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第143話 【2年前】(89)

 薫がマンションのドアを開けると、そこに江藤が待っていた。壁に肩を預け眠そうな顔をしているくせに、ずっとそこに立っていたらしい。 「寝なかったのか」  薫が言うと、江藤は肩をすくめた。 「どうせ、眠れない。……田嶋の奴、生きてるか?」 「歯は折れてないはずだ。眼鏡はぶっ壊したが」 「お前が?」 「まぁ、そうだな」  お~こわ、と呟きながら、江藤は薫が靴を脱ぐのを眺めている。薫が顔を上げると、様子を伺うように言う。 「で? 俺のことは殴らないのか?」  顔をしかめて江藤の横を抜けながら、薫は答えた。 「殴ってほしいなら殴ってやるが、これから働いてもらうんだ、眼鏡と違ってお前の代わりがないからな」 「何をやらせるつもりだか」  嫌そうに言いながらも、江藤は薫の後ろをノソノソついてくる。リビングに入ると、気まずそうに言う。 「すまなかった」 「すまなかったで済むか。このタヌキ野郎。自分も殴られるのが嫌だから先に帰ったな?」 「すまん……」 「事情は理解した。お前らは、俺が暴れれば手がつけられないと、今も昔も思ってるわけだろう? 猛獣で悪かったな」 「いやその」  江藤にかまわず、薫はキッチンに行くと冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。昏い興奮が全身を支配している。田嶋に啖呵を切ったものの、まだあらゆる思考が脳の中で渦を巻き、ゆっくり考えられる状態ではなかった。  江藤はキッチンの入口に立ち、覗き込むように薫の様子を伺っている。  昔からこいつはそうだ。デカい図体で、時々、イタズラがバレた大型犬のような仕草をする。冷蔵庫にペットボトルを戻し、薫は乱暴にドアを閉めた。 「屋島は今どこにいる」 「あいつも忙しいんだから……」 「今すぐ全員呼び出す」 「いやもう時間が遅いだろ」 「お前も眠れないんだろう? お望みどおり働かせてやる」  苛ついた薫の調子を見て、江藤はこれみよがしに「はあ~」と息を吐いた。 「頭に叩き上がってるのはわかるが、まずは俺に言い訳させてくれよ……」  弱り切った声にかまわず、薫は江藤を詰めた。 「何がだ。よくもまあ、『統括ペンダントを守るためには、お前が図書館に籠って、小さいエリアを仕切ってるだけだと見せかける方がいい』だ。見境をなくすクマは檻に入れとけと思ったのか」 「あのなぁ!」  ついに耐えきれなくなったという表情で、江藤がわめいた。 「俺の身にもなれよ!! お前が陽哉のことを可愛がってるのを、ずっと見てたのは俺なんだぞ! 病院が焼けた時、お前が火の中に飛び込まないように、最後まで押さえつけてたのは俺なんだぞ! お前が……お前がガタガタ歯を鳴らしながら病院が燃え尽きるのを見てる間、俺は、お前の骨が折れるんじゃないかと思ってた」  最後の方は、泣きそうに掠れていた。薫はその声に我に返った。一旦しゃべり始めると、江藤はもう止まらなかった。 「ずっと思ってる。お前が自分から死にに行くような真似をするたびに。お前の望みどおりに死なせてやった方がいいのかもしれないって。でも……できない。お前の意志とは関係なく……俺は、お前を死なせたくない。死なせたくないんだ。あんな……クソ野郎の思い通りに」  それは、薫が初めて聞く江藤の本心だった。いつも飄々としている江藤が、こらえきれずに唇をわななかせているのを、薫は黙って見つめた。 「わからないのかよ。薫。お前はいつも勝手だ。田嶋だって、口では『政府』を守るとか言ってるけど、実際には、お前を高遠の罠に放り込みたくなかったから、ぎりぎりで決断したんだ。  コピーにされた彼女は気の毒だが、彼女も当時、お前に会うことを拒否した。高遠を理解してたから、お前に致命傷を与える役割をしたくなかったんだ。だから屋島も従った。  それをお前ひとりが知らなかったからって、仲間外れにされた気分になったか?」  無意識に感じていたことを言い当てられた気がして、薫の息が止まった。  