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第104話 横浜にて(1)

 その日の夜、江藤は横浜にいた。県庁近くの自分の部屋で『政府』の仕事を終え、適当に買ってきた弁当を開いているところに、電話がきた。 「おう」  相手は佐木だった。この間、怜を襲撃した後に話したきりだ。 「どうなった?」 『首尾は上々だ。明日の午後、怜がそっちに行く。横浜にいるか?』 「いるけど、唐突だな」 『怜が高遠の根城に乗り込んで啖呵を切った。まずはお前をダシに、中央線南の指揮権を高遠から奪うつもりだ。すまん、バタバタ決まった。怜が思っていたより早く結論を出したものだから、全員が慌ただしい』  江藤は苦笑いをした。ついに始めたか。 「『奪うつもりだ』って言ったって、お前が焚き付けたんだろうが」 『そうなんだが、ここまで怜の頭の回転が速いとは思っていなかった。トップスピードに乗るまで、もうちょっとかかると思ったんだが……あいつ、一瞬で高遠の配下全員を掌握した』 「それはそれは……」  佐木の予想を超えてくるとは、ずいぶんとおっかない。 『わかるか? あいつ、捨て身の攻撃で高遠の権力の基盤をひっくり返した。会合がお開きになった後、高遠の根城の外で全員がこそこそ動き出した。高遠を追い出して怜をトップに据えようと考える奴は、できるだけ味方の人数を増やそうと既に根回しを始めてる』 「嬉しそうだな」 『あぁ。楽しくてたまらん。もう少し誘導が必要かと思っていたが、怜は勝手にどんどん進めてる』 「ふ~ん。今、何してるんだ?」 『会合から出てきて、新参の派閥トップ、奥村との食事に出かけて行った。東京と神奈川との境界線の防衛について、話し合うんだとさ』  くっそ早いな。江藤は奥村に関する情報を頭の中で検索した。あいつは確か40代後半、高遠が中央線北を掌握する前に、北の東半分を仕切っていた奴だ。そこそこ有能だったが野心家で、高遠が東京に侵入した時には真っ先に手を組んで自分のエリアを明け渡し、以来高遠の配下として勢力を伸ばしている。2年前はまだ古参に押されていたが、今は中央線南の全体を任されているはず。  有力者たちが一瞬でトップをすげ替えて怜にしようと考えるなんて、どんな啖呵を切ったんだ? 「なるほどね。奥村も、怜を取り込んで中央線南の実効支配を高遠から取りたいわけだ」 『そういうことだな。怜の奴、さっさとひとりで行っちまった』 「寝るつもりで行ったのか?」  その質問を佐木にするのも変な気がしたが、野次馬根性には勝てなかった。 『どうだろうな。必要とあれば平気で寝るとは思うが、木島相手のやり方を見てると、思わせぶりに焦らして帰ってくるだろ』  佐木は自分が使っている人格を別な人間のように話す。多重人格だったんじゃねぇのと思うほど、その演技は堂に入っている。 「ずいぶん信頼してるな」 『怜はすべてを吸収して生きてきた。お前も明日会えばわかる。俺の話し方、高遠の嫌味くさい話し方だけじゃなく、お前の話し方も、あいつは覚えてる。あいつは……本当に優秀なんだ。2年前にあいつを潰したのは高遠と……俺だ』  苦しそうな声だった。2年前に、病院でじっと天井を見つめて動かなかった佐木を思い出す。 『俺はあいつの周囲にある裏切りの気配を全部コントロールしてやっているつもりで、怜を縛っていた。守ってやると思った時点で、俺はあいつに蓋をした。今、あいつに蓋ができる奴は誰もいない。あいつは自分が思った通りに行動し始めてる。俺ができるのは、あいつが再び自分を否定しないようにお膳立てをするところまでだ。そのフィールドをあいつは自由に歩いていく』  佐木はずっと話している。こんなふうにベラベラしゃべるのは、佐木には珍しい。  苦しいんだろうなと江藤は思った。怜がひとりで動くことへの心配や不安と、絶対に束縛しないという決意との間で、佐木はバランスを取ろうと葛藤している。 「なぁ薫」 『なんだ』 「お前、自分が生きているって、あいつに言ってやったらどうだ?」  一気に加速した怜も、ひたすら自分を押さえつけている薫も、このままだと、すれ違ったまま折れてしまう気がした。お前たちは、はたで見ているとお似合いなんだよ。こんなに近くにいるのに間に嘘を挟むなんて、いずれ限界がくる。 『だめだ』  佐木は即答した。 『怜を潰したのは俺だ。あいつが自分自身を手に入れるのを見届ける。俺があいつに赦しを乞うのは……最後だ』  お前も真面目だな。江藤は弁当に手をつけていなかったことを思い出し、蓋をしなおして電子レンジに放り込んだ。 「もうあいつは走り出したんだろう? 高遠の、あのグロテスクな王国の中を泳ぎ切るには、支えがあった方がいいんじゃないか?」 『まだだ』  佐木は頑固に言った。 「……しょうのない奴だなお前は」 『すまん』  やれやれ、相も変わらず世話が焼ける。これ以上言っても、佐木は聞かないだろう。 「で? お前は今何をしてる?」 『……奥村と怜が話してる店の外にいる』 「寒くないのか?」 『………………まぁ』  江藤は笑った。結局、過保護なんじゃねぇか。 「いいからお前、帰って仕事しろよ。田嶋が怒ってたぞ、成田に顔出せって」 『明日か明後日には顔を出す』  ぶすっとした声に、江藤は今度こそ声を出して笑った。 「風邪引くなよ。明日の午後はずっとこっちにいるって怜に言っておけ。」 『わかった……いつも世話になる』  電話を切ってから、江藤はそういえば箸を用意していなかったのを思い出した。放り出したビニール袋から割り箸を取り出し、それをぷらぷら振る。  俺は怜だけじゃなく、お前が心配だよ、薫。もう2年、お前はまともに休んでない。怜の前でも休めないような生活じゃ、お前自身が思っているより早く精神が折れる。  さぁてどうするか。  江藤は電子レンジの前で考えていた。

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