1 / 17
どうしてこうなった
「え? でもお友達なんだよね、彼と」
「さっき電話でも確認したよねぇ、網中 さん」
ねちっこい話し方で、正座している伊織 を見下ろしてウロウロと家の中を闊歩するのは見知らぬ男二人。どちらも似たような、いかつい恰好をしている。
黒いシャツに派手な柄の半袖のシャツを着て、腕には鈍く光る金や銀の腕時計にシンプルなバングルが。片方の男は薄く色のついたメガネをかけ、もう片方は短い髪を後ろで一つに縛っている。土足で家の中に踏み込んでいるのは彼らの家でなら構わないが、ここは伊織の部屋である。のだが、部屋の主人よりも偉そうにしているのはなぜか男たちの方だ。
ポケットに手を突っ込んだメガネの方が伊織の前にしゃがみこみ、一枚の紙を彼の前に置いた。
おそるおそる視線を落とすと、そこには文字の羅列と、一番下には友人の名前と自身の名前が並んでいる。どちらも個々の筆跡だ。
ゾッとした。あの時は正当な公共機関の名前が確か一番上に書いてあったはずだ。それが今は、名も知らぬ企業名が入っている。一体どういうことなのだ。
伊織の体を冷たい汗が伝う。だが体は冷え切ったように感じている。
「お友達はね、君にもお話してたと思うんだよね。もしアイツがいなくなった時に後継してくれる人を教えてねってことで、話されなかった?」
話されていた。話されてはいた。
「納得して書いたんだよね? まあどっちにしろ名前があるんだ。逃げられると思うなよ」
優し気な声で威圧的に語り掛けてくるメガネを押しのけるように、尻尾縛りの男が伊織の肩を掴んで揺さぶった。
「おい! さっきから話聞いてんのか!? なんとか言ってみろや!」
「すいっ……ませんっ」
蚊の鳴くような悲鳴と声が漏れた。突然の恫喝に縮み上がり上手く息ができず、むせ返ってしまう。それを尻尾頭はおかしそうに笑ってメガネの背中を叩き、伊織を指さす。相反してメガネは無表情に尻尾頭を見やり、体に触れる手を撥ね退ける。
いつものことなのだろう、沸点の低そうな尻尾頭は笑いながら玄関へと足を向けた。見張り役だろうか。
まだ喉がひりつくが、深呼吸を繰り返しどうにか落ち着かせて正座を正した。
大学生寮としても使用されるマンションのため、あまり大事にして退学だけはしたくない。少しばかりうるさいだけならば、酔って騒いでいるだけだろうと多めに見られはするが、暴力沙汰や現場を見られでもすれば一巻の終わりだ。
力をどうにか振り絞り、伊織は勢いよく土下座をした。
「す、すみませんでした。俺の……と、友達がご迷惑をおかけして……ほ、ほ、本当に、すみま」
「謝罪をありがとう網中さん。でも謝罪だけじゃお金は戻らないんだよね。俺らは貸した金と利息がなきゃ暮らしていけない。わかるね?」
土下座をしたまま大きく頷く。
できるだけ、顔を突き合わせたくない。
「曲がりなりにも大学生だ、そんぐらいの知識はあって当然だよな。そこでなんだが、その金、君のお友達が逃げちゃったからさ、サインを残した君が払うことになるんだよね。全部で750万」
「なな、ひゃく……」
「750万円ね。全部でこの値段だからまだ安い方だよ。他のオキャクサンのことは個人情報で教えられないんだけどね」
ごめんね、と言いながら伊織の服を掴んで無理やり引き起こす。
伊織は自身で黒目がふるふると震えているのを自覚していた。視界が小刻みに揺れ動き、学校が終わってから何も食べていない胃が痙攣を起こしているのがわかる。吐きそうになったが、今そうすれば目の前の男が何をするかわからない。話し方こそ温厚的ではあるが、先程の見張り役と変わりのない職業の人間なのだ。
せり上がってくる胃を感じながら、ゆっくりと視界を上げてメガネの縁を見つめ
「無理です……」
とだけ呟く。
拳が飛んだ。
顎が吹っ飛び、面白いくらいに頭の中で鈍い音がした。
「無理じゃねえんだ、払うんだよ」
口の中が痛い。
血の味が舌に乗る。
「じゃなけりゃ、他のお友達を売ってくれよ。さっきのと同じ書類、アンタの分渡すことになるから。逃げたって誰も追いやしねえよ」
それは甘い誘惑だった。
それならそれがいい。伊織自身はこの件に関係がなくなる、逃げることができるのだ。大学には関係のない友人を探して、このマンションを出てしまえば大丈夫ではないか。
この際、一度実家に帰ってもいい。そこから通えないわけではない。お金が厳しいのだと嘘をついて帰れば、誰も息子の帰還を喜ばない者はいないだろう。
名案だ。
この時ばかりは取り立て屋をありがたく思った。
そう思った矢先、見張りをしていたであろう尻尾頭の男が満面の笑みを浮かべて部屋に戻ってきた。その手には、ひとつ型が古いiPhoneが握られていて、画面をメガネに向けていた。
嬉しそうな顔とは裏腹に、飛び出した声の内容は残酷だった。
「アイツ見つかりましたよ! 組に引き連れていったみたいっすね。テレビ電話繋がってるっすけど、見せます?」
喜々として話す内容が上手く伊織の頭にまで染み込んでこない。誰が見つかって、誰に何を見せるのだろう。
テレビ電話が繋がっていることは、聞こえ漏れる声でわかった。数人分の男達の怒声と、泣き叫ぶ一人分の声。
聞き覚えがある。
知っている声だ。
鉄の味を静かに飲み込み、揺らいでいた視線を上げて声のする方、すなわち男の持つiPhoneへと向く。小さい画面の中は人がごちゃごちゃと動いていて、今さっき殴られたせいで焦点が上手く合わない伊織には形を捉えるだけでも一苦労だ。
