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第138話 【2年前】(84)
バルにいる間、自分からはあまり話さなかった田嶋は、店を出たところで思いついたように薫に声をかけた。
「この後、まだ僕に付き合う余裕はあるか?」
「あ~と警備は?」
「俺は東京に戻らないと」
宮城の言葉に、田嶋は重々しくうなずいた。
「警備は僕の方で引き受ける」
「わかりました」
簡潔に答えると、宮城は用意された車で帰っていった。
それを見送りながら、田嶋が妙に感情のこもらない声で薫を誘う。
「少し2人で話したい。……お前に会わせたい人物がいる」
2人で? 薫は江藤を見た。江藤は何ごとかに気づいた様子で田嶋を見つめている。
「お前……」
「佐木には知る権利がある。そうだろう?」
「それが今か?」
「ああ」
薫の前で、江藤と田嶋は無言で何かの意志を交わす。江藤の眉間に皺が寄る。
「ここで、そのカードを使うわけか」
「残酷なのはわかっている。だが、江藤。僕はお前にも諦めてほしくない」
「……それがお前の意志か」
田嶋は眼鏡を押し上げた。レンズが光り、薫からは田嶋の目が見えなくなった。
「これは意志の問題じゃない。信念の問題だ。僕は……僕はお前たちの敗北を見ることはできない。どんな手を使ってもだ。選り好みができる状況ではないことは理解しているだろう?」
江藤はしばらく田嶋を睨んでいたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「まぁ、そうだな。そう……最初から言っておけば、こんなことにはならなかった。『なるほど』ね」
意味深なことを言うと、江藤は警備の車に向かって手を挙げた。
「薫。俺は先にマンションに戻ってる。何かやらかすのはいいが、まだ人は殺すなよ」
顔をしかめる田嶋に構わず、江藤はさっさと警備車両に乗り込む。
「おい、俺が何をやらかすって?」
答え合わせをしないまま、江藤は手を振り、行ってしまった。
「田嶋、俺に何をさせる気だ」
田嶋も無視。指先を振って車を呼んでいる。
「おい、おいってば」
車に乗り込みながら、田嶋は無表情に言った。
「来い。お前の退院祝いは終わってない」
何が待ち受けているのだろう。漠然とした苛立ちと不安をおさえて、薫は田嶋に続いて車に乗った。
車が繁華街を抜ける間、田嶋は黙ったままだった。店にいる時もいつも以上に静かだったし、今はどことなく思いつめたような、何かを言いたそうな雰囲気がある。
車は静かに線路の下をくぐり、住宅街へ向かっていた。
「……僕はお前に謝らなければならないことがある」
外を見ながら唐突に言ってきたその声には、感情がこもっていないように聞こえた。どこか、心ここにあらずといった感じだ。
「俺に?」
「ああ。僕は……本当はやめておくべきなのかもしれない。お前が精神的ショックから立ち直るまで気長に待ち、お前の人生に介入すべきではないのだと。いや……それでも、僕はこうする他ないんだろう。わかって欲しいとは言わない。お前は……僕に怒っていい。それでも、僕はなすべきことをする以外にない」
静かな中に、田嶋らしい、強い意志が垣間見える声だった。
「何をしようとしてるんだ」
薫が言うと同時に、車が停まった。3階建ての古いアパートの前だ。2階の端の部屋を指差し、田嶋は言った。
「僕は行かない。佐木。ひとりであの部屋に行くんだ。あそこに……お前の人生がある」
もしかして、田嶋は怜があそこにいると言っているのだろうか。どこにも見つからなかったのは、田嶋が密かに見つけ匿っていたからなのか?
「誰がいるんだ?」
「行けばわかる。先方には、お前が行くことを既に連絡してある。僕はここで待っている。何時間かかっても、気にしなくていい。僕は……待っている」
外から車のドアが開けられ、緊張した田嶋の声に追い出されて、薫は車を降りた。
ドアの前に立ち、チャイムを鳴らす前に薫は深く息を吸った。
この中にいるのは、一体誰なのだろうか。
理由もなく、薫は漠然と怜かもしれないと思っていた。怜であってほしい。怜に違いない。
ドアを開け、怜と顔を合わせた自分はどんな態度になるのだろう。薫には全くわからなかった。突然の再開に、どんな感情がこみ上げてくるのか想像もつかない。
爆発するような怒りだろうか。あるいは、すべてを忘れるような愛しさだろうか。
心臓の鼓動が耳元で激しく鳴っていた。息が苦しい。ドアを開けないまま帰ってしまいたいと思えるほどだ。チャイムを鳴らそうと伸ばした指が、小刻みに震えているのに気づく。
耐え切れず、横を見る。通路の手すりごしに、道端のセダンがうっすらと見えた。黒塗りの車は、街灯のないところに駐車されている。闇に沈む輪郭に、薫は目を細めた。後部座席の田嶋はもちろん見えない。
だが、田嶋がじっと見ている視線は感じとれた。薫がこの部屋に入るのを決して見逃すまいとする決意が、こちらを見ていた。
薫はドアに向き直り、震える指先で、ようやくチャイムを押した。
軽やかな音に、奥から答える声がする。誰かがドアに近づき、鍵が回る。
「はい」
声とともにドアがゆっくりと開いていく。
そこにいた人物に、薫は息を呑んだ。
怜ではなかった。
しかし、そこには紛れもなく薫の人生があった。意外すぎる人物に絶句し、薫は目を見開いたまま立ち尽くしていた。
相手もまた、じっと薫を見つめている。
永遠にも思えるような沈黙の後、薫はやっとのことで声を絞り出した。
「母さん……」
そこにいたのは、死んだはずの母親だった。
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