138 / 181

第138話 【2年前】(84)

 バルにいる間、自分からはあまり話さなかった田嶋は、店を出たところで思いついたように薫に声をかけた。 「この後、まだ僕に付き合う余裕はあるか?」 「あ~と警備は?」 「俺は東京に戻らないと」  宮城の言葉に、田嶋は重々しくうなずいた。 「警備は僕の方で引き受ける」 「わかりました」  簡潔に答えると、宮城は用意された車で帰っていった。  それを見送りながら、田嶋が妙に感情のこもらない声で薫を誘う。 「少し2人で話したい。……お前に会わせたい人物がいる」  2人で? 薫は江藤を見た。江藤は何ごとかに気づいた様子で田嶋を見つめている。 「お前……」 「佐木には知る権利がある。そうだろう?」 「それが今か?」 「ああ」  薫の前で、江藤と田嶋は無言で何かの意志を交わす。江藤の眉間に皺が寄る。 「ここで、そのカードを使うわけか」 「残酷なのはわかっている。だが、江藤。僕はお前にも諦めてほしくない」 「……それがお前の意志か」  田嶋は眼鏡を押し上げた。レンズが光り、薫からは田嶋の目が見えなくなった。 「これは意志の問題じゃない。信念の問題だ。僕は……僕はお前たちの敗北を見ることはできない。どんな手を使ってもだ。選り好みができる状況ではないことは理解しているだろう?」  江藤はしばらく田嶋を睨んでいたが、やがて諦めたように肩をすくめた。 「まぁ、そうだな。そう……最初から言っておけば、こんなことにはならなかった。『なるほど』ね」  意味深なことを言うと、江藤は警備の車に向かって手を挙げた。 「薫。俺は先にマンションに戻ってる。何かやらかすのはいいが、まだ人は殺すなよ」  顔をしかめる田嶋に構わず、江藤はさっさと警備車両に乗り込む。 「おい、俺が何をやらかすって?」  答え合わせをしないまま、江藤は手を振り、行ってしまった。 「田嶋、俺に何をさせる気だ」  田嶋も無視。指先を振って車を呼んでいる。 「おい、おいってば」  車に乗り込みながら、田嶋は無表情に言った。 「来い。お前の退院祝いは終わってない」  何が待ち受けているのだろう。漠然とした苛立ちと不安をおさえて、薫は田嶋に続いて車に乗った。  車が繁華街を抜ける間、田嶋は黙ったままだった。店にいる時もいつも以上に静かだったし、今はどことなく思いつめたような、何かを言いたそうな雰囲気がある。  車は静かに線路の下をくぐり、住宅街へ向かっていた。 「……僕はお前に謝らなければならないことがある」  外を見ながら唐突に言ってきたその声には、感情がこもっていないように聞こえた。どこか、心ここにあらずといった感じだ。 「俺に?」 「ああ。僕は……本当はやめておくべきなのかもしれない。お前が精神的ショックから立ち直るまで気長に待ち、お前の人生に介入すべきではないのだと。いや……それでも、僕はこうする他ないんだろう。わかって欲しいとは言わない。お前は……僕に怒っていい。それでも、僕はなすべきことをする以外にない」  静かな中に、田嶋らしい、強い意志が垣間見える声だった。 「何をしようとしてるんだ」  薫が言うと同時に、車が停まった。3階建ての古いアパートの前だ。2階の端の部屋を指差し、田嶋は言った。 「僕は行かない。佐木。ひとりであの部屋に行くんだ。あそこに……お前の人生がある」  もしかして、田嶋は怜があそこにいると言っているのだろうか。どこにも見つからなかったのは、田嶋が密かに見つけ匿っていたからなのか? 「誰がいるんだ?」 「行けばわかる。先方には、お前が行くことを既に連絡してある。僕はここで待っている。何時間かかっても、気にしなくていい。僕は……待っている」  外から車のドアが開けられ、緊張した田嶋の声に追い出されて、薫は車を降りた。  ドアの前に立ち、チャイムを鳴らす前に薫は深く息を吸った。  この中にいるのは、一体誰なのだろうか。  理由もなく、薫は漠然と怜かもしれないと思っていた。怜であってほしい。怜に違いない。  ドアを開け、怜と顔を合わせた自分はどんな態度になるのだろう。薫には全くわからなかった。突然の再開に、どんな感情がこみ上げてくるのか想像もつかない。  爆発するような怒りだろうか。あるいは、すべてを忘れるような愛しさだろうか。  心臓の鼓動が耳元で激しく鳴っていた。息が苦しい。ドアを開けないまま帰ってしまいたいと思えるほどだ。チャイムを鳴らそうと伸ばした指が、小刻みに震えているのに気づく。  耐え切れず、横を見る。通路の手すりごしに、道端のセダンがうっすらと見えた。黒塗りの車は、街灯のないところに駐車されている。闇に沈む輪郭に、薫は目を細めた。後部座席の田嶋はもちろん見えない。  だが、田嶋がじっと見ている視線は感じとれた。薫がこの部屋に入るのを決して見逃すまいとする決意が、こちらを見ていた。  薫はドアに向き直り、震える指先で、ようやくチャイムを押した。  軽やかな音に、奥から答える声がする。誰かがドアに近づき、鍵が回る。 「はい」  声とともにドアがゆっくりと開いていく。  そこにいた人物に、薫は息を呑んだ。  怜ではなかった。  しかし、そこには紛れもなく薫の人生があった。意外すぎる人物に絶句し、薫は目を見開いたまま立ち尽くしていた。  相手もまた、じっと薫を見つめている。  永遠にも思えるような沈黙の後、薫はやっとのことで声を絞り出した。 「母さん……」  そこにいたのは、死んだはずの母親だった。

ともだちにシェアしよう!