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エピローグ

「あの、長官」  声をかけられ、薫は振り返った。秘書が書類を持っている。 「大変申し訳ありません、今日中に確認して頂かなければいけない件が発生しまして……」  もう帰ろうと思っていた矢先にこれだ。薫は心中密かに溜息をついた。8時には帰ると言ったのに。仕方なく執務室に戻る。秘書と細かい部分の調整を終らせると、今度こそ庁舎を出ていく。  駐車場でメルセデスに乗り込み、スマホを確認する。江藤からメッセージが入っていた。 『今夜飲まないか?』  あいつはなんで予告しないんだ。エンジンをかけながら電話をかけ、ハンズフリーに切り替える。 「どうした。急ぎか?」 『いや、急ぎじゃない。まぁ、最近どうなってるのか聞こうかと』 「そんな理由か。俺は仕事で3日帰れていない。俺の帰宅を邪魔するなら、いくらお前でも覚悟がいるぞ」 『やれやれ。そんな命がけで誘ったわけじゃない。カリカリしてるな。悪かった。真っ直ぐ帰ってくれ』 「わかればいい。お前の方は順調か?」 『ああ。来週には新庁舎への引っ越しが完了する。少し遠くなるんで、今週飲めないかと思っただけだ』 「なるほど」  電話の向こうで、一瞬江藤が黙った。 『で? うまくいってるのか』 「何が」 『何って……その……』 「だから、俺の帰宅を邪魔するなと言った」 『なるほど。馬に蹴られる前に退散するか。お幸せでよかったことで。薫、飲む時には奢れよ』 「俺の話を聞くならな」 『げぇ。甘ったるい話は勘弁してくれ』  嫌そうな声の江藤に、薫は声を上げて笑った。 「ま、一緒に飲むのはいいが、次は早めに言え。スケジュールを空ける」 『わかった。じゃあ』 「あぁ」  電話を切ると、薫はアクセルを踏み込んだ。メルセデスは滑らかに加速していく。彼の気分に応えるように、美しいラインを描くテールランプは夜の東京へ向かって消えていった。  夜9時すぎ。従業員たちと共にあらかたの作業を終えると、怜は表玄関の戸締りをして裏口へ向かった。小さな常夜灯がドア外に灯っているのを確認すると、そばの厨房に戻る。上から持ってきたノートパソコンを開き、静かに帳簿の確認作業をする。従業員たちは挨拶をすると、少しずつ上の寮へ引き上げていく。  しばらくして、傍らに置いてあったスマホが軽やかな音を立てた。怜はメッセージを読むとノートパソコンの電源を落とし、裏口のドアへ戻る。  メルセデスのエンジン音が近づいてきていた。耳を澄ますと、怜はドアを開けた。  目の前の駐車場に、メルセデスが滑らかに入ってくる。銀色の車体が月夜に浮かび、ヘッドライトが常夜灯と一瞬交わる。  車はいつもの枠へすっと入った。エンジンが止まると同時に運転席が開く。  待ちきれなくて、怜はドアを離れてメルセデスへ速足で歩いて行った。途中から走る。 「薫さん!」 「ただいま、怜。危ないから出てくるなって言っただろう?」  嬉しさと心配の入り混じった顔で、薫が両手を広げる。左手の指先にはプリンの箱。怜が飛び込むと、薫はその体を抱き締めてほっと溜息をつく。 「おかえりなさい。でも」 「言い訳はなしだ。まったく、暗くなってから外をひとりで歩かれるとヒヤヒヤする」 「過保護じゃない?」 「過保護なわけあるか。こんな人目を惹く奴が夜中に外を護衛なしでフラフラしていると思ったら、こっちが生きてる心地がしない」 「人目、じゃなくて薫さんの目、でしょうが。オレはそんなに目立たないよ。背だって高くないし」  薫は怜の顎を持ち上げ、常夜灯の光を映す瞳をのぞきこむ。 「いや? お前が歩いてるのに、見ない奴なんていないだろ。ほんとに、頼むから。俺がしつこいのは認める。たとえ俺のことが嫌になっても、夜中にひとりで出歩くのはなしだ。まだ治安が良くなったわけじゃないんだから」  されるがままに薫の瞳を見上げながら、怜はくすくす笑う。 「わかった。夜は出歩かないようにする」 「出歩かない」 「出歩かない」 「よし」  確認してから、薫は怜の唇に親指で触れる。