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第158話 『東京』にて(3)

 薫が食堂の前で車を降りると同時に、連絡を受けていた怜が走ってきた。辺りはすでに煙と火薬の匂いに満ち、人々は慌ただしく動き回っている。食堂に入る時間も惜しんで、2人は道端で打ち合わせを始めた。 「どうなってる?」  薫の問いに、怜は顔をしかめた。 「あんまり状況は良くない。まだ避難できてない人が多すぎる。あいつら、こっちの弱みにつけこんでるんだ。高田さんも宮城さんも、住民を避難させる方を優先したから簡単に入り込まれた。ひどい話」 「戦闘は?」  怜は珍しく、肩で息をしていた。相当動き回っていたらしい。薫の質問に答えず、怜はいきなりイヤーモニターに向かって話し始めた。 「いや、そっちじゃない。沢城は作業服の木村さんちに集まってる人たちをお願い。おにぎりケンタには重雄さんが向かってる」  おにぎりケンタ? ピンポイントすぎる指示に、薫は面食らった。なるほど、この調子で全員が動いているわけか。  薫の方に意識を戻し、怜は早口で話し始めた。 「北の方で、まだ何か湧きそうだっていう報告が上がってる。京急蒲田駅とJR蒲田駅は自衛軍の封鎖が進行中だけど、どこまで持ちこたえられるか」 「寄越せる消防車は関東全域から向かわせてる。火災は自分たちで何とかしない方がいい」 「わかってる。東京西からの消防車は、全部中央線に送って。こっちは神奈川に要請してある」 「江藤から聞いてる。人員は?」  矢継ぎ早にやり取りしているのに、怜はまったく淀みなく話していた。おそらく戦場全体の状況を、すべて把握している。 「蒲田の人員は今のところ足りてる。自警団の人たちが踏みとどまって、軍と警察に積極的に協力してくれてるんだ。顔、そういえば作ってない」  薫が素顔で来たことに、ようやく怜は気づいた。 「そろそろ奴に見せてやってもいい頃だろ?」 「まぁそうなんだけど、ちょうどいいから薫さんは、あ~と、待って、江藤さんが到着したみたい」  怜はイヤーモニターで江藤に自分の位置を教えると、会話に戻った。 「こんなとこに3人集まったってしょうがないのに」 「江藤はちょっとお前の戦闘を見物に来ただけだ。本命は中央線」  怜が呆れた顔をした。 「ふざけてる場合じゃないって。宮城さんから聞いてない?」 「連中、中央線から南へ展開し始めたって話だろ? こっちから中央線を目指せば途中で衝突できるから」 「そう」  そこで、怜は眉をひそめて指先をちょいちょいと振った。人に聞かせたくない話のようだ。薫は怜の口元に耳を寄せた。 「高遠の奴、どうせ狙いはオレだ。中央線のは派手な陽動だと思う。火をつけながら、あいつらはこっちに南下してくる」 「俺もそう思う」 「でしょ? 江藤さんは中央線まで行かないで、環八を北上、京王線と小田急線の南で道路と線路の両方を封鎖してほしいと思ってて」 「わかった」  突然聞こえた声に、2人は横を向いた。すぐそばに江藤の顔がある。 「気配を消さないでください」  怜の言葉に、江藤は長身を伸ばしてニヤリと笑った。 「お前らがコソコソ話してるから気になっただけだ。環八だろうなとは思ってたから、こっちの配下はすでに北上させてる。俺も今から追いつく。お前らの顔が見られてよかった。薫も怜も、死ぬなよ」 「お前こそ死ぬなよ、翔也」 「よろしくお願いします」  2人に向かってひらひら手を振ると、江藤は再び車に乗り込み、あっという間にいなくなった。 「こういう時って、めちゃくちゃ頼りになりますね……あの人……」 「だな。世話になってばかりだ。それで、高遠はさらにこっちに投入してくるって?」 「まぁ当然だろうなとは思うんだけど。中央線と埼玉ほど、ここは火がつけられてない。何かやる気なのは確か。ただ、薫さんがここにいてもしょうがない。ちょうどいいから、薫さんは環七を北上して、埼玉の例のえぇと」 「有楽町線?」 「そう、その地上出口を押さえてきて」 「……今から一番遠いところに行って、一番面倒なことをやってこいって?」  