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第173話 『穴』にて(5)

「……かおる、さん」  しわがれた微かな声が、怜の喉から吐き出された。必死の形相の薫が、ロープごと怜の腕を掴んでいる。肩で息をしながら、薫は怜の腕を掴み直した。 「ま、間に、間に合った」  薫の歯がガチガチ鳴っている。怜が窓から落ちる瞬間を目の当たりにしたのだ。無理もない。怜がしがみつくと、薫は腕を伸ばして怜の体全体を引っ張り上げた。  中に戻ると、怜は沈みこむように床に倒れこんだ。もう動けない。薫は乱暴にも思えるような勢いで怜の体を抱き上げた。ロープをナイフでぶちぶち切って放り投げ、後ずさるようにして窓際から離れる。  薫はものすごい力で怜を抱き込んでいた。体中がわなわな震えている。 「間に合った、まに、まにあっ」  震える声を聞きながら、怜はじっとしていた。肋骨も頭も、痛くないところがないほど痛い。  薫さんは、ちゃんと間に合わせた。どれだけ必死だったか、怜にはわかる。スーツ姿のまま、薫はアサルトライフルを背負っていた。夕べ戦闘が始まった時から着替えてもいないのだ。汗と埃と硝煙の匂いを嗅ぎ、怜は微笑んだ。 「薫さん……痛い……」 「すまん」  薫が腕を緩める。怜は顔を上げ、窓の方を見た。  高遠がよじ登ってきていた。間に窓枠の縦部分を挟んで飛び出たせいで、ロープが窓枠に引っかかり、2人とも落ちなかったのだ。  薫と怜は、高遠が震えながら床に戻り、へたりこむのを見ていた。うつむき、自分の拳をしばらく眺めている。  やがてゆっくりと顔を上げると、高遠は呟くように言った。 「……やはり、来たな。久しぶりにその顔を見ることができた」 「ああ来るさ。怜のためなら、どこだって」  その答に、高遠はどこか落胆したような顔をした。ポケットから指輪を出し、床に放りだす。 「指輪はここにある」 「だから?」  薫は静かに言った。 「指輪は物でしかない。母さんと父さんと陽哉は、今も俺のそばにいる。怜もな。お前は俺の人生には要らない。どうでもいい。たとえお前が怜を殺しても、俺は復讐する気にもならん。怜との思い出以外、俺には必要ないからな。お前が母さんとの思い出をもてあそびたいなら、その指輪はやるよ」  高遠は奥歯を噛みしめ、薫と怜を睨んだ。 「臆病者たちめ。虐げられても、それを受け入れるようでは」  薫は断固とした口調で言った。 「臆病じゃない。今までお前のせいで不幸になった人たちは、お前には関わる価値がないと証明する努力をしてきた。……与えられた傷はなくならない。でも、傷の存在を受け入れて前を向く努力はできる。お前に支配されないように、自分の人生の外にお前を放り出して、俺たちは生きていくだけだ」  怜は高遠から目を離し、薫の顔を見上げた。  優しくて厳しい薫さんの目だ。2人の間に、あいつはいらない。どうでもいいと思う決断こそが、オレたちを強くする。  長い、長い沈黙が流れ、風が吹き抜けていった。 「つまり……お前たちは、私を倒そうとは、思わないのか」 「思わないな」  薫の声はどこまでも静かだった。 「お前にかかわるのは時間の無駄だ。警察にお前を引き渡して、俺は怜と旅行にでも行くさ。刑務所で自分がやったことと向かい合うんだな。本当に、心の底から、お前みたいなくだらない人間は俺たちの人生には必要ない」  高遠は震えながら薫を睨んでいたが、薫はもう、高遠のことを見ていなかった。怜の顔をのぞきこみ、首の擦り傷や頭の状態を確認し始める。 「だいぶひどくやられたな。病院に行かないと。怜。あぁ無理するな。立たなくていい。俺が運ぶから」  よかった。本当に、間に合ってよかった。  小さく呟く薫に、怜は笑いかける。 「疲れた……薫さんも……無理しちゃったでしょ」 「でも、お前を失わずにすんだ」  顔を近づけて微笑みあう2人の前で、敗北した高遠はじっと何か考えている様子だ。  目もくれず、怜は薫の胸に顔をうずめる。  そうだ。薫さんが来てくれた。オレたちは一緒に戦って、生き残った。  母さんやばあちゃんも、オレが幸せになることを願ってた。……復讐したかったのは、オレの意地だ。  薫さんが抱き締めてくれるなら、人生はそれでいい。 「お前たち……お前……たち……」  低い呟きを無視して、怜は立ち上がろうともがく。早く帰りたい。 「私を見ろ。私を! 見ろ!」  背中の方で高遠の怒鳴り声が轟くと同時に、それをかき消す激しい雨のように、大量の銃声が響き渡った。

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