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第140話 【2年前】(86)
バン!と乱暴にドアが開けられ、田嶋は車の外に引きずり出された。左頬に強烈な一撃、ブン殴られたのだと悟ると同時に胸倉をつかまれ、車に背中を叩きつけられる。遥か遠くで、眼鏡が地面に落ちる音が響いた。
「どうして。どうして!!」
薫の目は、やり場のない怒りで血走っていた。
「どうして彼女のことを黙っていた! どうして隠したんだ!」
警備の者たちが慌てて走ってくる。田嶋はそれを目で制すると、薫の視線を正面から受け止めた。
息が苦しい。田嶋は薫の激昂に耐えた。薫は見てわかるほど震えている。食いしばった歯の間から獣のような唸りが漏れ出し、警備が慎重に一歩下がる。
いい判断だ、と田嶋は思った。今の薫にかなうものは誰もいない。
場を圧倒する薫の迫力に、辺りは静まり返っていた。腕に覚えのあるSPたちのド真ん中で、薫は動物園を飛び出した狼のように、毛を逆立てている。
ふーっ、ふーっと肩で息をする薫を見つめながら、田嶋は努めて穏やかに言った。
「車の中に戻ってくれ。外は危険だ」
薫より危険な存在が、たった今日本にいるかどうかは怪しかったが、田嶋はとにかく薫を落ち着かせることに全力を注いだ。一瞬でも対応を間違えれば、薫は暴発する。銃を持っていないことは知っていたが、抗争の先陣を切って日本刀で敵に斬り込むような男だ。油断すれば素手で首を折られる。
「佐木、お前の怒りはもっともだ。すべての疑問点に、僕は答える用意がある。なぁ……僕は……まだお前の友人でありたいと願っている。図々しいと言われても、僕は、お前と江藤だけは、大学時代と変わらず、誰よりも大切な友人だと思っているんだ。だから……せめて車の中に戻ってくれないか」
田嶋の声のトーンに反応して、薫が手を放した。まだ息は荒く、田嶋を睨む目はギラついているが、本能的な状況判断能力は戻ってきたらしい。
「車の中で話そう。佐木……殴りたければ殴ってもいいが、せめて車の中で」
黙ったまま、薫は乱暴な動きでセダンに乗り込んだ。警備のひとりが眼鏡を拾い、田嶋に渡す。
一撃で眼鏡は駄目になっていた。
田嶋は歪んだメタルフレームと派手に傷ついたレンズを、束の間見つめた。
この程度で済んだのなら、むしろ喜ぶべきだ。歯が一本グラつき、顔の左半分がズキズキする。田嶋はかまわず、顔を上げて警備に指示した。
「しばらく2人きりにしてくれ。何かあればコールを」
「わかりました」
頬が腫れ、話すのは辛かったが、田嶋は開いたままのドアから乗り込み、自分でドアを閉めた。後部座席のコンソールボックスから予備の眼鏡を取り出してかける。
ネクタイの結び目に無意識に手をやりながら、田嶋は後ろにもたれかかった。
薫は、無言のまま暗闇の底に座っている。時折、息を吸いこむヒュッという音が聞こえたが、それ以外は何も聞こえなかった。
閉鎖空間特有のこもった感覚の中、田嶋は静かに口を開いた。
「とりあえず礼を言う。車の中に戻ってくれて。そして……僕を殺さないでくれたことに感謝する」
鼻で笑う声が返ってきた。
「殺されても文句はないって?」
「ああ。僕がしたことはわかっている。だが、その責任をすべて負うだけの覚悟はある」
「どうだか。一発で首の骨を折ればスッキリしたのに」
ああ、この物言いこそが佐木の本性だ。
緊迫した雰囲気の中で、田嶋は密かに微笑んだ。
そうだ。佐木のこの攻撃性こそ、今の田嶋が望んでいるものであり、高遠が焦がれてやまないもの。そしておそらく、怜が愛したものだ。
「僕を殺す楽しみは、後にとっておけばいい。違うか? 佐木」
「そうだな。次はないと思え」
それきり、薫はまた黙り込んだ。
後部ドアに肘をつき、田嶋はさっき薫が出てきたばかりのアパートを再び見上げる。部屋の電気はついたままだった。
彼女が夜、電気を消すことはない。
田嶋はそれを知っていた。暗闇の中で彼女は眠れない。多分、仕事をしているのだろう。彼女は田嶋の斡旋で、『政府』関連の翻訳の仕事をしていた。外に出る必要の一切ない仕事だ。
週に一度か二度、田嶋の部下の女性が彼女を訪問する。一緒にお茶を飲み、のんびりと話す。必要なものを聞き、買い出しに行って彼女に届ける。
こうした生活は8年続いていた。いつか彼女が外へ出ることに恐怖しなくなるまで、あるいは顔を元に戻す決心がつくまで、それは続く。
喜ばしいことに、改善はしてきている。マスクで顔を隠してはいるものの、たまにスーパーに行けるようになったし、深夜ゴミを出したついでに少しだけ散歩するようになった。
闇の底から、薫が田嶋の様子を伺っている気配がする。
「……彼女の名前は?」
薫の問いかけには、怯えた響きが微かにあった。深く傷ついた孤独な獣は、まだ自分の傷を舐める余裕さえない。
「あの人は名乗らなかったのか?」
「ああ。自分の名前がわからなくなったままなのだと。それに……俺の前だと余計に『私』が誰だかわからなくなると言って」
「そうかもしれない。あの人の名前は、未緒という」
「未緒」
名前を口の中でゆっくり復唱すると、薫は顔を覆った。
「こんな……おぞましいことが許されていいわけない。彼女の存在が握りつぶされて、加害者が罪に問われないなんて」
震える声には嗚咽が混じっていた。
「高遠の野郎……母さんを自分で殺しておいてコピーを作るなんて、頭がおかしいだろ? あんな……あんな……未緒さんの人生も、存在も……、全部、全部母さんに書き換えようだなんて、人をなんだと思ってるんだ」
「そうだな」
母親のコピー。戦後、高遠の秘書になった未緒は言葉巧みに取り込まれ、言われるがままに整形した。だが、死んだ女を蘇らせるための依り代にされたと知った時から、彼女の人生は地獄と化した。
「物事には限度があるだろ……どうして、誰かを犠牲にしてまでコピーを作ろうなんていう発想に」
頭の中に感情を押しとどめておくことができないらしく、薫はぶつぶつと独り言のようにしゃべっている。
「奴の性癖は歪んでるとは思ってた、けど、ここまで歪んでるとは思ってなかった。俺は……俺は本当に奴の息子なのか? なぁ……息子じゃない。あんなのの息子だなんて……絶対違う。絶対違うはずなんだ。なぁ、違うだろ?」
薫がどれほどの衝撃を受けたか、田嶋には想像がついた。人生の基盤をひっくり返されたのだ。異様な早口で呟く間、薫の体はわなわなと震え続け、時折びくりと痙攣していた。
「母さんは、奴に」
ひくっと薫の喉がなる。母が受けた仕打ちの結果、自分が生まれたのか。
最悪の事実を、親友たちは素知らぬ顔で隠し通したのか。
自分は本当は、両親にとって裏切りと暴力と凌辱の申し子だったのか。
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