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ep.2

 目の前にいる青年は、栗生(くりゅう)紫葵(ちな)と名乗る雄のΩだった──。  昨夜は花瀬と同じあの居酒屋のたまたま隣のテーブルで専門学校の友人たちと飲んでいたそうだ。  あからさまにイケメンに媚びるハイエナ女たちの姿があまりにも滑稽な上、薄っぺらい花瀬の胡散臭い笑顔がたまらなくおかしくてずっとそれを酒の(つまみ)にしていたらしい。  勝手に家までついてきただけなら紫葵を一方的に責められたが、いくらあちらから強引に誘ってきたとはいえ、それを自分も受け入れたとなれば話は別だ。この場合責任は五分五分、もし避妊せずにΩである紫葵を最後まで抱いたのならαの花瀬のが責任比率はかなり大きいだろう。  頭を覚ますために軽くシャワーを浴びた花瀬は適当に拭いた半乾きの髪の毛をそのままに、Tシャツにスウェットパンツ姿でリビングのソファに座り神妙な顔をして昨夜の破滅的な自身の行為を思い出そうと必死だった。 「ねぇ、俺お腹すいちゃった……コンビニ行きたいからズボンも貸してくれない?」    少しおとなしく我慢していたようだがいい加減限界がきたらしく、紫葵が困った顔で所在なさげにリビングの入り口に立っていて、花瀬は慌てて立ち上がると「すぐに作るよ」と声をかけた。  改めて並んで立ったその時、紫葵の小ささにある既視感がよぎったが、花瀬は深く考えるのをやめてそのままキッチンへと向かった。  若い紫葵は朝から食パン二枚とトマトを混ぜたハムエッグを一瞬で平らげ、出したコーヒーもおかわりしてきた。  世間的にはまだ若いとされる25歳の花瀬がそれよりもわかりやすい紫葵の朝の食欲の若さに内心慄いた。  剥き出しの両足は痩せてはいたが年齢のせいで肉付きが若干カバーされ、健康的に思えた。  どうやらブラックコーヒーが苦手らしく、ミルクをたっぷりと足す紫葵が不意に誰かと重なる。  居た堪れなくなって視線をよそへ逸らすと紫葵が横目でこちらをこっそりと見ていた。 「──αのアンタが惚れたΩってどんな人だったの? アンタを振るなんてよっぽどな人だよね」    急に思わぬところを突かれて花瀬の視線が再び紫葵へと戻ってくる。 「俺、君にそんな話……したの?」途端に花瀬は背筋がヒヤリとした。 「してないよ。ひとりごとで話してるのを聞いただけ。昨夜とか今朝とか。俺にその人の影を見てたのも知ってる」  その言葉に心臓が鋭利な何かに抉られた。大きな猫の目にじっと見られて胸の痛みがさらに増す。  だが、紫葵のその風貌や容姿はなにひとつ彼には似ていないのだ──。    なのに、紫葵を見ていて時折脳裏をよぎる彼……。それは花瀬が一方的に想いを寄せて──いや、少しは彼もこちらを見てくれたのは確かだった。だけどΩの本能が最後には花瀬を拒絶した。  泣きながら花瀬に何度も懺悔し、花瀬の前から姿を消して、今は本当に心から愛する運命の相手(α)と新しい家庭を築いて共に新しい未来へと歩み出した。  もう彼がこちらを振り向くことは未来永劫ないのだ──。  紫葵はΩ特有の華奢な身体と自分より低い背がその彼と同じなだけで、何一つ似ていない──。派手な髪色も主張の激しいその目もその声も、そのあからさまな性欲も──何一つ似ていないのだ。 「初対面の君に簡単に話すほど俺はそこまで弱ってはいないよ」 「──ふうん? 大人のくせに嘘が下手だね」  空になったマグカップの縁を細い指でなぞりながら紫葵は退屈そうに大きな瞳にまつ毛の影を落とした。 「──くん」  その名に花瀬は一瞬息が止まる。 「つゆりって珍しい名前だよね。くんってことは俺と同じ雄のΩ。そしてそのつゆりくんはアンタを選ばなかった」  花瀬は勝手にペラペラと話す勘の良い紫葵を睨むようにして見つめた。 「──少しは本気になった? アンタってばこんな異常事態でも居酒屋で見た時とおんなじ、表ではずっと柔和な顔してて腹の中で何を考えてるかわかんない。クールなのはαにはありがちなタイプだけど、一番違うのは一人のΩに一途な想いを寄せたってこと。俺はすごくそれに興味が沸いた」 「──悪趣味だね」 「かもね? けどΩって捻くれるように出来てんの。小さい頃からの扱いも酷けりゃ大きくなってからも戦争の毎日よ。竹のように真っ直ぐとはいかないよねぇ」  花瀬はそれを否定するのも面倒だった。Ωの彼がそう言うならそうなのかもしれないし、自分はΩの何を知っているわけでもない。  だけどあまりこれ以上彼と親睦を深めたいとも思わない──。 「俺は本当に君を抱いたの? 記憶にないから謝ってもいまいち誠意がないかもしれないけど……事実なら本当に申し訳なかった。いくら君が強引に誘ったとはいえ、俺がもし避妊していなかったのならあらゆる費用は全額負担するよ。ちゃんと薬も飲んでアフターケアして。