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第141話 【2年前】(87)
「薫」
闇に向かって、田嶋はあえて名前を呼んだ。薫のシルエットが身じろぎする。顔は見えなかったが、恐怖の感覚が田嶋には伝わった。
「……お前が誰の遺伝子を受け継いでいようと、僕たちにはどうでもいいことだ。お前は奴とは違う人間だ。僕は……安心している」
「安心?」
「戻ってきて、お前はまず未緒さんの名前を聞いただろう? そして、自分自身の生い立ちよりも先に、未緒さんの人生が破壊されたこと、それが僕の手で握りつぶされたことに憤った。誰かのために怒ることのできるお前だからこそ、人はついてくる。僕も江藤も、お前の友人でいられることに誇りをもつことができる」
薫は答えなかったが、空気が少しだけ和らいだ。田嶋は続けた。
「それに……未緒さんも僕たちも、お前が高遠の息子だとは思っていない」
「そうなのか?」
すがるような声に、田嶋は慎重になろうと努めた。
「考えてみろ。僕は数回、お前のお母さまに会ったことがある。その印象から言わせてもらえば、お母さまは、高遠の子を産むような性格ではないと思う」
薫が、はたと身じろぎをする。
「つまり……」
「僕から見ても、芯のある人だった。まして医者だ。こうしたケースにおいて、望まない妊娠を避ける手段も知っていたはずだ」
「……言われて、みれば」
「だろう? 僕が考えたのは……お前のお母さまは、奴に暴行された後、アフターピルなりなんなりで手を打った。警察に相談したのかどうか、その辺はわからないが。その上で、自分が本当に愛する人との間に子を成すことで、精神的なダメージを乗り越えたのではないかということだ。愛情深い家庭を築くことで、彼女は高遠を自分の人生から締め出すことに成功した」
薫が身を起こした。何事か考えている目が、かすかに光る。
「そういえば……遺品の中に、俺の母子手帳と一緒にDNA鑑定の結果が……そうか、母さんは……念のために調べたんだ。どうしてわざわざ調べたのか、何となくひっかかってたが……」
「父親は?」
「ほぼ確実に父さんだった。普通に夫婦の間に子供ができただけなのになぜ調べたのか、あの時は不思議だったんだが、お前の言うとおりなのかもしれない。母さんは確認したかったんだ。俺が……」
なんで忘れてたんだろう、と呟いた薫に、田嶋は微笑んだ。
「お前でも、焦ってわけが分からなくなることがあるんだな」
「しょっちゅうあるさ。そうか……そうだよな……あの母さんが、泣き寝入りなんかするわけないか。未緒さんもそういえばさっき、俺が高遠に全然似てないと言ってほっとしてた」
「とりあえず、ひとつは良いニュースがあったわけだ。お前は高遠の子供じゃない。問題は遺伝子じゃない。高遠は、お前が自分の子であるという幻想を勝手に育て続けた。あるいは、自分への憎しみを受け継いだ子であるという夢を抱き続けた」
薫は疲れ切ったように顔を覆った。
「そうだ……俺が奴の子であってもなくても、事態は変わらなかった」
「……未緒さんに、聞いたのか?」
田嶋の問いに、薫は黙り込んだ。長い、長い沈黙が、雄弁な答となっていた。
嗚咽のような吐息が闇に響く。残酷な事実は、薫を打ちのめしていた。
「……母さんと父さんと……陽哉が殺されたのは……俺が、いた、から」
未緒に向かって、高遠は夜毎、自分に酔った声で囁き続けた。
──薫が生まれた時、私はあの子の母親にブリタニカのディスクを送ろうとしたんだが、断られてしまってね──
──成長したあの子を初めて見た時、私は息を呑んだよ。本当に……美しく成長してくれた。中央軍事病院の受付だった。母親以上に凛々しく、賢い目をしていた。素晴らしい。私と美知留の魂を受け継いで、完璧な姿だった──
──ああ……愛されて育ったんだろうな、あの子は。私にはすぐ分かった。愛情深い性格なのが、顔に表れていてね──
自分自身の子供だと思っている存在を、マゾヒスティックな欲望の対象として生々しく語る高遠に、未緒だけではなく、録音データを聞いた田嶋も気分が悪くなった。その口調から伺えるものは、絡みつくような執着だけだ。吐き気がした。
──もうすぐ、もうすぐだ。私の夢が叶う日に、美知留、お前は本当の意味で蘇る。薫がお前を再び見るのが楽しみなんだ。あの子は、私の手によって作られた自分の母親を見て、どんな顔をするだろうか──
──わかるかね? 私はあの子をより純粋な存在にするために、そのために、あの子からすべてを奪ってやった。最も善良な愛情が、残らず憎しみに置き換わるところを見たくはないか?──
──ああ……考えただけで、たまらない……あの子が私を憎み、私のことだけを考えるのを想像するだけで──
データには、布を裂く音も、未緒に強引に体を沈め、興奮に震える高遠の喘ぎも、そして苦しそうな未緒の呻きも、すべて入っていた。
薫の目を想像しながら、その母親のコピーが苦痛に苦しむ姿を眺めて快楽に耽る声。映像がなかったことに、田嶋は心の底から感謝した。
──私は、あの子が私を憎み、殺しに来るのをずっと待っているというのに、あの子は友人たちと仲良く理想に燃えている。あれでは駄目だ。もうすぐだ。お前を仕上げて薫に見せたとき、薫は狂うだろう。楽しみだ。ああ……楽しみだ──
録音データを聞いてからしばらくの間、田嶋は珍しく不眠症になった。あんなにひどい状態になったのは、後にも先にもあの時だけだ。
「俺が、いなければ……父さんも母さんも陽哉も、殺されなかった」
薫の掠れた声に、田嶋は答える。
「お前のせいじゃない。自分本位の歪んだ衝動を、奴が勝手に満たそうとしただけだ」
「それでも……」
「どうしようもなかった。事態は、お前が生まれる前に既に定まっていた」
きっぱりと田嶋は言った。
人生はどうにもならないことばかりだ。闇はどこまでも深い。自分たちは黒い沼に足をとられながら、もがき続けるほかはない。
「佐木薫。僕はお前に重要なことを隠していた点について謝罪する。未緒さんに対しては、この先もずっと手厚いサポートを続けるつもりだ。彼女は当時も今も自分のことが公になることを望んでいないが、最終的にどうするかは、お前が彼女と話し合って判断してくれ」
「……俺が感傷に浸るのも、許さないつもりか? お前は」
「感傷に浸る要素がどこにある? お前には一片の非もない。悪いのは奴だ。最初から最後まで。奴の首の骨を折り、お前の家族が受けた仕打ちを奴に返してやるためには、腑抜けた感傷なんて不要だろう」
薫はもう一度黙り込んだ。
時間はある。田嶋は思った。僕は待てる。8年待ったのだ。薫が真理を携えて暗い書庫から出てくる瞬間を。
その身に蓄えたすべての哲学と物語を、この世界に現出させる時を。
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