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第172話 『穴』にて(4)
鋭く空気を切る金属音は、近づいてきていた。
「何事だ」
高遠が呟く。音は待っている間にもどんどん大きくなり、やがて耳を弄する音になった。壮絶な爆音が周囲に満ちる。ガラスがビリビリ震え出す。
次の瞬間、視界いっぱいに戦闘機が現れた。
薫さんってば。ほんとに、あの人は……。
パイロットがこちらを確認し、親指を立てながら機体を翻した。さらに2機が続く。遥かな空の奥で3機は転回し、再びこちらに向かってくる。
身構える暇もなかった。腹に響く爆撃音と共にガラスが砕け散る。雪のように煌めくガラスと一緒に強い風が吹き込み、怜は身を守るように丸くなった。怜のいる場所を避けてひとしきり機銃を撃ち込むと、戦闘機はさっと姿を消す。
高遠は、茫然と空中を見ていた。まさかこんなものが来るとは思っていなかったのだろう。
「ばかな……衛星写真からも見えないようにしていたはずだ」
呟いてから、はっと何かに気づいたように怜の方を見ると、高遠は胸倉をつかんで持ち上げた。
「お前か! お前が仕組んだのか!」
「……あはは、オレが誰と一緒にいたのか、もうちょっと……考えたら?」
薫の心配性が、最後に役に立った。
渡された3個目のタグを、怜は足の裏、土踏まずに直接貼った。薫が以前傷を隠すのに使ったフィルムテープを借りたのだ。
だからこそ、靴底に仕込んだ2個目のタグに探知機が反応したタイミングで怜は暴れた。靴のタグで高遠と部下が安心するように。そして、信号が外部に漏れる場所に移動するチャンスを狙い続け、高遠を誘導した。
戦闘機が再び近づき、ビリビリと空気が鳴った。突風が吹き荒れる中、灰色の機体が視界をものすごい速さで横切っていく。
地上のどこかから機銃が撃たれる音がしたが戦闘機には当たらず、彼らは悠然と旋回して飛び去った。
高遠は怜に構っているどころではなかった。エレベーターで上がってきた部下に、血相を変えて指示している。それが終わると、高遠は爪先で怜を蹴った。
「下に戻るぞ。立て!」
冗談。
テコでも動かないつもりで、怜は力を振り絞った。体ごとぐるりと足を回し、高遠に足払いをかける。
ひっくり返った高遠に圧し掛かり、体重をかけておいてポケットに手を突っ込む。まずは手錠の鍵だ! 後ろ手で感覚がわからないが、怜はわめき散らす高遠にかまわず鍵を探りあてた。
さっと離れ、背中の後ろで手錠に鍵を入れる。高遠が身を起こし、這いずるように怜に手を伸ばした。鍵を動かしながら、座ったまま後ずさる。あと少し……外れた!
怜の両手が自由になるのと、高遠が怜に飛び掛かるのとは同時だった。転がって、その手から逃れる。跳ね起きて走り、窓の縁に手を伸ばす。足首を掴まれながら縦に残った窓枠に腕を巻き付け、怜はわめいた。
「戻るもんか! あんなとこ、絶対、絶対に!」
ドカンと頭を殴られ、昏倒する。ずるりと腕が落ちる。
だが怜は踏ん張った。ここで気絶なんかしてる場合じゃない。ドクンドクンと脳が痛みで脈打っている。腹も胸も、息がまともにできないほど痛い。それでも、『穴』の底になんか行かない。行かない!
後ろからロープが首に巻き付けられた。
「急いでください!」
高遠の部下らしき声がするが、ロープはどんどん怜の首に食い込む。なんとか向きを変えながらロープを掴む。高遠が凄まじい形相で怜の首にそれを巻きつけ、縛ろうとしていた。食いしばった歯の間から、呻くような声が漏れ聞こえてくる。
「お前は……私の……肥料になるがいい……」
絞首刑にして、ここから『穴』に向かって吊るすつもりだ。
怜は渾身の力で体を丸め、両方のかかとを高遠の腹に打ち込んだ。奴の体が後ろに飛ぶ。それを捕まえロープの余りを高遠の首に巻き付け、自分で端を持つ。
「オレが死ぬなら! あんたも! 一緒だ!!」
顔を殴られ、腹に蹴りを入れられたが、怜はロープの端をしっかり握って体を転がした。高遠がもがきながら怜に圧し掛かる。ロープどころか両手で怜の首を絞めにかかる。怜は夢中で暴れた。高遠の顔に拳を叩きこみ、腹に膝蹴りをかます。肋骨が蹴られ、頭を床に叩きつけられる。ロープが互いの首に食い込み、腕に絡みつき、胴体に巻きつく。
壮絶な殴り合いを続けるうち、いつの間にか眼下には『穴』が広がっていた。2人の頭が外へはみ出し、一瞬、高遠が眩しさに目を細める。怜はその目に指を突っ込む。
太陽が見えた。
明るい緑の景色が、ぐるりと回転する。
怜は渾身の力で高遠の体を蹴り上げた。2人はもつれあったまま窓の外へ飛び出した。
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