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第112話 蒲田にて(32)
薫はやはり、爪切りを先にすることにしたらしい。部屋着を着るとダイニングテーブルの椅子に座って怜を後ろから包み込むように抱き、手の指の爪を真剣に切っている。怜がもぞもぞ動くと、薫はうなじに宥めるようなキスをして再開する。
もどかしいほど丁寧に、薫は怜の爪を切り、やすりまでかけた。それが終わるまで耐えて、怜は立ちあがった。
「水か何か飲みたいんだけど?」
薫の返事を聞かずにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
「待て! 怜、冷蔵庫は……」
薫が後ろで焦ったような声を上げる。怜は冷蔵庫を開いて動きを止めた。しげしげと中身を眺め、ゆっくりと薫を見る。
諦めた顔をしてから、薫はダイニングテーブルに肘をつき、目を覆った。
「……薫さん」
「言うな」
「これ……」
冷蔵庫の中には、プリンがずらりと並んでいた。全部種類が違う。怜はひとつ取り出し、表示を見つめた。
「賞味期限、切れてないんだけど、もしかしてずっと入れ替えてた?」
「…………まぁ」
「切れそうになったら、食べてたの?」
「仕事先とかに持って行って食べてもらったり……」
「もらったり?」
「…………………………翔也に食わせてた」
江藤さんが『薫が生きている』とバラした最終的な理由って、もしかしてプリンだったりして。
「薫さんは自分で食べてないの?」
「最初に……食べようとはした」
「うん」
「でも蓋を開けたら、その」
「うん」
薫はそれきり黙ってしまった。怜は手に取ったひとつを持ち、キッチンでスプーンを見つけるとダイニングテーブルに戻る。
「蓋を開けたのに、食べなかったの?」
怜は蓋を開けながら、薫の顔を覗き込んだ。
「甘いの、好きじゃない?」
「……そうじゃなくて」
一口すくって口に入れる。プリンは口の中で甘くとろけ、するりと喉を通っていく。
「…………お前の顔を、思い出して」
「でも、プリン見るたびに買っちゃった?」
薫は小さくうなずいた。
知らなかった。この部屋にこんな秘密があったなんて。
薫はきっと、怜のことばかり考えていたのだ。何かを買いに行きプリンを見るたびに買ってしまい、それを怜に言うこともできず、持て余していた。
胸に溢れるほどの、小さな幸せ。それは矛盾しているだろうか? どんな高価なプレゼントよりも、冷蔵庫に並んだプリンは怜を満たした。
込み上げる想いに泣きそうになりながら、怜はプリンを食べた。ほろ苦いカラメルとプリンとのバランスを味わい、つるんとした舌触りを楽しむ。ひとつ食べ終わってから、怜は薫の手をそっと顔から離させ、その目を覗き込んだ。
「薫さん、耳まで赤い」
「うるさい」
傲然とした木島は演技だったんだなぁと怜は思った。薫さんは、こんなふうに可愛い。
「もう一個食べてもいい?」
「食い過ぎだ。前も思ったけど、あるだけ全部食おうとするな」
「でも、おいしかった。薫さんがせっかく見つけてくれたプリン、もう一個食べたい」
「……一個だけだぞ?」
楽しくて、楽しくて、幸せで。
怜は笑いながら冷蔵庫に戻り、一番大きなプリンを持ってきた。
蓋を開け、つやつやした淡い黄色にスプーンを突き立てる。これは世界一おいしいプリンだ。
薫は顔から手を離し、怜がプリンを食べるのを見守っている。泣きそうな目だった。愛おしさと安らぎとを湛えて、薫は怜がプリンを食べ終わるまで、無言で怜を見つめ続けていた。
「おいしかった」
「そうか……よかった」
手を伸ばして薫を引き寄せる。髪を撫で、温かいキスを落とす。
「江藤さん、もうプリン食べなくてもよくなったんだ」
「……そう、だな」
額をくっつけ、2人でふふっと笑う。
ついばむような軽いくちづけは、やがて深く甘いキスになる。薫の首に腕を回し、怜は薫の上に、向かい合うように座り直した。
離したくない。離れたくない。
お互いにバカみたいな回り道をした。この長い長い道のりは、こうやって抱き締めあって唇を重ねている今は、なかったも同然だ。
それでも、多分それは愚かな自分たちには必要だった。
世界は弱い人でできている。
失敗し、悲しみの沼を眺めて途方に暮れながら、人は生き続ける。
たったひとつ、世界一おいしいプリンのために。
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