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1◆碓氷丹夏
嫌いなものを三つ、好きなものを三つ、理由とともにさあ今すぐ答えてね。と、にっこり笑った顔に殺意を覚えた俺は悪くないと思う。
ていうかバイトの面接でそんなん訊く? そんなん必要? そりゃベンチャー企業とか、大手エリートとか、そういうところの正社員だったら『最近見たニュースに関しての所感をどうぞ(キリッ)』みたいなこと言われるんかな、と思う。そのくらいの想像力は高卒バイト野郎1の俺にもある。
けどまさか、居酒屋バイトの面接でそんな意識高いご質問がぶっ飛んでくるとは思わない。これは俺の想像力の欠如が問題じゃないはずだ。……たぶん。
嫌いなものを三つ、好きなものを三つ。
自慢じゃないがいきなりそんな事を言われてパッと言葉にできるほど、俺は器用じゃない。普通に友達に聞かれたらそりゃ、普通に考えるけど、だってこれはバイトの面接だ。俺の趣味が聞きたいだけじゃない筈だ。
バイト面接前に送り出してくれた大人たちのアドバイスがぐるぐると頭の中で乱舞した。とりあえず笑っとけ。質問の真意を考えなさい。大丈夫、丹夏くんはできる子だよ――いや最後のは別にアドバイスでもなんでもないな、でもその言葉を放った男の柔らかな笑顔を思い出して、パニックになりかけていた頭をどうにか落ち着かせることはできた。
嫌いなものは山ほどある。温まりきらなかった弁当の冷たい部分、グラスの結露、古い本のシミ、雨でぬれて張り付いた服、他人の視線、軽く飛んでくる何気ない暴言。嫌いな理由は全部、『気持ち悪いから』以外に思い浮かばない。
でも、好きなものは難しい。
好き、という言葉に関連して思い浮かぶものは檸檬と青とギラギラ光るピアスで、いや落ちつけそれは好きなものっていうか好きな人だ、と深呼吸をして無難な嘘を考える羽目になった。
でも結局、その質問には答えなかった。
というか、口ごもっている間に『あーごめん、難しかったかな(笑) もういいよ(笑)』みたいに流されちゃったから、答える資格さえ奪われたって感じだった。
いやお前が訊いたんだからせめて答えるまで待てよ。と、言えるような性格ならどんなに良かっただろう。
俺の見た目はまあそれなりに普通なのに、どうにも肝っ玉が小さいというか臆病者というか、とにかく軟弱だ。
バンドやってるのにそんなに気弱で大丈夫なの、なんて心配は俺的には的外れだと思う。中高とギターと友達状態で、音楽ばっかり聴いて生きてりゃ陰キャオタクまっしぐらだ。
陰キャで根暗で気弱だから、人間関係も続かない。
コンビニのバイトはまあまあ続いていたのに、この前揉めて解散したバンド仲間の嫌がらせをモロに受けて、結局辞めた。高卒で家出同然に飛び出した俺は、家賃滞納でアパートも追われそうになった。
じわっと不幸だなーと思っていた人生だったけど、ここにきて『あれ、俺って結構まじでド不幸なのでは?』と思い始めた。
まあ、その後に異常な幸運捕まえて衣食住だけはどうにかなったけど。……捕まえてっていうか、拾ってもらって、って感じだったけど。
いやしかし。
「……理不尽だったんじゃない……?」
まあ採用しないけど、人がいなかったら声かけるね(笑) と俺の履歴書を仕舞う男を思い出す度に、胃の奥がイラっとする。
初見から決めてました不採用! ってことだったのかもしんないけど。それにしたって、わけのわからない質問ぶつけて半笑いでごめんごめんやっぱいいわーなんて言いやがるのは、舐められていた以外の理由が思い浮かばない。
寂れた駅の改札を出て、もやぁっとした気持ちを動力に足を動かす。
ささやかな飲み屋街で酔っ払いを避け、ぼやっと明るい住宅街を抜け、小さな川を通り越してさらにその先、ちょっと細い道を抜けてから急に開けた視界の先に、俺の現在の仮住居――通称檸檬屋敷が、唐突に現れる。
どう控えめに表現しても幽霊屋敷か廃墟といった外観だ。
室内は綺麗にリフォーム、されているわけもなく、外観通り普通にボロい。畳張りだし、土カベだし、風呂は全自動じゃなくて水を張って沸かす形式だし、トイレは一階にしかないし、廊下は雨漏りで腐っている場所がある。
