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第120話 横浜にて(5)
わずかな期待を込めて、外で待っていてもらえないかと言ってはみたが、須川はやはり聞く耳を持たなかった。ドアを開けた一瞬、江藤がぎょっとした顔を見せたので、怜は仕方なく紹介した。
須川を入れて竹田を締め出すわけにもいかず、怜は2人を引き連れる形で江藤の部屋に入った。
中は相変わらず黒に統一され、スタイリッシュだった。江藤はもっとナチュラル系が好きなのではないかという印象を怜は抱いていた。だから前の住人から家具をそのまま引き継いだと聞いたときには納得したし、別にそれでも違和感なく使いこなしているあたり、江藤らしいといえば江藤らしい。
「コーヒー飲むか?」
江藤の言葉に、須川が先に「飲む」と答えた。怜は顔をしかめて見せる。不本意だが、高遠たちのやり方は序列がすべてだ。それをひっくり返したければ、常にどっちが上かを示さなければならないのに。
江藤はその辺を理解しているようで、コーヒーをソファーに持ってくると、先に怜の前に置いてくれた。竹田はコーヒーを断り、黙って部屋の入口に立っている。江藤と顔を合わせるのは苦痛だろうと怜は思った。
「で? 交渉を続けに来たってわけか?」
「えぇ。昨日の段階では、火を使わない、非戦闘員には手を出さないというところまで譲ってくださった」
「そうだな」
須川は部屋の中を勝手にぷらぷらすると、窓から外を眺め始めた。
不意に、怜はそのシルエットに変な感覚を抱いた。
薫さんに似てる。
脱力しているせいで背が低く見えるが、その肩幅や手の骨格など、様々な要素が怜の頭の中で組み上がっていく。
木島への化けっぷりを考えると、他の人間に姿を変えていることは充分考え得ることだ。だとすると、右手の傷はどうやって隠している?
「怜?」
江藤に呼ばれ、怜はそちらを向いた。もし須川も薫さんだとしたら、全体の権力構図を問い詰めなければ。
「昨日の結論は不満か?」
江藤の問いかけに、怜は唇を引き結んだ。まだ須川が薫さんだと決まったわけじゃない。
「えぇ。今日の午前中、街の人たちと話したんです。皆、不安がってる。誰も抗争なんて望んでない。それはあなたもでしょう? あなたはかつて、中央線南を仕切っていた。愛着があるはずです。そこを再び滅茶苦茶にするのは、あなたの本意ではないはずだ」
「実際に全体を見ていたのは佐木だが」
「そうですね。佐木さんを撃って、中央線南を佐木さんとあなたから奪ったのは……オレだ。オレに対する恨みがあるのはわかります。でも、そうした個人的なことを越えて、あなたはたくさんの人の人生を考えられる方だと思います。どうか……」
江藤は面倒そうな顔でコーヒーを飲んだ。
「もし俺が、お前の言うとおり蒲田を攻撃しないとしたら、その見返りは何だ?」
「見返り……」
「あぁ。俺が蒲田を諦める理由は何かって聞いてるんだ」
「それは……」
須川がこちらへ向き直った。ニヤニヤしている。お手並み拝見というところか。怜はイラッとした。前言撤回、薫さんっぽくない。
ぎゅっと唇を引き結んで、怜は須川を睨んだ。しばらく考える。たとえ結論が決まっているとしても、その過程を奥村や高遠に納得させるものでなければ困る。
「……『平和』以上の見返りが必要でしょうか?」
「そりゃまた嘘くさい言葉で来たな」
「そうですか? オレは都心の『穴』を直接見たことはないけど、でも、それがどのぐらいの傷をこの国に与えたのかは、少しわかっているつもりです。もしあなたが東京を獲ろうと考えてオレの街に来れば、多くの人が神奈川に逆流することになる。こののどかな街が、東京のように荒んだものになるでしょう。あなたは、その結果を自分の業績として良しとするかどうか」
「俺が東京を荒らせば、神奈川が荒れると?」
「そういうことです。結局、リーダーとなる者は、そうした最後に残る業績によって後の人々に判断される。あなたが愚かなリーダーだったのかどうかを決めるのは、オレじゃない。オレたちが東京の『穴』をどう考えるかを、あの『穴』を空けた奴らは考えなかった」