怜は真剣な口調で言った。 「あいつは必ず、オレのところに来る。薫さんがどこにいようと、それは変わらない。だったらむしろ、いない方がいい」  何かを決意したような顔で、怜は続けた。 「薫さんが、あいつをどんなに殺したがってるかはわかってる。でも、この街で3人が鉢合わせするのは避けたいんだ」  怜の言いたいことが、薫には痛いほどわかった。薫が考えまいとしていたこと、つまり、怜の身柄が確保されるよりも悪いこと。  怜は気づいている。高遠が一番やりたがっているのは、薫の目の前で怜を殺すことだということに。薫が怜のそばにいなければ、それはひとまず先延ばしにされると怜は踏んだのだ。  怜の読みは当たるだろうか。昔の高遠は先延ばしにしなかった。チャンスを捉えたその瞬間に、高遠は薫の家族に襲いかかった。  薫が怜の傍に居合わせないという決断が、どちらに転ぶか。薫にはわからない。  迷っていると、怜はにっこり微笑み、薫の頬に手を伸ばした。熱を与えるように包んでくれる手に、薫は自分の手を重ねた。2年前とは違う。俺たちは変わった。たとえ心臓が止まっても失われることのないものを手に入れた。  自分も覚悟を決めるべきだ。薫は肩をすくめて見せた。 「まぁ仕方ない。宮城には俺の方から連絡する。行きがけに中央線を封鎖したら、埼玉を奪還してやるさ」 「ごめん」 「謝ることじゃない。……わかってる」  また、俺は大事な者の最期に間に合わないかもしれない。  燃える病院を思い出す。血を吐くように家族の名を叫び続けたあの日だ。埼玉へ行き、戻って来た時に怜が炎に包まれている可能性は──。  本当はここにいたい。怜と肩を並べて戦場を走れば、少なくとも一緒に死ねる。  残酷な光景を見ることになったとしても、それでも俺は。 「薫さん」  怜は薫の迷いを見透かしたように、人差し指で薫を──薫の心臓を指差しながら言った。 「この戦い、オレが最後まで生き残れば勝ちだ。あの時とは違う。オレはもう、バカな言葉には踊らされない。誰も、オレを踊らせることはできない。  なぜなら、オレはオレの意志で、薫さんを愛してるから」  怜の目の奥に、大きくうねる波が見えた。哀しみも喜びも、すべてを呑み込んで生きていく強い意志が、薫を包みこむ。  何があろうと、オレは二度と、薫さんを撃ったりしない。自分の魂を殺したりはしない。  見つめ合ったまま、薫は大きく息を吸った。  怜のそばにいたい。それはつまり、怜と対等の魂を持ちたいと願うことだ。過去を乗り越え、自分の意志で誰を愛するかを決めることだ。目先のことに惑わされるな。本当に大切なことは、抱きあって死ぬことじゃない。  肺の奥まで深呼吸をする。迷いを振り捨て、薫は微笑んだ。 「待ってろ。怜。『東京』は俺たちのものだ。お前がここにいる限り、俺はすべてを奪還して、ここに帰ってくる」 「待ってる。そういえば……ちょっと待ってて」  怜は食堂に入り、数分で戻ってきた。その手には一本の日本刀が握られている。 「この間、高田さんが知り合いからもらったって言って置いていったんだ。みんな、あなたの帰りを待っている。薫さん。あなたは生きているんだ。この『東京』で」  日本刀を受け取り、薫は怜と見つめ合った。怜に出会い、初めて共に戦った日が、昨日のように蘇る。あの時の怜のしなやかな動きを思い出す。怜もまた、日本刀を振りかざした薫の姿を思い出しているのだろう。  あの日から、2人はずっと互いを見てきた。断裂の時期も、互いの魂に支えられて2人は生き抜いた。  渾身の力で、最後の戦いを勝ちにいこう。『穴』の底から湧き出す絶望を打ち壊し、明日も共に生きるために。  薫は、待機していた屋島に手を挙げた。屋島はいつの間にかRV車を用意していて、無言で運転席に乗り込んだ。 「愛してる。怜」 「オレも。愛してる。薫さん。どこにいたって、あなたはオレのそばにいる」  薫は振り向かずに車に乗り込み、北へ出発した。

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