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第142話 【2年前】(88)
ひとつ、大きく長い溜息をつくと、薫は静かに座り直した。
「……なぜ、今まで黙っていた」
その口調はさっきまでとは違っていた。嘆きの底から新しい闇が生まれようとしている。待ち望んだ力を、田嶋は今まさに手にしようとしているのだ。
厳かな時間に心を震わせながら、田嶋はしかし、表情を動かさずに答えた。
「当時……我々『政府』は今よりさらに若い組織だった。世間からの評価は定まっておらず、仕事は何ひとつとして成果がでない。高遠のような人間が私服を肥やし、地方への指示は法的な正当性のないものばかり。そんな中で、この組織は暴力によって事態を解決するのだという印象を国民に与えることは、絶対にできなかった。
高遠は排除しなければならない。ただし、世間が妥当だと思える方法でなければならなかった。……もし、お前に未緒さんやお前自身に関することを伝えれば、お前は……さっきのように我を忘れて高遠のところへ飛び込み、それこそ野生のクマのように奴の首を素手でねじ切っただろう。
一方で……僕や江藤も、高遠に対して吐き気がするほどの怒りを抱いた。お前の代わりに奴を殺してもいいと思えるほど。あの頃は、僕たち自身が若く危険だった。なぜなら……。僕たちは、お前の復讐を止めたいという気持ちが、そもそもなかったからだ」
「つまり事実を俺に話して公にしてしまえば、『政府』内に俺を止める者が誰もいなくなる」
「そうだ。僕たちはむしろ喜んでお前に加勢しただろう。だからこそ、僕は黙っていることを決めた。もし彼女の存在をお前が知れば、雪崩をうって『政府』は崩壊する。おまけに黙って立件しても、法務省にいるお前の耳にはいずれ入ってしまう。そうなれば更に事態は悪化する。
僕と江藤は……幾晩も話し合った。
結論として、僕たちはただ、お前に話すのを先延ばしにするということで決着をつけた。先延ばしにするだけだ。いつかお前に告げるということを確認して、僕たちは自分を納得させ、未緒さんと屋島が協力して録音した音声のうち、例の中野軍事病院での直接的な一件に関する、高遠の告白だけをお前に渡した」
「……屋島か」
「そうだ。当時屋島は高遠のボディーガードをしていて、未緒さんの存在も知っていた。屋島がこちら側につくことになった、きっかけのひとつが彼女だ。屋島は彼女がおかしくなっていくのを世話しているうちに、自分も精神的に追い詰められた。なにせ、ただの性的奴隷を作る犯罪行為に加担させられたんだからな。屋島のおかげで横領の方の証拠はかなり集められたから、お前に関する過去の公開は最小限にすることが可能だった」
こつんという小さな音に気づいて目をやると、薫は向こう側の窓ガラスに頭をもたせかけていた。考えこんでいる顔だった。
「……江藤と、屋島。知っているのはそれだけか?」
「そうだな。お前の関係者では2人だけだ」
怒りに任せて激しく動いたせいか、薫の体からは力が抜けていた。脳だけが思考に集中しているらしい。
「今になって俺にすべてを明かしたということは……つまり、お前は、いよいよもって俺を動かすことに決めたということか」
「相も変わらず、察しが良くて助かる。我々は仕事を進めてきた。準備はできつつある。2年以内には国政選挙が復活し、憲法改正についての国民投票を行う予定だ。
僕の悲願は、その国民投票に『東京』の人間を参加させることだ。どんなに汚染された瓦礫の山と化しても、どんなに無法地帯に成り果てても、東京はまだ、我が国の首都だ。我々はそこに住む者たちすべての住民登録をし直し、彼等が国政に参加する権利を保障する義務がある。
もちろんそれは、高遠のような人間に独裁的な権力を与えるためではない。奴を東京にのさばらせておくことは、絶対に許されない」
闇の中で、2人の男は挑むような目で見合った。
「何がどうあっても高遠をブチ殺せということか」
低く呟く薫に、田嶋が微笑む。
「そういうことだ。ただブチ殺すだけでは足りない。佐木。僕はお前から一度、牙を抜いた。その牙を返そう。あの時、お前の牙を抜くよりも、たとえ内戦状態に突入してでも、膿を出し切っておくべきだったのかもしれないが……。
過去は変えられないが、未来は分からない。
すべてはこれからだ。『政府』と『東京』は本来、別々なものではない。お前が『政府』の任務として『東京』全域を掌握しろ。あと2年だ。2年以内に、我が国は首都を取り戻す」
