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ep.1
運命なんて信じたくはないけれど──目の前で証明されてしまってはどうしようもない。
花瀬 慧 はもう二度と連絡することもないであろう人のメモリを携帯から削除して、窓の外のどこに視点を合わせるわけでもなく静かに深いため息をついた。
うなだれた腕の中で携帯が震え、花瀬は再び画面を覗いて相手を確認してから着信に応答する。
「もしもし?」
「──花瀬? 生きてるか?」
電話の相手は大学時代から社会人になった今でも仲の良い奥秋 だった。
悲しいかなその奥秋こそが自分にあの人を引き合わせた張本人だったりもする──。
「そこまでやわではないよ、産まれたの?」
「──うん、今朝。男の子だって」
「そうか。男の子か……あの子の子どもならきっと可愛いだろうな──って、写真は送らないでよ」
「そこまで俺は鬼じゃねぇよ、この電話だって一応最後まで悩んだんだぞ」
「そうだな、お前はそういう奴だ」
──いつだって自分は二の次、誰かに優しくするばかりでお前はいつ幸せになる?
「奥秋。人のことは言えないけど、いつまでも貧乏くじばかり引くのはやめろよ。お前はもっと自己中心的に生きてもいいと思うぞ」
「言ってる意味がわからない……」
自分のことに関してひどく鈍感な親友に花瀬は再びため息をついた。
「自覚がないのは重症だけど、まあいいよ。今晩飲みに行こうか、ひとり者同士で」
騒がしい居酒屋の店内を抜けて花瀬は外で一服している奥秋と同じく大学時代からの腐れ縁であるもう一人の悪友、江國 に向かって腕組みしながら呆れ声を掛ける。
「──お前は少し奥秋くらい空気の読める男になったらどうなんだ?」
「なぁにが、チョー読んでんじゃん、空気。失恋した親友に癒しの出会いを──みたいな? 新しい命が産まれてめでたい時に半分ゾンビになった男二人と飲んで何が楽しいのよ、非生産的過ぎてアルコールの価値が下がるわ。酒は楽しく飲むものだろ、脳が酒をネガティブにインプットすんだろが」
「別にお前まで巻き込んだつもりはないけどな?」
「お前ら二人の考えなんて安易に想像ついたんだよ、案の定二人で告別式だったじゃねぇか、失恋でそれしていいのは可愛い女の子とΩって昔から決まってるんだからね?」
眼鏡の下から覗く江國のシラけた視線に痛い腹をつつかれ、悔しいかな、花瀬は返す言葉を失う。
店内に一人残してしまった奥秋のテーブルへと帰るため花瀬は「先に戻ってるぞ」とだけ言い残し、江國に背を向けた。
戻って来た花瀬の姿を見てホッとしたのか、奥秋がすぐに安堵の表情を見せたのが遠目でもわかった。
「おそーい、花瀬くんっ」
「ごめんごめん、仕事の電話だったから長引いて」
テーブルへ戻ると三人の女性がそれぞれに花瀬に文句を溢しながら再び明るく話し始める。何事もなかったかのように奥秋も花瀬も慣れた仕草で彼女たちの相手をこなしはじめる。
自分が知る、とある雄のΩの繊細さを思えば彼女たちの機微はとてもわかりやすい──今は群れをなしているから尚更だ。
忘れると今朝断ち切ったはずの誰かの影を未だにこうして何かにつけては思い出す自分がこれ以上ないくらいに情けない──。
江國がわざと似ても似つかない女性たちを紹介したのはそこから離れるためだとわかっているのに、似てなさすぎがかえって記憶の奥にいる誰かを蘇らせる──。
これじゃあ恋に恋する思春期の少年だ──。
実らなかった片想いはこんなにも鮮明に人の心に残るのかと花瀬は自身の年齢に似つかわしくない純粋な恋心に辟易とした。
その甘ったるい感情を打ち消すように濃くて苦いアルコールを一気に喉の奥へと流し込んだ──。
突然がつんと顎を何かに殴られて花瀬は痛みと驚きで目が覚めた。頭上には見慣れた自分の部屋の天井があってそこへ明るく差し込む太陽の光──どうやらもう朝のようだ。
驚いて見開いた目の二番目に入ってきたのは人間の足だった。近すぎていまいちピントが合わずに花瀬は眉間に皺を寄せたまま起き上がる。
さっきの痛みの原因はこれか、と痛む顎を撫でながら見覚えのない枕元の足を睨んだ。
──奥秋のでも江國のでもない、二人より明らかにサイズが小さいし白くて細い。
足の持ち主を確かめようと視線を動かすと花瀬の持ち物であるスウェットの上衣だけを着て豪快に寝ている見知らぬ男がいた──。
「──誰だ?」
花瀬から向かっての自身の足側、つまり相手の頭側に花瀬は身体ごとズレてその正体を覗きに行く。
大きな口をだらしなく開いて色気なくいびきをかきながら寝ているその男の正体が花瀬には全くわからなかった。
昨日は江國の知人女性三人と飲んでいたはずなのに、今ここにいるのはその中の誰でもない上性別すら最早別物だ──。
少し不安になって相手のスウェットの裾をめくると下着はちゃんと履いてあったので無駄に花瀬は安堵した。