あと俺の連絡先も一応教えておくよ、何かあったら──」 「──いらない」  淡々と財布から札を取り出そうとする花瀬をよそに紫葵はご馳走様と言い残し、床に落ちていた自分の携帯とカバンを拾うとそのままの格好で玄関へ向かった。  慌てて花瀬が追いかけたが紫葵は色のない声で「金なんか要らない。この服だけ代わりに貰っていく」と花瀬の方も見ずに告げるとさっさと扉を閉めた。  大人の対応なら今すぐ彼を追いかけてきちんと服を与えて、帰りの車代も持たせてしっかり全ての責任を負うべきだった。だけど花瀬はもうそこから一歩も動くことが出来なかった。  そのまま壁に背中を預けたまま廊下に崩れ落ちて、重く疲れ切った身体を壁にもたれ掛けてゆっくりと深呼吸する。  起きてからずっと初対面の他人相手に半ば警戒しながら気を遣うことに無意識のうちにひどく疲弊していたのだ──しかも記憶にない一夜の相手。  最低限の理性を繕って彼に接してはいたが、本当の花瀬は昨日ですでに瀕死状態だった。  短い間だったが、初めて会った時から心を奪われ、一気に熱を上げて誰よりも本気になった相手(Ω)。  彼を失ってからの長い時間も未練を残し、それら全てを打ち消したくて人生で初めて酒に溺れ、それで少しは忘れられるのかと思っていたら逆に冴えた頭が現実を呼び覚まして花瀬の傷を深く抉る。 ──その傷をさらに知らない若者に抉られ、ずっと呼ぶことを避けていたその名まで声にされた。 「俺はあの子の前で栗花落(つゆり)くんの名前を呼んだのか、しかもあの子を抱きながら──? 最低だ……」  花瀬はそんな自分を心底、最低最悪な男だと思った──。 「栗花落くん……はは、久々に声にして呼んだな……」  花瀬は顔を右手で抑えながら肩を揺らし、思わず失笑する。名前を呼ぶだけで胸が未だにおかしくなる、喉が熱で乾く──。  同じ歳だけど、可愛らしい子だった──。  自分が知らないだけで捻くれていたのかもしれないし、そんな面の一つくらい彼にもあったろう。  だけどあの子にはいつも嘘がなくて、よく笑って、明るくて、周りにすごく気が利いて──その全てにたまらなく惹かれた。  ほんの少しの彼しか知らなかったけれど、嘘みたいに一直線に恋に落ちた──。  忘れたくなくて最後に抱きしめたあの肌の匂いをずっと身体の奥深くに閉じ込めていた──。 「……これじゃあ俺も悪趣味か……」  花瀬は自分自身に呆れ返って大きなため息を天井に向かって吐き出す。  何分か呆然と廊下でうずくまっていた花瀬だったが、いい加減自分の腹の虫が鳴っていることに気づき、重怠い身体をどうにか起こして部屋へと戻った。  先に昨日の全てを消し去りたくて、寝室に入り紫葵の体温がうっすら残る上布団を勢いよく捲り上げる。    そこで花瀬は身体が凍りついた──。  乱れたシーツに小さな血の跡が点々とシミを作っていた。  花瀬は一瞬にして全身から血の気が引いた。身体のどこにも痛みも何もない花瀬のものではないことは明白だったからだ──。  足元には見覚えのない服たちが半ば破られたかのように転がっていて、花瀬は頭に回る血流が一気に慌ただしく早く脈打つのを感じた。二日酔いのように突然ガンガンと痛み出す頭を抑えながら、その服に震える手を伸ばし拾い上げる。  花瀬の脳内に突然、悲鳴のような高い声が襲い掛かる──。 『──怖いっ……ヤダっ、助けてっ!!』  バタバタと暴れる見覚えのある白い両足……こちらを怯えながら見ている涙で濡れた猫のように大きな瞳──  パズルのピースが(ばら)けて落ちるように余りにも断片的ではあったが、昨夜、自分と紫葵の間に何があったのか、花瀬が紫葵に犯した乱暴な行為が走馬灯のように目まぐるしく頭の中を駆け巡った。  花瀬は頭を抱えながらようやく現実に戻り、迷うことなく玄関へと走り出した。  エレベーターに飛び乗り、エントラスまでノンストップで走ってマンションの外まで勢いよく飛び出る。  息を切らしながら必死に周りを見回すがどこにも紫葵の姿は見当たらない。紫葵が玄関を去ってからもう5分以上は経過していたし、タクシーを拾ったのならばすでに姿がなくとも当然だった──。 「……俺は……なんてことを……クソッ、何やってんだ俺!」  花瀬はどうにもならない怒りをぶつけるように自身の太ももを殴りつけ、両膝に手を着き地面を睨みつけた。頭に上った血が脈打つ音で周りの雑音が掻き消される。 ──誰が五分五分だ、費用は負担するだ。ふざけるな!   こんなもの全て自分の責任だ。卑劣な犯罪者はむしろ自分の方ではないかと花瀬は自身の身体を駆け上がる自己嫌悪と憎悪の波で脳を沸騰させ、同時にどこまでも愚かな自分に失望した。  その後、駅に向かって走り続ける間も結局紫葵の姿を見つけることが出来なかった──。  高身長で目立つ容姿の花瀬がラフな部屋着のまま息を切らしている姿をチラチラと周りの人たちが物珍しそうに眺めていたが、今の花瀬には周りのことなど何一つ目に入っていなかった──。

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