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第175話 成田にて(2)

 窓からは、レースのカーテンを通して春の風が吹き込んでいた。  薫は目を細めて外を見る。午後の陽射しは柔らかく空に満ち、散歩に行きたくなるような心地よさだった。  窓枠に頬杖をついたまま、薫は外から病室の中へ目を戻した。  脳や内臓にダメージを負った怜は、病院に担ぎ込まれた後、眠ってばかりいる。時折目を覚ましては薫の存在に安心し、また眠る。もう3日以上、その繰り返しだった。  幸いにも命にかかわる怪我はなかったが、内臓は少し出血していたし、肋骨は2本折れていた。脳は全体的に腫れていて、経過観察が必要な状態だ。点滴に目をやり薬液の量を確認してから、薫は怜の顔を覗きこんだ。穏やかな寝顔に吸い寄せられるように、薫はその頬を手で覆う。  温かい怜の頬を、薫はもう何度確認しただろう。生きているということを実感するたびに、薫は泣きたいほどの安堵感で息が詰まった。  俺は間に合った。今度こそ、怜を失わずに生き延びた。目の前で眠る怜を飽きずに眺め、薫はずっと傍にいる。  コンコンというノックの音に、薫は「どうぞ」と答えながら顔を上げた。  入ってきたのは田嶋だった。ケーキらしき箱を掲げると、いつものスーツ姿できびきびと歩き、薫の横までやってくる。 「容体はどうだ?」 「ん~、良くなってきてる。週明けには退院できそうだ。しばらくは安静が必要だが、起きてる時間もだいぶ長くなってきたぞ」 「よかった」  薫が進めた椅子に座り、田嶋は怜の顔を覗きこんだ。 「顔の腫れもおさまってきているようだな」 「ああ」  2人の声に、怜が反応した。むにゃむにゃ何か呟くと、ぼんやり目を開ける。 「起きたか?」  返事はなく、怜はぼけっと2人を見る。やがて脳が覚醒し始めたようで、目に光が宿る。 「ん~、薫さん、今何時?」 「今か? 2時半ぐらいだ。腹減ったか?」 「ちょっと」  そう言ってから、怜は隣の田嶋に気がついた。 「あ、えぇと」 「そういえば、会うのは始めてか……。僕は田嶋だ」  簡潔な自己紹介に、怜は「ああ」という顔になった。 「田嶋さんって、『政府』を仕切ってる、薫さんの友だち」 「仕切っているわけではなく、単に仕事をしているだけだ。今日は君の見舞いに来させてもらった」  起き上がろうとする怜に、薫は手を貸す。田嶋は2人を穏やかに待った。 「お会いするのって初めてですけど、かなりお世話になったんじゃないかって思ってます」  素直な怜の言い方に、田嶋は微笑む。 「いや、世話になったのは僕の方だ。君は佐木の面倒をよく見て、『東京』奪還に尽力してくれたからな。直接礼を言いたかったのだが、遅くなってしまった。そういえば、あ~、佐木に聞いたのだが、君はプリンが好きだとのことなので買ってきた。よかったら」  プリンと聞いて、怜は目を輝かせた。食欲があまり戻ってきていないくせに、プリンだけはしっかり食べる気らしい。  箱を受け取って中を覗き込む怜のために、薫はベッド上のテーブルを怜のそばに引き寄せてやる。 「あっ、これ前に薫さんが買ってきてくれたやつだ。すごく美味しかったから、もう一回食べたいなぁってずっと思ってた。あれ? 田嶋さんがプリンを買ってきてくれるってことは、ここって」 「成田だ。そうか、運び込まれた時には意識がなかったからな」  小さなスプーンと一緒にプリンを取り出しながら、怜はにこにこした。 「そっか~、成田ってよく聞くから来てみたかったんだよね。ねぇ薫さん、街を見られるかな」 「状態がよくなったら散歩しよう。退院したらマンションで一旦療養してもいいし」 「えっ、あ、そうか、薫さん成田にマンション持ってるのか」 「俺じゃない。田嶋の持ち物だ」  田嶋は眼鏡を押し上げながら微笑んだ。 「2年前に君を失ったと思った佐木は、やはりこの病院のこの部屋で、天井を眺めてぼんやりしていたんだ。しっかり療養してほしくてマンションを僕が用意した。あの頃の佐木は、とにもかくにも魂が抜けていてね」 「へ~~」  プリンを口に持っていきながら、怜は田嶋の話を聞いている。 「あまり話さないでくれよ……」  薫のボヤきに、怜がにんまり笑う。 「もっと聞きたい。そうか、同じ部屋だったんだ。そのマンションも見たい。薫さんが『政府』の方で仕事する時って、そこにいるんでしょ? 