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第110話 蒲田にて(30)

 ゆっくりと服を脱がせ合うと、2人はキスを交わしながらバスルームにもつれこんだ。  温かい肌を密着させ、2年分の空白を埋めるように抱きあい、味わう。2年前と同じように、薫はがっつくように求めてこなかった。  怜はそれが嬉しかった。  2年前に群馬で一泊した時のあれは、別に薫が気を遣ったわけではなかったのだ。薫は何事も、ゆっくり考えながら少しずつ感覚を開いていくことを好む。自分の環境が納得のいくものになるまで、薫はコツコツと考えてひとつひとつ障害を動かし、その過程に喜びを感じるのだということに、怜はなんとなく気づいた。  時間は大して重要ではないのだ。始めたことは終わりまでやる。途中で中断されたなら、できるようになった時に続きからまたやる。  断ち切られた時間を、薫はただ、再開した。  まるで、一緒に暮らしていた2人が昨日同じベッドで眠り、仕事に行って帰ってきただけのように。  薫はずっと、集中していたのだ。怜に自信をつけさせるための環境作りなどという、一歩間違えれば壮大なストーカー行為で終わるものを、薫はある意味単純に、家に帰るまでの仕事としてひたむきにやっていた。いつ家に帰れるかもわからないのに。  だからきっと、薫は自分でも気づかないうちに疲れ切っていたのだ。江藤はそれを見抜き、薫に一旦家に帰るように命じた。  そうした、薫の真面目くさった考え方が、怜には愛おしかった。高遠に操られていた自分は、いかに何も見えていなかったか。この人は完璧なリーダーなんかじゃない。ひとつのことを、空回りするほど考え続ける、寂しがりで甘えたがりの優しい人だ。  キスをしながら、怜はさっきの薫を思い出した。  ガラスポッドを割るほど江藤に激昂し、驚いたように自分の手を見つめた薫。貧血を起こして倒れこみ、薫が朦朧と目を閉じた時、怜は怖かった。この人は二度と目覚めないんじゃないかと。  でも、怜自身が2年前とは違っていた。怜は冷静にデスクに走り、救急箱を取り出してくると、薫の傷を調べて止血した。  この人は薫さんだ。  その考えが、頭の中でガンガン響いていた。傷を押さえながら、怜は震える手でワイシャツのボタンを外し、胸元を覗き込んだ。  赤く引き攣った傷痕を見つけた時、怜が感じたのは安堵だった。  あぁ。オレはもう一度、この人に抱き締められてもいいんだ。  怜の心が再び薫から離れてしまう可能性を感じ取っただけで、気絶するほど怒った薫。  東京を獲りに行くと宣言し、高遠に啖呵を切ったというのに、この人はまだ、怜が2年前と同じように自分の価値を否定してしまうことを心配している。  心配して、不安に苛まれて。  他の人が見たら、怜を全然信用していないと思われても仕方がないだろう。  怜は、気づけば薫の髪を撫でていた。  この人は、寂しいんだ。怜が再び離れていく可能性を、1ミリも残したくないほどに。それは怜に対する想いよりも、薫自身の人生の辛さを表しているようで、怜は哀しく微笑んだ。誰にも明かさない、心の奥底に潜む昏い沼の縁に、薫はずっと佇んでいる。どこにも行けず、黙ってその沼を見つめて途方に暮れている。  どんな言葉よりも、どんな触れ合いよりも、薫の胸に残っている傷痕が雄弁に語っていた。  顔を変えて他人として生きながら、薫は傷痕をそのままにしている。怜に見られる危険を常に冒しても、薫は傷痕を塗りこめたりはしなかった。それが、怜との間の決して切れない繋がりの象徴だから。  ワイシャツのボタンを閉め直しながら、怜は思った。  赦してやれ。怜のことも、お前自身のことも。  江藤さんは、薫さんに生きて欲しいんだ。悲しみの沼で溺れずに。  だから、怜に薫を託した。  温かい肌。脈打つ鼓動。  オレたちは生きている。バスルームの中で身を屈め、怜は薫の傷痕に唇を当てた。

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