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第119話 多摩川にて
江藤のマンションに向かう車の中は、案の定ぎくしゃくしたものだった。竹田が運転し、怜は助手席に座っている。須川はミニワゴンの後部座席にでれっと座り、スマホで誰かとメッセージのやりとりをしていた。
竹田も須川にうんざりしているというのは、見ていてわかった。とはいえ2年前に同じチームにいた時から、竹田は忍耐強い方だった。キレるということがないので、須川となんとかやっていけているのだろう。
冬にしては暖かい日だった。昼下がりのしんとした日差しに、打ち捨てられた民家が眠っている。手入れされていない庭から山茶花が突き出ていて、のんびりしたものだ。
慎重に運転しながら、竹田はぼんやりと怜に話しかけた。
「なんかお前……すごく……変わったよな」
「まぁ、2年経ちましたからね」
「そうなんだけど、ふり幅が大きいっていうか。日曜日に高遠のところに来た時はすごく怖かったんだよな。あの場にいる全員を獲って食いそうな感じだったのに、今日はめちゃくちゃ……えぇと……ほんわかしてる」
「あ~…………」
そういえば。食堂の皆も口には出さなかったが、反応に戸惑いがあった。
確かに、ジェットコースターみたいに色々あったから。
薫が死んだ事実を受け入れ、自分が東京を獲りに行くと誓った数日後に、当の薫が生きている事実を教えられ、よりを戻した。悲壮な方向へ振り切った直後に、その正反対の方向へ振り切ったわけで、怜自身にもどこか現実感がない。
我ながら忙しい人生だなぁ。
窓の外を眺めながら、怜は思った。
薫さんは今、何をしてるんだろう。
薫の顔を見たかった。その肌に触れたい。今朝、薫の腕の中から抜け出してきたばかりだというのに、もうその存在を確かめたくなっている。もしかしたらすべてが夢で、自分はまだ、薫を撃った銃と一緒にぼんやり突っ立っているだけなんじゃないか。そんな考えが頭をよぎり、怜は思わず目を閉じた。
そういうことは考えない方がいい。まだ最後の敵は残っている。再び罠にはめられないように、自分の立ち位置はいつも見定めていないと。
いつか、薫さんの存在を確かめたい時にいつでも触れられるようになれば、すべての不安は消えるんだろうか。
そういう日を2人で生きて迎えるためにも、物事をしくじるわけにはいかない。
やがて車は川を渡った。神奈川は信号が機能していて、周囲の車はごく普通に交通ルールを守っている。横断歩道を学校帰りの子どもたちが集団で渡っていき、怜はその平和な光景を眺める。東京に子どもが戻ってくる日は来るのだろうか。煌めくような笑い声が、怜には羨ましかった。
遠い記憶。怜が子どもの頃、故郷の川は綺麗に輝いていたように思う。川辺を走り、林の中を散歩していた時、風は楽しかった。学校の裏山を登り、怜はよく景色を眺めたものだ。キラキラした春の田んぼや、ざわざわとなびく秋の草むら。走るのは好きだった。特に森の中を走るのは面白かった。柔らかい土を蹴り、倒木や溝を飛び越える。
あの時、確かに自分は笑っていた。今の子どもと同じような煌めく声で。
もう帰ることはない日々だけれど、誰かが次にその日々を手に入れられたらいい。
東京でも。
信号待ちの間、竹田はスマホを出し、何かメッセージを打っていた。次の信号で、須川から死角になるように画面を怜に見せる。
『今夜10時頃、食堂で話せるか?』
駆け引きは続く。須川に知られないよう、怜は窓の外を見ながら言った。
「……いいですね」
須川の視線を感じる。
「何がいいんだ?」
「神奈川は平和だなって」
「……そうだな」
「東京も、こんなふうに子どもたちが住めるようになるといいなって思って」
「あぁ……そうだな」
思ったより真面目な声で須川が答えた。ふとサイドミラーを見る。須川と目が合った。見られていたのか。顔をしかめた怜に、須川はにやりと笑った。
よくわからない人だと思いながら、怜はもしかしたらという可能性が心に芽生えるのを感じていた。もしかしたら、この人はこちら側かもしれない。
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