唯一まあまあそれなりに素敵ポイントかな……と思えるのは、裏庭に植えられた檸檬の木の壮観さだけど。檸檬以外の手入れはほとんどされていないから、美しい庭とも言い難い。檸檬実ってる時は色が綺麗だなーくらいのものだ。
アパート、というよりは寮、といった感じかもしれない。一応部屋ごとに鍵はかかるけれど、トイレも台所も風呂も共有だ。
動かす度に壊れそうで怖いガラス戸をスライドさせて、一応小さな声でおじゃまします、と付け加える。半年間、住んでいてもまだ『ただいま』と言う勇気がでない。こういうところがなんていうか、俺の軟弱で意気地なしな部分だ。
一歩踏み出した後に、ふ、と耳に違和感を覚えた。
音が、少しだけしりすぼみに消えていくような、座りの悪い違和感。
槙枝さん、食事中か。てことは、トクイチさんは仕事中かな。
じゃあ静かに二階に上がろうと心掛けたのに、階段横の扉が勢いよく開いたせいで盛大に飛び上がって床を踏み抜きそうになった。ちょっと悲鳴出たかもしれない。
「ナイス! タイミング! 不幸少年!」
扉の奥からひょっこりと顔を出したのは、赤い髪の毛の男の人だ。
野瀬徳市さん。確か三十代半ば。それにしては背格好も見た目も格好いいのだけれど、本人はわざとらしくオッサンくさいふるまいをする。例えば彼は俺のことを、やたらと子供扱いする。
二十二歳なんかトクイチさんにとっては確かに子供みたいなもんだろうけど、それにしたってその呼び方はどうかと思う。
「いや俺少年って歳でもないんすけど。一応酒飲める歳なんでちょっとその呼び名どうにか――」
「んだよ不幸童貞野郎の方がよかったか?」
「……ナマ言って……さーせんでした……」
「わかりゃいいんだよ少年。おまえ、でけーのは背だけじゃねえかよ少年。バンド野郎なんて心は少年の方がいいだろ、ほら、吉田拓郎も清春も少年の心歌ってんじゃんかよ」
「すいません、吉田さんの方は知りません」
「うっそ。え、マジで? バンド野郎なのに? あ、これが、ジェネレーションギャップって……やつか……」
ショックうけるなら年齢の話やめたらいいのに、と思うが言わない。あと清春も吉田なんとかさんもたぶん少年の心を歌っているわけじゃないんじゃないかなと思ったけれどこれも言わなかった。
これは俺が気弱なせいではなく、トクイチさん相手に言葉を返しまくると単に、話が長くなりすぎるからだ。
トクイチさん相手、というか、うん。この檸檬屋敷に住む大人たちは、どうも、やたらと話が長い。
その上俺はなぜか彼らに気に入られている様子で、何かと無駄に声をかけられる。
無視をされるよりいい。ちくちくとした言葉の棘をこれみよがしにぶつけられるよりも、ずっといい。
だから人間不審気味の俺でも、この屋敷の人たちと話すときは肩の力を抜くことができる。でもちょっと煩いというか、たまには一人にしてほしいと思うのも本心だけど。
ところで用件はなにか、と俺が口を開く前に、トクイチさんの後ろの方から女の人らしき声が聞こえた。ごねるような苛立った声。それに笑顔で対応してから、トクイチさんは廊下の奥を親指で指す。
「疲れてるところわりーんだけど、槙枝が食いすぎてて音がちょっと拾えてねーの。もうちょい加減してくれって伝言、頼まれてくんねえ?」
「……いいっすけど。トクイチさん、ここんとこ毎日撮影してません? 金貯めて海外にでも飛ぶんすか……?」
「ばぁか、えーぶいで金がっぽがっぽなんて過去の話よ。女優ちゃんたちは出りゃ出るだけ貰えっかもしれねえけど、オレは払う側だーっつの。つーわけで頼んだぞ童貞」
「少年の方にしてください」
「否定しない素直なとこわりと好きだよ。これだから丹夏は弄り倒したくなんだよなぁーそういや面接どうだった?」
「面接のオッサンがクソだった」
「うはは、じゃー駄目だな! 駄目! お前じゃなくって向こうがクソで駄目だ! 別んとこ探せ探せー職場なんざガチャみてーなもんだ!」
通り過ぎるときに背中をバシバシ叩かれて痛かったけれど、別にいーじゃんと言われただけで随分と胃の奥が軽くなる。とりあえず笑っとけ、と送り出してくれた人は、笑いながら扉を閉めた。
