘くないからな。俺を納得させることが言えないなら、俺はお前に真実を話さない。  江藤はじっと座って怜を睨み続けた。それは儀式だった。先王の右腕だった将軍が、次の王の実力を見定める。失敗すれば、王国も次の王も裸でうち捨てられる。  緊迫した時間。外では鳩がのどかに鳴いていた。

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