江藤は仕方ないという顔をした。
「お前、そういう屁理屈をどこで学んだ?」
「どこって……自分でもわかりません。ただ、オレは自分の街が荒らされたくないのと同じように、他の街も荒らされたくない。この間高遠のところに行きましたけど、街はひどいものだった。他に行き場のない、やけくそみたいな人生を送ってる人しかいない感じがしました。あの人たちも……休めるといいのに」
「休む?」
「お腹いっぱいご飯を食べて、のんびり日なたぼっこをして……そういう感じ」
「怜」
「なんです?」
「お前、けっこうジジくさいな」
須川が噴き出した。むっとそちらを見る。怜の視線をものともせず、須川は面白そうに笑うと部屋を横切り、ずかずかやってきて怜の隣にどっかり座った。
「で? 交渉成立か?」
江藤が肩をすくめる。
「あぁ。そうだな。今回は蒲田には行かない。怜の屁理屈に免じて、攻撃はやめておこう」
怜はほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
視線を上げると、江藤の向こうの竹田とも目が合う。彼の目もほっとしていた。竹田もまた、江藤とはやり合いたくなかったのだろう。
「怜、おれ駐車場から車を回してくるから、先に行ってる」
そう言うと、竹田は軽い足取りでマンションを出ていった。
竹田にも同席してもらえてよかったと怜は思った。今後、奥村たちとの駆け引きでは竹田が味方になってくれるだろう。2年前に裏切ったという事実があっても、怜は竹田を恨む気持ちにはなれない。竹田は、常に怜の助けになりたがっている。
じっと竹田を見送っていると、突然、ぐいと須川に肩を引き寄せられた。
「ちょっと、何するんですか」
抗議の声を上げたのに、須川は腕を緩めない。江藤の前で怜の肩を抱き、じっと怜を見ている。
「なぁ、あいつに気があるのか?」
「あるわけないでしょう? あの人にはお世話になったことがあるんです」
「ほんとにそれだけかよ」
「それだけです。2年前、佐木さんのところで同じチームだったから、色々教わったんですよ」
江藤が思い出した顔をした。
「そういえば……あの抗争は、あいつとお前が高遠に拉致されたところから始まったんだっだな」
「そうですね。竹田さんは、自分とオレが境界線に近づくタイミングを高遠に流していた」
「やっぱりあいつが裏切り者だったのか」
「えぇ……ただその~、佐木さんを撃った後、抜け殻になっていたオレを匿ってくれたのも、竹田さんでした」
江藤の目が細くなる。何かに納得した顔だ。
「あ~、なるほどね……だから」
何だろう?
そう思った時、突然、須川が顔を近づけてきた。
「匿ってもらってたってことは、あいつと暮らしてたのか?」
「え? いえ……」
「あいつと親しかったのか」
「別に親しいわけでは」
妙に昏い目で、須川は怜をじっと見ている。怜は体を離しながら文句を言った。
「あの……オレが誰と親しくても、あなたとは関係ないと思うんですけど。さっきから何なんですか」
「関係ない?」
須川がさらに近づく。
「何なんですかってば」
とにかく離れて欲しい。怜は須川の胸をぐいと押した。びくともしない。
「離れて、くださいって」
無理に押したが、須川は全く構わず、じっと怜を睨んでいる。
唐突に、江藤が大きな溜息をついた。
「いい加減にしろ。痴話喧嘩は外でやれ」
「は??」
江藤を見る。マグカップを持って立ち上がりながら、江藤は須川に向かって呆れた顔をした。
「痴話喧嘩?!」
怜が声を上げた途端、須川が怜の首筋にちゅ、と口づけた。
「ええわぁぁ?! 薫さん?!」
「いつ気づくかと思ったら……緊張してるのか?」
「いや、え? やっぱり薫さんだったの?! 手の傷は?」
「防水フィルムを貼ってメイクしてある。お前ほんとに気づいてなかったのか」
「だって薫さん仕事だって言ってたでしょ!」
「これが仕事だ」
どっと疲れた気分。
「江藤さん、わかってたんですか?」
「あぁ。でもお前がわかってないみたいだったし、竹田もいたから調子を合わせた」
「……ありがとう、ございます」