煩いトクイチさんの笑い声は余韻を残さない。確かにいつもよりなんだか強めだなーと思う。足音が響かない。ギシギシ鳴るはずの床が、まったく唸らない。
意味ないだろうけれど一応ノックをしてから、一階の奥の扉をガラリと引いた。トクイチさんの部屋はドアなのに、なぜか槙枝さんの部屋は引き戸だ。
「槙枝さん、すいませんトクイチさ――うっわ」
思わず、というか、当たり前のように飛び上がった。
畳の上に無理矢理板を敷いた何とも言い難い作業部屋のような空間で、いつものようにくるくる回る事務椅子に座って少し目を閉じて眠っているように微笑んでいる――と思っていた槙枝さんは、何故か床に転がっていた。
長い手足がだらっと投げだされ、視線はぼんやりと天井を見つめたまま動かない。瞬きもない。いや槙枝さんはいつも瞬きしないけど、流石に不気味すぎてガチで変な声が出た。
どう見ても死体だ。血は流れていないけれど、殴殺されて転がされた死体にしか見えない。
死体にしか見えないけど槙枝さんが死ぬわけない、という事実を思い出して、止めていた息をやっと吐いた。
「っくりしたぁ……なに、してんですか、そんな、床の……っあ、もしかして寝てる……?」
「……いや寝てないよ、起きてる。ていうかおれ、寝る習慣ないしね」
ふは、と笑う。急に槙枝さんの表情に精気が満ちる。
動いていないと本当に置物か死体にしか見えないから、できれば座ってくださいと素直に告げると、ゆるやかに身体を起こした槙枝さんは、とても自然に苦笑いを零した。
「いや、ちょっと今日、椅子の上だと落ち着かなくってぐるぐる回っちゃって、別にほら、目が回ったりはしないからいいんだけどたまたまイシャンに見られて、『無表情でぐるぐる回る貴方は大変怖いので椅子の上から降りてください』って言われちゃったからさ」
言いそう。にこやかに流暢な言葉を扱うインド人の顔が、目に浮かぶ。
そういうときはベッドか布団の上に横になってほしいものだが、なんとこの部屋にはどちらもない。椅子とテーブルの他には、たまに俺が座る低いスツールしかない。
「いや床に大の字になるのもやめてください怖い……」
「えー。じゃあ何処に居たらいいの。椅子の上も床の上も駄目なら、あ、立ってたらいいのか?」
「いやそれも怖い」
「丹夏くんは我儘だなー」
どうすりゃいいの、と槙枝さんが首を傾げると、ちょっと乱れた青い髪が揺れる。顔面にぼこぼこと開いたシルバーのピアスが、うすぼんやりとした照明を反射して滑らかに光った。
槙枝さんはいつも同じシャツと細身のパンツだ。長い手足にすらっと似合っていて、格好いい。
洗濯の必要がないので、まあ、そりゃ同じ格好で問題なんてないのだろう。俺も年中似たようなTシャツにジーンズだけど、槙枝さんとは事情が違う。俺は単にお洒落ってやつが苦手なだけだ。
笑うたびに上下する喉仏から視線を逸らし損ねて、また笑われる。
「丹夏くんは我儘だし、相変わらずおれなんかのことが好きで大変だねぇ。なんだっけ、こういうの、不憫って言うんだっけ?」
「ろくでもない日本語覚えるのやめてください。俺の人生はそこそこ不憫な自信はありますけど、今は結構幸せなんで水差さないでください」
「どうかと思うなぁ、おれなんかに心酔するの。ちゃんと子孫を残せる種族と番になった方がいいと思うけどなぁ」
「言い方が宇宙人すぎる」
「宇宙人だもの」
うふふ、と笑う。とてもきれいに笑う。
とてもきれいに笑うから、槙枝さんが人間ではなくて、地球上の生物ですらなくて、ガチの宇宙人が人間っぽい変装をしているだけだ、という事実を忘れそうになる。
うっかりあなたが好きですと零した日、おれは人間じゃないからなぁ、と言った彼の言葉を信じるまでの時間は五分だった。
スッパリと切った腕の断面図(ちなみに筋肉の組織とか骨とか全くない、ただの青いつるつるした何かだった)はわりとトラウマなので、絶対にもう見たくない。
槙枝さんの外見は、ちょっとだけアバンギャルドなお兄さんだ。年は俺よりは上で、トクイチさんよりはきっと下。少し眠そうな目はいつも優しいし、実際に槙枝さんは優しい人……いや、優しい宇宙人だった。
半年前、不幸のどん底みたいな冬の日に、俺は槙枝さんに拾われた。