薫の口元が歪む。
「……都合よく、お前は俺の牙で遊ぶわけか」
「なんとでも言え。僕は使えるものはすべて使う。僕には、人々を圧倒するカリスマ性も、俊敏に動く肉体もない。だが僕には……お前と江藤がいる」
ふん、と薫が鼻を鳴らした。
「高遠の野郎を殺すということは、奴の欲求不満を満たしてやるということになる。それもまた……癪に障るんだが」
「お前に執着しているのなら、いっそ奴の思い通りに殺してやれば後腐れはない」
考え込む気配。
「今回の抗争も……高遠は中野の時と同じことを考えていたと思うか?」
「ああ。僕はむしろ、今回敗北してよかったとさえ思っている。もし勝っていたら、高遠は、お前が怜を愛情深く育てあげ、すべてがうまくいくようになるのを待って、怜を殺しただろう。お前が再び愛を失うよう追い詰め、その後にすべてを明かせば……」
「俺は間違いなく暴走する」
「そうだ」
田嶋は膝の上で両手の指を組んだ。薫は考え続けている。
「奴の最終的な狙いは……俺の目の前で無残に怜を殺すこと。だから下手すると、今回は俺と怜が障害を乗り越え、より深い関係になるよう仕組んだだけで、計画そのものが途中だった可能性もあるということか。ペンダントは、手に入れば儲けものという程度で」
静かな分析の声音の中には、押さえ切れない怒りが滲んでいる。
「怜が俺を撃ったのは、かえって良かった?」
「僕はそう思う。高遠はよりによって怜の手で、生きる目的ともいえるお前を失った。欲求不満が解消される見込みはなくなってしまったと、本人は思っているだろう。一方お前は奴の影響を逃れ、自由に行動することが可能になった」
「怜」
独り言のように薫が呟く。
「怜が奴の支配下から逃れて、というか正面から奴と対立できるようになれば、あるいは……いや、そうしないと怜も守れない……どこにいるのか……」
田嶋は薫に笑いかけた。
「どんな手を使ってもいい。誰を利用してもかまわない。やってくれるんだろう?」
「条件がある」
「僕ができることは何でも」
薫の感情が、強固な芯を持ち始めていることが、声でわかった。
「俺に『東京』を動かすための全権をよこせ。縦割りの行政機関のひとつなんぞじゃ足りない。軍、警察その他、関東内のすべての権力を俺に集中させろ」
「いいだろう。北海道のテコ入れをしていた木島という男がいる。そいつを呼び戻し、お前との配分で防衛省か警察庁を任せようと思っていたんだが、つい先日、向こうで銃撃されて死んだ。タイミングがいい。両方お前に渡す。関東以外は適宜人材を配置するので、お前は関東に集中しろ。ただ、お前は死んだことになっているから……」
「そのことだが、次の条件だ。整形はしたくない。変装なりなんなり、簡単に顔を変えて隠密行動ができる手段を考える必要がある。軍と警察は別人が指揮しているように見せる」
矢継ぎ早の要求に、田嶋は座席から身を起こした。
「そうだな……部下の知り合いで、ひとり、うってつけの人材がいる。ハリウッドで特殊メイクの仕事をしていたが、家族が心配で戦後こちらに戻ってきた者だ。思ったように仕事がなくて困窮していると聞いた。そいつをお前のチームの専属にする」
「よし。さらにもうひとつ。俺の部下を正式に軍の所属とし、身分を保証する。俺に何かあっても、全員きちんと報酬を受け取れるよう、システムを整えるからな」
「了解した」
簡潔な田嶋の返答に、薫が起き直った。闇に沈んでいながら、わずかな月光に瞳が光る。
獲物は決して逃さない。
強烈な意志を持つ目が、田嶋を正面から睨みつけている。
「忘れるな。田嶋。俺に牙を戻し、すべての武器を与えたのはお前だ。高遠の生首を平然と蹴り飛ばす覚悟はできてるだろうな」
「当然だ。最後の瞬間まで、僕はこの目でお前の復讐を見届ける。成し遂げろ。何があろうと、今度こそ、僕はお前の障害となる物をすべて排除してみせる」
凶悪な笑みが薫の顔を彩る。
美しいと田嶋は思った。高遠でなくても、その美しさはわかる。苛烈な感情と、己の意志を貫徹させる冷徹な強さとを併せ持つ、稀有な男。体から放たれる存在感は、濡れて滴る水気を孕み、黒く艶やかに光っている。
田嶋は膝の上で指を組み、深く深く息を吐いた。
佐木は本来の姿を取り戻した。次こそは、その腕に宿る力は桁違いのものとなる。
渾身の力で、悲しみの沼底に穴を穿て。その果てに何が見えたとしても、僕は必ず、見届ける。
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