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第111話 蒲田にて(31)
「満足した?」
怜が静かに問いかけると、薫は無言で怜のうなじに顔をすりつけ、そっと息を吐いた。バスタブの中は温かいお湯に満たされている。2人はお湯の中に座り込んでいた。薫は後ろから怜を抱き込み、怜の背中に寄りかかっている。
ついさっきまで、薫は時間をかけて丁寧に怜の髪を洗い、顔を洗い、全身を洗い、足の指の間まで洗った。2年前の約束を薫は覚えていて、怜の体の中まで洗った。怜は指を噛んで恥ずかしさに耐えた。
薫はその間、何も話さなかった。怜の体に触れ、時折くちづけながら、薫はひとつひとつの仕草に没頭していた。ここで怜と会うようになってから、相当我慢していたらしい。
怜は薫がやりたがることに、一切抵抗はしなかった。薫は目だけで怜に許可を求めてくる。怜は微笑んで薫にキスをする。それがルールのようになった。
怜はすべてを受け取った。頭皮をマッサージされ、肌をこすられ、穏やかな官能に体全体が満たされるのは、2年前よりもずっと幸せな感覚だった。
お湯の中は温かく、薫に劣らず怜も眠くなってきている。
ふと、怜は右手が触られているのに気づいた。薫は怜を抱き込んだまま、右手を握ってずっと撫でまわしている。2年前に高遠の所で切った傷痕だ。
「薫さん……この傷、嫌い?」
右手をちゃぷんとお湯から出し、怜は聞いた。
「ん~、いや、嫌いじゃない。ただ……」
「ただ?」
「そういえば、お前はずっと戦っていたなぁと思って」
「戦っていた?」
「高遠の言葉に、お前はちゃんと抵抗していた。俺はそれを見ていたのに、どこで忘れたんだろうと」
怜は無言のまま、薫の右手を持ち上げた。防水の白い傷パッドが貼ってある。
「同じ場所……痛む?」
「痛むけど、大した傷じゃない」
「よかった」
大きな手だ。関節がしっかりした、男の手。生真面目な薫のために動き続ける手。
怜は傷パッドの上にくちづけた。それから一本一本の指先に。手の平に。
されるがままにじっとしていた薫は、ふっと体から力を抜いた。怜の背中に胸を預け、動かなくなる。
静かな寝息が怜の耳に触れた。怜を体全体で包み込み、薫は穏やかに眠っている。
あの時とおんなじ。
怜は後ろに寄りかからないようにして、目を閉じた。薫の鼓動が背中に響いている。
この人が死ななかったのは、執念の結果だったのかもしれない。怜を赦すために、怜と共に眠るために、薫は生きることに執着してくれた。
自分を包み込む薫の腕に頬ずりする。拘束が心地いいなんて、思いもよらなかった。でも事実だ。もう自分は高遠に拘束されなくていい。薫さんが必死で繋ぎとめてくれているから。
別にお互い、寄りかかってるわけじゃないけど……。それとも寄りかかってるんだろうか? 依存だと言われても、構わない。これがオレたち2人の安心の形だから。
「薫さん? お風呂から上がって、ベッドでのんびりした方がいいんじゃない?」
後ろに呼びかけると、薫は「んん」と呻いた。
「ほら。ふやけちゃうし。それに……オレの爪を切るんじゃなかったっけ?」
そう言ってやると、薫が顔を上げた。どれだけ楽しみなんだろ?
爪を切るという一言で、薫は怜の拘束を解き、風呂の栓を抜いた。怜を無言で立たせ、シャワーで全体をさっと洗い流す。
怜は思わず笑った。
「なんで笑ってるんだ?」
ぼんやりした薫さんの声。
「だって、そんなに爪切りしたいのかと思って」
「……2年だぞ? お預けにもほどがある」
「セックスじゃないんだ」
「先に爪切りだ。2年前の続きからやらないと、落ち着かない」
本当に、面白い。薫さんが生きていてくれて、良かった。こうして、薫さんを形作るひとつひとつのことを愛おしいと思うことができる。手を伸ばして薫さんに触れて、その頬に唇を寄せることができる。耳元で誘惑を囁くことも。
「セックスは……後回し?」
薫の手が止まる。しばらく考えてからシャワーのお湯を止め、薫は怜の体に両腕を回して抱き寄せた。
「どうだろうな。お前は……どっちを先にしたらいいと思う?」
「う~ん、まぁ、順番は守った方がいいのかも」
にっこり笑い、薫の首に抱きついて怜は囁く。
「どのぐらい我慢できるか、2人で試してみない?」
「言ったな? 爪を切り終わるまで、『待て』ができないとご褒美はもらえないぞ?」
「薫さんもね。負けそうになったら『わん』って言ってもいいことにしてあげる」
欲望にけぶる目。
2人だけの時間。今この瞬間、世界は悦びのためにある。
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