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プロローグ

 鞄いっぱいの大荷物は、命一つ分の重さだった。  ――と、いうのはいささか感傷が過ぎるし、一八二センチの男が吐くには大袈裟な弱音だ。肩から提げた鞄が実際以上に重たく感じているのは、今目の前でぴたりと閉ざされた扉のせいだった。  ――弥永呉服店  古めかしいが堂々とした書体で彫り込まれた屋号。看板の素材は、寺社仏閣にも用いられている欅だろう。これだけで十分、老舗の呉服店らしい風格がある。  つまり、まだ二十四歳である(きよし)を気後れさせるには十分過ぎるほどの威厳だった。  更に、右手のガラスケースの中にはいかにも高級な訪問着が飾られている。値札でも見ようものなら、扉にかけた手を離してしまいそうなので見ないことにしていた。  聖は本来、臆病とは無縁のはずの男だった。思い切りがいいと言われることも多いし、職業柄もあり何事も挑戦してみる性質だと自認している。それなのにここまで気が重いのは、聖が偏見として持っている呉服屋への印象(年季の入った女将が執拗に高額な商品を薦めてくる)と――やはり、この荷物のせいだろう。  鞄に荷物をまとめていた時のことを思い出すと、手に力が籠り、喉がざらつくように痛んだ。 (――でもここで引き返したら、このまま引きずることになる)  いっそ気の強い女将とやりあって、面白おかしい経験として昇華させてしまえばいい。どうにでもなれ、という気持ちで聖は店の扉を開いた。 「あの、すみません、誰かいますかー?」  一見すると無人の店内に向け、聖は声を掛けた。  人が出てくるのを待ちながら、店内を観察してみる。石造りの床面積は狭く、玄関のように一段上がった先はすべて畳張りになっていた。造りとしては蕎麦屋などの和食店にある座敷に近い。その畳の上には沢山の布や紐、帯や反物が積まれていた。  思ったよりも雑然としている、というのが聖の感想だった。女将ではなく太鼓腹の狸おやじが出てくるのかもしれない。 「はーい、ただいま!」  そんなことを考えていた聖は、奥から響く声に意識を戻された。思っていたよりもずっと張りのある声。軽やかで濁りのない音色は、聖と変わらない年頃の男のものに聞こえる。  続いて、現れた姿に目を奪われた。 「お待たせいたしました」  店の奥から現れた若草色の和服姿の男は、しなやかな動作で聖の前まで進み出た。決して華やかな二枚目というわけではない。しかしその姿は印象的だった。一般的な会社員よりはやや長めなものの、整えられて清潔感のある黒髪。前髪の下から覗くグレーがかった瞳は柔和で、知的な涼しさが湛えられている。何より、伸びた背筋と華奢な肩はほっそりした首を際立たせ、和服姿を凛々しく見せていた。 「立たせてしまって申し訳ありません。ご相談でしょうか? よろしければ中へ」  ぼんやりと立ち尽くしていた聖は、不慣れな客に見えたのだろう。実際その通りだ。事前に考えていた妄想はすべて吹っ飛び、言われるがまま靴を脱いで上がってしまった。畳の上に転がる商品を踏まないよう気を付けながら、男が勧める辺りに腰を降ろした。 「散らかっていてすみませんね。こんな片付けが苦手そうな店、不安にさせてしまいましたか?」 「えっ!? いや、そんなことは」 「そう。なら良かった」  男は愉快そうに笑った。どうやらこちらの緊張をほぐすための冗談だったらしい。つられて笑ったことでようやく息を吐くことができ、体の力が抜ける。途端に、鞄を掛けていた肩が張ったように痛むことに気が付いた。 「入りづらかったでしょう。安心してください、私しかいませんから。大勢の店員さんに囲まれるなんてことはありませんよ」 「あ、じゃあ、貴方が店長さんですか?」 「申し遅れました。私が店主の弥永紬(やながつむぐ)と申します」  店主――この自分と変わらない歳の青年が。  聖は驚きつつも、今度は先程と別の不安が過ぎった。  つまり目の前の彼は呉服屋のぼんぼんであり、若旦那といったところだろう。おそらく、名目上引退した親に手解きを受けながら店を回し始めた修行中の身――そんな男に任せて大丈夫だろうか?  普段通る商店街の一角で偶然見かけただけの店だ。近いという理由でここに来たが、もう少し調べてくればよかったかもしれない。  聖が漠然とした後悔に包まれていることなど知らず、弥永と名乗った男は「本日のご相談は、そちらの鞄の中身ですか?」と示す。  ここまで来てしまっては今更断れない。もし不安だったら見積もりだけ貰って、また来るとでも言えばいいだろう。聖は腹を決め、鞄の口を開けた。 「はい。ここに入っている着物を見てもらいたいんです」 「というとクリーニングでしょうか? それとも下取りですか?」 「あ、いや、下取りというほどまでは。