怜はいつもその仕草に胸が苦しいほど嬉しくなる。ざわめく快感と幸福感とが入り混じった気分で唇を開くと、薫が顔を近づける。  うっとりする感覚が与えられて、怜は薫の首に両腕を回す。腰を抱かれて引き寄せられると、ふにゃりと力が抜ける。舌全体で薫を味わう。優しくて強引な恋人は、気が済むまで怜を貪る。 「……それにしても、薫さんってほんと変わってるよね」  ひとしきり口づけを交わしてから、怜は薫を見上げて笑う。 「何が?」 「だって……けっこう強引なくせに、結局はオレの気持ちを優先してくれるよね。オレけっこう我儘だけど、なんでうまくいってるんだろ。薫さん、オレが決めるのを絶対に待ってくれるし」 「そりゃそうだろ。言いなりになる奴なんかどうでもいい。お前が自分で考えて指揮をとる顔を見るのが興奮する」 「うっわ、何それ」 「お前はいつも、ちゃんと考えた上で俺を受け入れる決断をしてくれる。それってすごいことだと思うんだが」 「……まぁ、わかる気はするけど。でもひとつ不満はあるな~」  ぎくりと薫の体がこわばる。 「何だ?」 「オレがプライベートで薫さんにどうしてほしいかを言っても、考えないでいつも『いいぞ』って言うでしょ」  怜が口を尖らせてみせると、薫はしげしげと怜を見つめた。 「そ、れは……」 「考えてる?」 「考え……てると思う」  にやりと笑い、人差し指を薫の唇に立ててやると、薫はひるんだ顔になった。 「まったく、薫さんって口ばっかりだよね」 「は? 二度とそういう口が叩けないように塞いでやろうか!? ただその、お前が何か俺にしてほしいって自分の意志を言う時は、なんかもう……あぁ……その、頭がぐちゃぐちゃになるぐらい……」  言葉に長けた薫が、頬に血を上らせてしどろもどろになるのが面白くて、怜は声を上げて笑った。薫の目が細くなる。愛しい者を見つめる目になる。  両手を伸ばして、怜は薫の顔を引き寄せる。 「ねぇ、オレが言うことに考えて答えて。オレ、薫さんにすごい難しいわがままを言うから」 「わかった」  真剣な目の薫に、怜は柔らかく言った。 「一週間ぐらい、お休み取って一緒に海を眺めに行きたい」 「いいぞ」 「考えてないじゃないか!!」  思い切り肩を叩くと、薫は痛さに顔をしかめた。 「怜お前、そういうのはだな……」 「だって薫さん仕事で忙しいから、これなら絶対即答できないって思ったのに!」  突然、薫は怜をぎゅうぎゅう抱き締めた。息ができないほど強く。 「ちょ、薫さん、くるし」 「実は俺も長い休みが欲しくて、ここ数か月は死に物狂いだったんだ。来週には一段落つく。あぁ……お前をいっぱい充電できる……まったく、お前ときたら……」  怜の体から力が抜けた。両腕で薫を包みこみ、互いのぬくもりを一緒に感じる。 「メッセージもらったから、頑張って晩ご飯作ったんだ。生姜焼き、だいぶ上手くなった」 「……」 「薫さん?」  怜を抱いたまま黙ってしまった薫に、怜は声をかけた。返事はない。怜の存在を確かめるように、薫はしばらく動かなかった。やがて、怜の耳に小さな声が届く。 「怜……お前が俺といてくれる世界は、生きていく価値がある」  黙ったまま、怜は薫の背中をさすった。それは怜の言葉だ。あなたがいるこの世界は、生きていく価値がある。あなたがいるから、息をして、ご飯を食べて、眠ることができる。  えぐるような悲しみは、心に深い池を作る。昏く満ちる水を見つめて人はたたずむ。  それを忘れる必要はない。それを封じる必要もない。静かにその水を見よ。魂を懸けた悲しみは、いつか心の底を打つ。どこよりも深い闇に、心臓の槌音を響かせながら。  お前が持てるすべての力で、夜に悲しみを撃ち込み続けよ。心臓が動いていれば。そうすれば。  いつか悲しみは、夜の底さえ穿つだろう。  薫と怜はもう一度口づけを交わすと、明るい光を夜に放つ、ドアの奥へと入っていった。

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