なぜ自分があんなに怒り狂ったのか、感情に任せて田嶋を殴ったのか。江藤は薫自身でさえ分かっていなかった心理を、見事に突いたのだ。  自分が知らないところで、全員が結託して自分を守っていた。  薫はそのことに、頭にきたのだ。自分に関することなのに、自分だけが知らずに周囲を偉そうに仕切っていたのだと思うと、恥ずかしくて情けなくて、誰かに当たり散らしたくなるほど、いたたまれなくて。  江藤はさらに追い打ちをかけた。 「しかもだ。バカなお前は今回、高遠の差し金だとわかっていながら、ホイホイ怜にうつつを抜かしやがった。怜にどれだけ実力があろうと、高遠と決着がついてから手を出すべきだったんだお前は。我慢もきかない奴が、野生のクマと同じ扱いされて怒る資格があると思ってんのか!」  言い返す言葉がなかった。  薫の人生をずっと見て、すぐ近くで心配してきてくれた江藤の怒りはもっともで、鋭い槍のように薫の心臓を刺した。  さっきまでの興奮が嘘のように静かになった薫に、江藤はしばらく黙っていたが、やがて大きな溜息をついた。 「まあ、お前の人生によってたかって干渉した点については謝るし、お前を宙ぶらりんな心境のまま図書館にずっと押し込めておいた俺も悪かったが」 「いや……悪いのは俺だ……危なっかしいから、皆いまいち信用できないんだ……」  ガシガシと頭を掻くと、江藤はキッチンに入ってきた。向かい合って立つと、江藤の方が背が高い。薫も180以上あるのだが、江藤は190を越え、どこにいてもすぐに居場所がわかる。  長身の男2人が入り込んでいるせいで、キッチンは狭く感じた。居心地が悪くなって薫が一歩下がると、江藤が一歩せまる。背中が冷蔵庫に当たり、ひんやりした感触が背中全体に広がった。  上から見下ろされるのは、慣れていない。  そういえば、江藤とは長い付き合いなのに、見下ろされた記憶がほとんどないことに、薫は思い至った。  江藤はしばらくじっと薫を見ていたが、唐突に顔を近づけてきた。  突然の圧迫感にうろたえたものの、視線を返す。 「……その、翔也……」  吐息が唇にかかりそうなほど近くで、顔を観察されている。 「なんであの親子なんだろうな……ていうか、なんであの親子はこいつなんだろうな……お互いに見境なくして……」  低く掠れた声には微かな甘さが沁み出ていて、薫は思わず冷蔵庫の縁をつかんだ。  今まで江藤をそういう目で見たことは一度もない。不意にそれが不思議な気がした。高校時代に後輩の男子生徒に告白された時も、『政府』時代に数人と付き合った時も、江藤は特別な態度を見せなかった。逆に江藤が数人の女性と付き合った話を聞かされても、薫の方も別に何とも思わなかった。  お互い、友人としての世間話や、近況についての他愛ないやりとり以上に深い興味や感情を抱いたことはなかったのに、今、江藤は妙に沈んだ目で薫を追い詰め、考え込むような顔をしている。普段は快活な瞳が睫毛に縁取られ、けぶるような靄に包まれていた。 「止めたって聞かないんだろうしな……こういうのは『なんであいつなんだ』とか言ったところで……意味ないか」  諦めたような吐息が薫の唇をかすめる。  ヤバイ、と思った瞬間、江藤の口角がニヤリと上がった。 「なんだお前、口説かれるとか思ったか?」 「ばっっっっか、そんなわけないだろ!」  思わずわめいた薫に向かって、江藤はまだニヤニヤしている。 「一瞬ときめいただろ。顔赤いぞ」 「なってない! 殴るぞ!」 「お~お~、だいぶ威勢が戻ってきたな。俺になびいてなんかいたら、怜に嫌われるぞ? あいつ、絶対に浮気は許さないタイプと見た」 「なびくかバカ」  怒った顔のまま、薫は手の甲で乱暴に唇をぬぐった。なんとなく、そこに江藤の吐息が残っているような感触があって、気恥ずかしかったのだ。  そんな薫から身を起こすと、江藤はほんの僅か、諦めたような顔をした。 「結局……俺も甘いよな……」  かすかな呟き。薫が顔を上げると同時にその呟きは引っ込み、江藤はそのままキッチンを出ていった。

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