オレはひとりで真剣に茶番をやってたのか。
溜息をつくと、隣の須川──薫がぐいと怜を引き寄せた。
「ちょ、江藤さんもいるのに、ベタベタくっつかないで」
「ん~、翔也なんだからいいだろ? そんなことより、竹田とは本当に何もなかったのか?」
「くっつかないでってば」
「須川は嫌いか?」
しげしげと顔を見られて、怜はむっとした。
「嫌い。人を挑発して、隙を暴こうとしてる。薫さんに似てるから余計イライラするし」
怜の言葉に、須川の顔のまま薫は微かに笑った。
「なるほど、似てるからこそ違いにイライラするわけだ。で、違いに腹が立つから、俺だと推測する思考がシャットダウンされる。へぇ……木島にも同じ考え方をしてたわけか。似てるから惹かれるっていう理屈じゃないんだな」
「だから、くっつかないでって」
「背徳感を煽られるな。他人の男をくどいてる気分だ」
「ふざけないで、ってば」
首筋に顔を埋められ、怜はとうとう逃げ出した。乱暴に立ち上がって部屋を突っ切り、バルコニーに続くガラスの引き戸に手をつくと、息を吐く。振り返ってひんやりしたガラスに背中を当て、気持ちを落ち着ける。
マグカップをトレイに載せて戻ってきた江藤が、うんざりと言う。
「俺のうちでバカみたいなことするな」
怜はすがるように江藤を見た。視線が合うと、江藤が気の毒そうな顔になる。
「薫……そのうち怜にフラれるぞ?」
江藤が須川──薫に視線を移す。つられて怜もそちらを見る。薫の目が淀んでいる。
あ~、これは……滅茶苦茶に拗ねてる。
「薫さん……もしかして……やきもち焼いてる?」
「…………」
「強引についてきたのって、オレが江藤さんと2人で話すのが心配だったから?」
むっつりと黙り込んだ薫の前にコーヒーのおかわりを置くと、江藤は自分のマグカップを持ち、澄ました顔で隅のデスクに向かった。途中、怜と目が合うと肩をすくめる。椅子に座って仕事用のパソコンに身を屈めると、江藤は薫に背を向けてマウスを動かし始めた。
見ないふりをしてやるから、何とかしろということらしい。
やれやれ。
「江藤さんはストレートだって、薫さんが言ったと思うんだけど」
「それは……そうだが。翔也は……誰だって惚れるだろ?」
「江藤さんがイイ男だっていうのは認めるけど、物事には相性があるでしょ」
デスクで江藤が噴き出している。薫がむくれたように視線を下げた。
「それに……怜は、立ってるだけで人目を引くぐらい……その……目立つし」
「オレ?」
突然、江藤がパソコンから顔を上げた。にやにやしている。
「薫、怜を見つけた時のことを話してやれ。お前が過去最高にテンションがブチ上がってた時のやつ」
「オレを見つけた? 2年前?」
江藤はデスクの椅子に座ったまま、背もたれに寄りかかった。
「違う。2年前の例の事件の後、お前はしばらく行方不明だっただろう?」
「あぁ……タケさん、竹田さんが、蒲田のばあちゃんの所に連れて行ってくれたんです。竹田さん自身、両親を亡くして死にそうだった時に助けてくれた人だって。そこにいたから……行方不明だったって認識はないんですけど」
薫がソファーの背もたれに寄りかかった。
「別にいいだろ、もう見つかったわけだし。……そうか、竹田が動いてたのか」
ポケットでスマホが震え、怜はディスプレイを見た。竹田から電話がかかってきている。
「竹田さん、車を回してくれたみたい。行かなきゃ」
「駐車場に車を戻させろ。ここで事情を全部聞き出して情報のすり合わせをやる」
「え~? 竹田さん嫌がるんじゃない?」
「ここらで腹を割らないと、あいつの精神にも悪いだろ。呼び戻せ」
はいはい。
怜は電話で、「まだ話すことがある」と手短に竹田に伝えた。
「竹田さん、すぐ戻ってきてくれるって」
それにしても……2年前に中央線南を仕切っていたトップ2人にこれから詰められるのかと思うと、竹田が気の毒ではある。
「で? オレを見つけたってどういう意味?」
何かまだ、自分が聞いていないことがある。怜は2人に向かってにっこり笑って見せた。
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