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エピローグ
会場を出ると、肌を撫でる風が冷たいことに気がついた。慣れないジャケットは暑苦しいと思っていたけれど、夜になるとちょうどいい。仕事が大詰めで近頃外に出られていなかったが、道行く人の装いも変化している。夏の終わり。日が落ちるのが早くなった夜の街で、見慣れたシルエットを、聖は見つけた。
「お待たせしました」
「うん、お疲れ様」
路地に明るく浮かぶコーヒーショップ。外からも見える一人席に腰かけていた紬は、入店した聖の存在に気づくと、開いていた文庫本を閉じてロングコートを手に取った。クルーネックの薄手のニットはベージュで、あまり紬が着ているところを見たことがない色味だった。そもそも会うのが久しぶりで、オフの洋服姿自体が新鮮だ。ふんわりとしたゆるい雰囲気にも、かえって動揺させられる。
つい見惚れていると、紬は「なんだよ」と目を細めて笑った。
「高瀬くんも何か頼んでくる?」
「いや、俺は大丈夫っす。それより腹減ったでしょ」
「減ったね。それは君もだろ」
「うん、俺、今なんでも食べたい」
聖の率直な思いに、紬はふはっと吹きだすように笑った。
「じゃあ行こうか。ゆっくり話も聞きたいしね」
作家・清野鷹士のサイン会についての話題を最初に持ち出したのは、紬の方からだった。
「君、サイン会するの?」
変わらず続けている店の手伝いの最中。仕入れた商品と伝票の照らし合わせをしていた聖は、突然話題を振られた。
聖はあれ以降も、臨時アルバイトとして店にきている。こういうことはしっかりしておくべきだ、と紬が譲らないので、バイト代も受け取っている形だった。
「えっ、あ、えっ、なんで!?」
「なんでって、出版社のSNSで宣伝してるよ。文庫化記念に大國屋書店でやるって。買ったらそれにサイン入れてくれるんだ」
そういえば、そんな予定が立っていたんだっけ。担当編集者から連絡は来た時に返事をしたきり忘れていた。それを紬に思い出させられるとは。
「……俺の情報、チェックしてくれてるんっすね」
「あぁ、しまった。こっそり行って驚かせればよかった」
「えっ!?」
「冗談だよ。こういうのって、毎回やってるの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
出版記念で開催してくれたのは二度目のことだ。他には、複数の作家が集まるイベントなどで数回応じた程度。ファンの声を聞けることはありがたく、少しでも喋ることができるのは嬉しい。聖にとっては息抜き的な面もある機会だったが、最近は本業である執筆に掛かり切りですっかり忘れていた。約二カ月のスランプを抜けて、聖はようやく筆が進むようになってきたところだった。
「えっ、それで紬さん、来てくれるんすか!?」
「まさか。大事な枠を、いつでも会える私が埋めるのは悪いだろ。ファンの子に譲るよ」
「え~……マジかよ残念……」
しゅん、とうなだれる聖の頭に、柔らかい掌が乗る。いつものことなので、聖はされるがままに髪をかき混ぜられていた。人がいないのをいいことに、紬は犬を撫でるように触れてくることがたびたびあった。
「君の本領はそこじゃなくて、作品だろう。しっかり読むよ、君と向き合うと思って」
「うん……」
紬のいうことは正論かもしれないが、自分が作家として表立って活躍しているところを見てほしい。駄々をこねてみようかと思ったけれど、こんなふうに言われてしまえば黙らざるを得なかった。
紬は自分で話題を振っておきながら、もうこの話は終わりとでもいうように作業に戻った。交際が始まる直前、拗れた重たい面を見せてくれた紬だが、あれ以降、出会った頃のような余裕ある態度を崩してはくれない。ポジティブに解釈すれば、聖の愛情表現が正しく伝わっている証拠だろう。でも、こんなふうにあっさり引かれると、自分ばかり好きなのではないかという気がしてくる。それにまだ、紬は聖のことを名前で呼んでくれていなかった。
「……紬さん、その日の晩って空いてたりします?」
「あぁ――水曜日だよね。うん、特に何もないよ」
「じゃあ、あの、飯でも行きましょうよ」
「関係者の人たちと行ったりするもんなんじゃないの?」
「それは後日に設定してるんです。担当してくれてる書店員さんや出版社の営業さんが、その日は終わったあともどうしても仕事に戻らなきゃいけないとかで」
それは本当の話だった。当日は特に予定はなく、いつも通り帰って寝るだけになるだろうと思っていた。
「だから、お願いしますよ。紬さんに、文庫化のお祝いしてほしいなぁなんて」
紬ばかり余裕があるみたいだと悩んでおきながら、聖は年下の特権を行使することを忘れない。紬はお願いに弱いのだということに気づいていた。今も案の定、「しょうがないな」と困ったふりをしながら、顔に答えが書いてある。
「お祝いね、わかった、いいよ。食べたいもの、考えておいて」
甘やかすことを楽しんでいることはわかる。可愛がられているとも感じる。それだけでも足りないと思うなんて。聖は、欲深くなっていく自分をどうしていいのかわからなかった。
「今日はジャケット着てる。そういうもんなの?」