『政府』って、どんなふうになってるの?」 「そうだな……興味があるなら、僕のオフィスを見に来るといい。佐木のオフィスもいいと思う。もし何かやってみたいと思うなら、採用について」 「おい田嶋、いきなり怜をスカウトすんな」  割って入られて、田嶋はからかうような目で薫に答えた。 「お前こそ、邪魔をするな。彼の能力は非常に優れている。指揮の手腕もすごいが、何より佐木、お前の手綱を完璧に握ることができるのは、相当なマネージメント能力の表れだ。こんな暴れ馬を暴走させず、それでいて100%使い切るという仕事を成し遂げたんだぞ」 「どういう評価だ」  薫と田嶋のやり取りを、怜は噴き出しそうな顔で見ている。そんな怜に、薫がむすっと声をかける。 「おい怜、口車に乗るなよ。こいつと一緒に仕事すると、ロクな目に合わない。ものすごい量の仕事をさせられることになるからな」 「う~ん、まずはしっかり体を治してから考えるけど、見学は行きたいな」 「是非。名刺を置いておく。いつでも連絡してもらってかまわない」 「なんか組織とかってネットでわかりますか?」 「そうだな、僕がいるのは総務省だ。検索してもらえれば──」  薫は、田嶋と怜が『政府』の仕事について盛り上がるのを、なんだか面白いと思った。田嶋がこんなに楽しそうに話す姿は、あまり見ることがない。田嶋もずっと心配してくれていたのだと実感する。  思えば田嶋にも迷惑をかけた。大学時代はもちろん、戦後に『政府』への参加を持ち掛けてくれたのも田嶋だった。高遠との『政府』時代の派閥争いでは矢面に立ってくれた。奴の悪事について敢えて口をつぐんだのも、どこまでも薫を思っての苦渋の決断であったし、薫の『政府』離脱後も陰でサポートを惜しまなかった。 「佐木、やはり彼にお前からも『政府』への参入を勧めてもらえないか?」  真剣に言う田嶋に、薫は微笑む。 「……それは怜が決めることだ。まぁ、お前には世話になったしな……怜が『政府』に来なかったら、俺が今の倍、働くさ」  意外な答に、田嶋が目を瞬かせた。 「お前が『政府』で今の倍働くって? どういう風の吹き回しだ。僕に義理を感じる必要はないぞ」 「いや? 義理ってわけでもない。お前の信念の強さにはかなわないが、まぁ国を立て直すのに参加させてもらうのも面白いかと思ってな。それに……やっと仕事の邪魔をする奴がいなくなったんだから、本格的に物事に取り組めるんじゃないかと」  田嶋は眼鏡を押し上げながら顔をそむけた。喉が詰まったような声が薫に届く。 「そう、そうか……僕は、未緒さんの存在を隠した時も、それをお前に明かした時も……、もう、お前は帰ってこないんじゃないかと……覚悟していたんだが……」 「いつだって、お前は日本のために行動するっていう信念の中で、俺との友情を尊重してくれただけだろ。ありがたいと思うことはあっても、お前との友情そのものを疑ったことはないぞ」  田嶋は眼鏡を外すと、眼元を手で覆ってじっとしていた。その肩に手を置き、薫は穏やかに言った。 「お前にも心配をかけたな。本当に、世話になった。ありがとう。ま、これからも……よろしくな」  薫の言葉に、田嶋は立ち上がった。あたふたとドアに向かいながら言う。 「僕は仕事に戻らないと。怜君、そういうわけで、僕は失礼するよ。本当に、本当に今回は2人ともよくやってくれた。何度礼を言っても言い足りないぐらいだ。ゆっくり療養してくれ。佐木、また連絡する」 「おう」 「ありがとうございました」  大急ぎで出ていった田嶋を、怜はプリンのスプーンを咥えたまま、にこにこ見送った。 「田嶋さんって、かわいいね」 「ああ。あいつ誰もいないところで泣くつもりだぞ」  田嶋はずっと気を張っていたのだろう。ドアを最後に閉める時には、間に合わなくて目尻が光っていた。 「色々あったが、生き残れたのはあいつのおかげでもあるしな」 「そうだね。薫さん、『政府』に残って田嶋さんと仕事するんだ」 「しょうがない。休みはなんとか確保するさ」 「無理しないでくれれば、オレは何も言わないけど?」  次のプリンに手を伸ばす怜の頬にキスを落としながら、薫は笑う。 「無理はするさ。お前との休暇はできるだけ長くしたいからな」 「それは答に悩む言い方だな~」  のんびり言いながら、怜は2個目のプリンに取り掛かった。

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