その花瀬自身上半身は裸なものの、下半身は昨夜履いていたスラックスのままだった。その姿に安堵した反面、一晩そのまま眠ったせいで皺くちゃになったスラックス相手に後悔の念のあまり顔を歪めた。
ベッドから起き上がり自分の携帯を探す。
床に乱暴に転がったそれを見つけて手に取り、親友たちとの最後の記憶を辿ろうと中を確認する。
画面の中のやりとりは六人で呑み終え、実りないまま解散したことが伺えたが、それ以上のことは読み取れず、どうして自分の部屋に知らない男が今寝ているのか全くもって確認出来なかった──。
かつての人生でここまでの醜態を晒すほど酒に溺れた経験のなかった花瀬は、思ってた以上に深かったらしい自分の傷心具合にあまりにも情けなくて苦い笑いが出た。
「──そんなに好きだったのか? 驚いた」
思わず口をついて本心すら溢れる。
今更だというのに少し泣きそうにもなる──あまりにも情けないと思う反面、自分ではダメだった運命の結末にひどく落胆する。
新しい家族を築かれてしまってはもう太刀打ちできない──そこで微笑み暮らす、幸せな相手の姿を想像するだけで今でも気が遠くなりそうだった。
黒い短髪を無造作にグシャグシャと乱暴に掻き回し、自分の愚かさに呆れて短く息をつく。
「大人の男でも失恋ってのはダメージがデカいんだね」
いきなり背後から見知らぬ声がして、花瀬はビクリと肩を揺らして声の主の方を振り返る。
部屋にもう一人いる事を危うく花瀬は忘れかけていた。
豪快にいびきをかいて寝ていたはずの男はすっかり目を覚ましたらしく、ベッドに腰掛けこちらをじっと眺めていた。
「え……と、おはよう……」
花瀬はこの異常事態に一周回って冷静で正常な挨拶を男へと返す。
「おはよう」
ベッドに座ってこちらを見ている彼は明らかに自分よりも若かった。
薄茶色の猫みたいにつった瞳がぱっちり開いてこちらを眺めている。
両耳にピアスが開いていて、髪も明らかに地毛ではないとわかるほど明るく、ピンクと金髪の混じった派手な色がカーテンの隙間から注ぐ太陽にはっきりと照らされていた。
人付き合いの多い花瀬ですら、この手の人種はかつての出会いの中に一人としていない。最早別次元の人間に思えるほどだ──。
「え……っと、非常に申し訳ないけどはっきり言うよ。君と会ったこと、覚えてないんだ。どこでどうなってこうなったのかな? 俺が君を誘った?」
「──違う。俺がアンタを誘った。居酒屋帰り、酔い覚ましにひとり夜風に当たってたアンタを俺が見つけて声を掛けた」
その言葉にほんの少しだけ花瀬は安堵してしまう。
「そう……なんだ。そこで思わず意気投合しちゃったのかな? 初対面の人を家にまで呼ぶなんて我ながら大胆で驚いたよ」と花瀬は中身のない笑みを浮かべた。
「──呼ばれてないよ。俺が勝手にストーカーしただけ」
「はいっ?!」
異常事態にはお似合いな狂気じみた単語が耳に届いて花瀬はすっかり笑みを失い、一瞬にして固まる。
「ス、ストーカー?」
「ずっと後ろから着いてって、ほらあのテレビの刑事モノみたいに前のタクシー追ってくださいってやつ、人生で初めてやったし、割増で乗るタクシーも初めてだった。ガチで高くて来月のカードの引き落としが今から怖い」
無駄に瞬きの多い花瀬に対し、彼は淡々と今朝までの歩みを真顔で話してきかせた。
──マンションについてからは背後に隠れてエントランスのオートロックを突破し、エレベーターから玄関までずっとそうやってたどり着いたと。
「……部屋の中にはどう、やって?」と、花瀬はどこかネジが外れた古いロボットみたいに首をカクカクさせて尋ねる。
「玄関入った瞬間後ろからタックルした」
──やはりずっと犯人が告白する実録犯罪ファイルを自分は聞かされていたのかと花瀬は覚悟するように強く目を瞑った。
「あ、の、君のした、こと、って……犯罪だと思うんだけど……」
「うん、だから既成事実も作った」
「うんって素直に認め…………ん? キッ、キセイジジツッテナニ?!」
犯人の話す恐ろしい言葉に花瀬は慄きのあまり、身体が床から少し浮いたような錯覚を覚えた。
「俺、ヒート前だったから俺の匂い嗅いだらアンタ途端にラットになって……もう、ものすごかった。クールなイケメンが突然理性飛ばして獣みたいに興奮して俺のこと……。もう、すごかった。激しくて死んじゃうかと思った」
花瀬はとうとう脳味噌がショートしてしまい、その場に力無くへたり込んだ。その時ようやくスラックスのファスナーが完全に開きっぱなしなことに気付き、更なるトドメを食らう。
「俺の服……アンタが全部破っちゃって……勝手に借りたよ?」
少し戸惑いながら男が目を泳がせ口籠るので、花瀬はもう一発深く打ちのめされた──犯罪者に犯罪で返してしまった自分に心の中でこれ以上ないくらいの罵声を浴びせまくり、昨夜の自分を呪いに呪った──。
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