ただ、価値があるものなのか、どう手を付ければいいのか、俺にはわからなくて」  その返答だけで、こちらの事情は伝わったようだ。こうしたやり取りには慣れているのだろう。弥永の顔から柔和な笑みが消え、神妙な顔つきになる。 「それは――」 「はい、お察しの通り。この着物の持ち主だった、俺の祖母が亡くなったんです」  早逝した両親に代わり、聖を一人で育ててくれた祖母が他界したのは一月ほど前のことだった。  ここ一年めっきり体が弱り、好きだった着物も着られなくなっていた祖母だが、記憶の中の彼女はいつでも和服姿だった。聖の両親、つまり彼女にとっての娘夫妻が事故で亡くなった折、葬式でも涙を見せず、唇を固く引き結んだまま聖の小さな手を握りしめていた祖母。彼女の強い意志に染められたような漆黒の喪服以来、祖母との思い出はすべて、鮮やかな着物に彩られている。 「日常的に着ていたから、値段が付くようなものじゃないと思うんです。でもそのまま捨てるってわけにもいかないし」 「わかりました。拝見させていただきますね」  感傷的な態度を見せるつもりはなかった。天涯孤独になったとはいえ、聖はもう一人で生きていけるだけの大人だ。同年代の坊ちゃんの前で、打ちひしがれたような姿を見せたくないという、プライドもあったのかもしれない。  しかし、つとめて表に出さないのか目の前の作業に集中したいのか、弥永は変に同情する様子は見せず無駄な雑談も挟まない。ただ彼の、しなやかな白い手が祖母の着物を広げ、縫い目を手繰るように布の上を滑っていく。時折帳面にメモを書いてはまた目を落とし、彼は淡々と点検を続けた。それがかえって、心地良かった。 「――あぁ、これは」  しばらく無言だった彼が手を止めた一着を見て、聖はハッとした。  それは、祖母が最も袖を通していたものだった。 「これだけ、随分と着込んでいますね」 「わかるんですか?」  聖の問いに、弥永は着物の裾の裏面を示した。裏地らしい白い布には、着物の色に合わせた薄紅梅のグラデーションがわずかに入っている。よく見ると、擦れたように穴が開いていた。 「八掛――あぁ、裏地のことをそう言います。少し破れているのもそうですが、本来このグラデーションはもう少し色の割合が多いんです。でも、これはほとんど白になっているでしょう。着続けて傷んだ部分は切って、付け直したんでしょうね」 「そんなこと出来るんですか?」 「えぇ。着物ってそういうものなんですよ。それに、こうしたグラデーションの八掛は近年のものに多く、昔は単色が主流でしたから。何度か裏地だけ換えて着続けていたんじゃないかな」 「へぇ、そうなんだ……」  聖は素直に感嘆した。道楽で親の商売を継いだだけの男かと思っていたけれど、違うのだろうか。  そう思って見れば、彼の手つきも仕草も手慣れていて、素人のようには見えない。顔立ちが若いので同年代だと思っていたが、もしかしたら思っていた以上に年上なのかもしれない。  俄然興味が湧いた聖に、弥永紬と名乗った男は更にこう言った。 「もしかして、おばあさまのご実家は山形ですか?」 「そ、そうです!」  思わず前のめりになったら、弥永は笑って「これは紅花紬と言ってね、山形が産地なんですよ」と着物を撫でた。淡い夕焼け空のように柔らかい色をした着物は、厳しかったはずの祖母になぜか何よりも似合っていて、聖は好きだったことを思い出す。 「花で染めているので、こうして長らく着ていると色が落ちて淡くなるんです。この味わいも素敵でしょう」  弥永は座ったまま、するすると着物を折り畳んだ。流れるような手つきが魔法のように見える。 「他にもいくつか、産地がわかるものがありました。ただこれが一番愛着があったようだったので、もしかしたらと思いましてね」 「すごい……!」  思わず声が出た。祖母を亡くして以来沈んでいた心が、突然動き出す。それだけ聖は高揚していた。なんだこの男。すごい。まるで、まるで―― 「――名探偵じゃないですか!」  勢いに任せた声が、ぽん、と宙に浮く。  弥永はぽかんと目を丸くし、聖は中腰で前のめりになっていた。 「は、え? 名探偵?」 「そうっすよ! すげーっ! 勘がいいっつーか、観察眼があるっつーか。超カッコイイっすね!」 「あ、あぁ、ありがとう……?」  困惑する弥永をよそに、聖の脳は物凄いスピードで周っていた。  高瀬聖――またの名を、清野鷹士という筆名で活動するミステリ作家である彼は、目の前にいる〝本物の名探偵〟のような男に食い付かざるをえなかった。もっとだ。もっとこの男のことを知りたい。ネタの宝庫のようなこの男のことを。 「店長さん――いや、弥永さん」 「な、なにかな?」  思わず目の前の手を握る。  弥永が身を引いたぶん距離を詰めて――聖は言った。 「俺をここで働かせてくださいっ!」

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