煙の向こうでトングを動かす紬は、焼けた肉をこっちの皿にひょいと乗せてくれた。さっきからこうして、かいがいしく肉を焼き続けてくれている。人気焼肉店の予約をしてくれたのも紬だし、至れり尽くせりだった。
「あ、いえ。特に服装の指定はないんですけど。あぁ、煙の匂いとかは気にしてないんで大丈夫です!」
「はは、そういうことじゃなくてね。でも気になるなら、私の服とまとめてクリーニング出しておくけど」
「いや、まじで気にしてないんで! そもそも普段全然着ない服ですし。ただ、ファンの人と会うのにあんまりだらしない格好でもいけないなぁと思って」
「そうかな。君のいつものカジュアルな服装も似合ってると思うけど。身長も高いし、何だって似合うだろ」
「えっ、なんかすげぇ褒められた」
紬は笑って、ハイボールを傾けていた。紬のこういうところは未だに読めない。もう少し恥ずかしげにしていたら、デレているのだとわかりやすい。ただあまりに堂々と言うものだから、聖の方が照れてしまう。そのくせ何でも大胆なのかというと、妙なところで恥ずかしがったりする。たとえば、名前を呼ぶことも。
「あっ、やべぇ、顔が熱い! 紬さんが急に褒めるから!」
「え? お酒とか肉のせいじゃない? ここのキムチも結構辛いし」
「そうじゃなくって! その不意打ちにいつもビビるって言ってんすよ!」
「今更だろ。先生は、褒められ慣れてるだろうし」
「えぇ~そんなことねぇよ」
「そんなことあるだろ」
紬は時々ふざけて、聖のことを〝先生〟と呼ぶ。それは親愛が籠ったものだったが、今は少し、当てつけのような響きがあった。
「紬さん? ねぇ、何考えてんの?」
「……べつになにも。ただ君はファンの人にも――ううん、なんでもないよ」
ジョッキを置いた紬は、場の空気を誤魔化すようにトングを掴もうとした。その手首を掴んで阻止する。触れた地肌が熱い。紬は驚いたように目を開いた。
「なんて言おうとしたの? 教えてよ」
それから紬は、聖がときどき使うタメ口に弱かった。掴まれた手をそっと解き、諦めたように溜息を吐く。なぜか不満げに聖を見つめる目は、アルコールで少し赤く染まっていた。
「……ファンの人たちだって、君のことカッコイイって思ってるよ。実際、言われてるだろ。でも俺はさ、君の小説を見てほしいって思うんだよ」
「えっ、それって」
「でも、それも理解者ぶってるだけだ。俺だって君をカッコイイと思うし。実際、君がカッコイイと思われているのは悪くない気分だけど、複雑っていうか。あぁ……もうっ、はっきり言うとね、妬けるんだよ。こんなこと気にするなんておかしいって思うけど。君、モテるだろうに、ほんとに俺なんかで良かったのかなっていうか」
「……紬さん、すげぇ喋るじゃん」
堰を切ったように口が止まらない紬は、若干声も大きくなっていた。それでカッコイイを連呼されるのだから恥ずかしさが止まらない。あぁ、もう本当にこの人は。目の前のジョッキをチェイサーに替えようとしたら、手ごとがっしりと掴まれた。
「だろ!? めんどくさいだろ!? だから言いたくなかったんだよ!」
「めんどくさいのはそこじゃなくて今! ほらお水飲んでくださいって」
子どもに言い聞かせるようにして、そっと手を解いたら、ようやく紬は水を飲んでくれた。その様子を見ながら、聖は今言われたことを反芻する。よくよく考えると、いま、結構なことを言われなかったか?
「ま、待ってください。俺がカッコいいとかどうとか、見てきたように話すけど、もしかして今日来てたんすか!?」
「……本屋は、隠れやすかったよ」
「――そうやってごちゃごちゃ考えちゃうから、来ないなんて言ったってこと?」
「そう……実際そのつもりだったんだよ、直前まで」
赤くなった紬の耳。逸らされた目線。堂々とデレるわりに、突然照れだすこの人は――サイン会のことなんて何も気にしていないようなふりをしていたくせに。なんだよ、それって。
「すげぇ俺のこと大好きじゃん」
熱いものが体の内側から膨れ上がる。騒がしい店内と肉の焼ける音が遠くに聞こえて。聖は咄嗟に、テーブルの下から手を伸ばして紬の膝に触れていた。
「うわっ、馬鹿、ここ外――」
「紬さんが静かにしてりゃバレない」
強気な調子でそういうと、、紬は流されるようにそろそろと膝に手を下ろす。テーブルの下で、二人の熱い指先同士が絡み合った。
「……もうお腹は満たされた?」
「はい」
「おかわりは?」
「大丈夫」
「じゃあ、早く帰ろ――聖」
えっ、と声を出す間もなく手を解かれて、「すみません、お会計!」という紬の声が響く。
「あの、いま」
「ここは私がご馳走するから」
「いや、いま、名前」
「飲み足りなかったらコンビニで買って帰ろうか」
「酒はよしといた方がいいっすよ。ていうか」
「あ、すみませんカード払いで」
「紬さん!」
やっぱりこの人のデレも照れもよくわからない。ただ聖は今、自分の顔がはっきりと熱くなっているのを感じる。きっとこの熱は、冷たい夜風に当たっても、抱き合って眠っても、簡単には冷めそうにない。
〈了〉
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