バイトも、仲間も失くした。家族なんか最初から無いようなものだった。日本でも人間って餓死するのかってちょっとだけ卑屈に笑った中二病の俺は、中二病なんて鼻で笑えちゃうような生き物に出会い、そんでもって恋愛ドラマも逃げ出すような訳のわらかない感情にぶち当たってしまった。
不幸はまだ俺の手を離してはくれない。収入は心許無いし、バンド解散後の予定は未定というより完全に白紙状態で、音楽で食っていく夢なんか本当に夢のまま終わりそうだ。
でも不幸の狭間に唐突に沸き上がった感情のジェットコースターに比べたら、金と未来の話なんかどうでもいい、って思える。
……愛とか恋で腹が膨れるわけじゃないのに、どうして人間は恋愛に感情を持っていかれちゃうんだろうか。
なんだか悲しくなってきた。うん。何で俺、こんなベッドタウンの寂れた街に住んでる宇宙人にドキドキしてんだろう。
本人には、恋愛ってよくわからないからおれは恋愛できないよ、って言われちゃってるのにさ。
悲しさを誤魔化したくて、そういえばと話題を探った。
……そういえば、トクイチさん。
「あの、トクイチさんが、ちょっと音食いすぎだから抑えろ、って言ってました」
「うん? え、ホント? あー……確かにちょっと、コントロールさぼってたかも。ごめんちょっと、絞るね」
「槙枝さん、どっか具合でも悪いんですか?」
「え、いや、別に……」
「でも、落ち着かないとか言ってましたし。珍しいっすよね、そんな風にそわそわしてんの」
「まあ、そりゃおれは宇宙人だからね。内臓とかないし、気圧とか気温とかに左右されないし、心拍数とかないし、要するに不調になることが稀だし……」
「宇宙人なのに、何で今日は不調なの?」
「いやさぁ、丹夏くんの面接、大丈夫かなーって。いじめられて泣いてないといいなぁーって考えたらちょっと、なんていうか食事に集中できなくなっ……わあ、きみ、なんて顔してるの。ふふふ、真っ赤じゃないの、ちょっと見せて見せてー」
「…………槙枝さんが、俺が調子に乗るようなことを、言うから」
「人間って面白いねぇ。他人の言葉で、体温まで変えちゃうなんて、生きるの大変そうだよねぇ」
まるで他人事だ。
いや、槙枝さんからしたら本当に他人事なんだけど、気まぐれに俺のこと気にかけちゃうくせに、人間じゃないから恋愛はできないなーとか言うからくっそもうなんなのケチ、みたいな気持ちになってちょっと膨れた。
少年だ童貞だと馬鹿にされても、文句は言えない。
俺は子供で、童貞で、陰キャで、オタクで、なんでかうっかりハマった男の(これは見た目だけの話で、実際雌雄どっちなのかよくわからないんだけど)宇宙人にただ好きの押し付けをすることしかできない。
そんな俺を眺めた槙枝さんは、にやにや笑って眉を落とす。
本当に、表情の作り方が上手くて困る。感情なんかないって言うくせに、とんでもなく可愛く笑うから、困る。
「そういえば、イシャンがごはん作ってたよ。鳥類を揚げて味付けして卵のソースをかけたやつ」
「……チキン南蛮?」
「それそれ。ここで食べるなら、運んでくるってさ。……丹夏くん、明日は出かける?」
「あー……はい。もっかいハロワ行く……けど、そんな朝早くじゃないです」
「よかったーじゃあ、あとでちょっとだけ、歌ってもらっていい? 今日トクイチさんが連れて来た女の人の声ね、なんていうか……ギザギザしていて少し、食べにくいんだ」
やっぱりきみの歌がいいなぁ、なんて笑いやがるから、俺はまた息が詰まって死にそうになって、人の心を知らない宇宙人に笑われた。
オンボロの檸檬屋敷には三人の人間と、一体の宇宙人が住んでいる。
人間の内訳は、職ナシバンド野郎、自称中年のAV監督、正体不明すぎる謎のメシウマインド人。そして宇宙人は、青くて、優しくて、檸檬の世話が好きで、音を食べる。
風の音、人の声、音楽、雑音、なんでも食うらしいけど、槙枝さんの好物は『碓氷丹夏の歌』だった。
「やっぱり、きみのうたがいちばんおいしい」
そんな風に甘く零されるたびに、人ではないなんて事実を都合よく忘れて、恋を深める馬鹿は俺だった。
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