その間願った。自分の思い込みであるように。きっと、描いた最悪の事態は免れる。そう思わずにはいられなかった。
しかし、現実はつらい。
画面の中央にでかでかと映し出されたのは、殴られ蹴られ、ボコボコに顔を腫らして見る影もなくなった友人の姿だった。画面の端に見える、男達が手にしている金属は一体何なのか、考えたくもなかった。伊織が味わった一発とは比べ物にならないに違いない。
知っている顔の変わりように、意図せずして一筋の涙が頬を伝った。
友人にではなく、伊織自身のために流れたことはわかった。
逃げればお前もこうなると見せつけられているのだ、恐ろしい以外の感情が浮かぶだろうか。逃亡の算段を立てていたことを呪い、友人を呪い、何より軽々しく話を信じてしまった自分を伊織は呪った。
保証人は信用できる奴にしたいんだよ、と友人が満面の笑みでペンを渡してきた光景がよみがえる。その言葉が嬉しかった。なのに裏切られた。そして、彼と同じような道を自身も歩むところだった。
止めどなく涙があふれる。メガネが尻尾頭に戻るように指示し、鼻歌を歌いながら去っていく背中を見送ったあと、伊織に向き直る。
「わかっていると思うが、アンタもアイツと同様だ。しっかりと考えて動くことだな」
考えはお見通しだったというわけだろう。鼻の頭にかかろうとしていたメガネを指で押し上げ、男は優しく伊織の頭を叩いた。
「一気に返せとは言わないさ。俺らの会社はそこらのとは違って優しい奴ばかりだからね。だが月に一度は支払いに顔を出してくんねえかな、それがなけりゃアンタの親御さんたちのお家に今度は乗り込んじゃうからさ」
「うちの……」
「住所なんていくらでも調べられるんだよね今は。便利な世の中になっちゃってさ、ホントに手間が省けておじさんうれしいんだ」
おじさん、と言うには若い方だろう顔でにっこりと微笑む。つられて伊織の口端も上がってしまった。殴られるかと思ったが拳は飛んでこなかった。
「ま、だからといってもチマチマ返されたんじゃ埒が明かないから、最低でも25万は一気に持ってきてよ」
「25万!?」
無理ですと口をつきそうになったが、殴られるのがわかっているので慌てて言葉を飲み込む。
学生の身分で月に25万は厳しい。いや、働いていたとしても無理だ。大学を出たところで伊織の頭とスキルでは一流企業には入れない。いや、入れたところで初月給からそんな金額が提示されるのだろうか。されたとして生活はどうするのか。
一気に考えが頭をよぎっていくが、まともな結末に至らない。
そんな彼の行動が可笑しかったのか、メガネは口角を上げたまま頷いた。
「そう。二ヶ月で丁度50万でキリがいいなと思ってね。アンタも早く返済ができてうれしいし、こっちも金が早く返ってきて仕事も済んでうれしい。win-winの関係ってやつね」
「そ……それは」
「よし、俺らも暇じゃないからさ、次の仕事行かなきゃいけないんだわ。その前に、アンタにお願いしなきゃならないんだ」
言いながら、ズボンの後ろポケットから先程自身のサインが入った用紙と同じものが渡されたが、今回はサインの欄が空白になっている。
「これ渡しておくからさ、自分のサインと自分に何かあったときの後継者を選んでサイン貰っておいて。次回支払いに来るときに一緒にもってくること。来なかった場合、言った通りアンタの実家に押し掛ける」
ドスの聞いた声で念を押され、伊織はガクガクと頷く。
「OK。その際、写真も撮ってきて、顔が見えるやつを。それができれば完璧。それじゃあガンバッテ」
じゃあね、と手を上げてメガネが颯爽と帰っていく姿を呆然と眺めていた。
口の中に収まりきらない血が、唇を伝い、顎にかかり、ぽたぽたと雫となって膝頭に落ちる。履いていたジーンズと、ラグマットが赤色に染まっていくのにも気にならず、今あったことは夢ではないのだろうかと思うことに神経を使っていた。
だが、痛みが伊織を現実に引き戻してしまう。
現在、貯金はいかほどだったか。金を貸してくれるような友人がいたか。親に話をしてみようか。警察に駆け込んでみようか。
だが、どれもダメなように思えた。
バイトで貯めた金は生活費にほとんど消えていく。遊ぶ金を借金につぎ込んだとて、一回の支払が限度だろう。学生を続けながらのバイトでは全然足りはしない。かと言って、頼れる友人はそこまで数がいない。貸してくれたとて、何度も借りに行けば不信感が高まり人間関係にもヒビが入りかねない。
親に泣きついたとして、金の工面はしてくれるかもしれないが、その後奴らが退くか否かわからないし、警察なんてもってのほかだ。
メガネの口ぶりからすると、もしかしたら警察に仲間がいるのかもしれない。個人情報を易々と手にできるのはそういったこともあるだろう。ましてや、警察に連絡したことがバレれば、自分の身も家族の身も危険に晒される。
逃げた友人が捕まったのも、警察が関係あるのかもしれない。
自分の考えにぶるりと身を震わせて、伊織は落ちているサイン用紙を小刻みに揺れる指先で持ち上げ、テーブルの上に置いた。
あのあと、iPhoneの画面の向こうでは何が行われるのだろう。考えるだけでゾッとするが、考えずにはいられない。次にあちら側に立つことになるのは一体誰なのか、想像がついてしまい払拭できない。
言うことをきかない足にムチ打ち立ち上がり、固まったままの体で洗面所に向かう。
鏡越しの顔は酷かった。血が顔じゅうに広がりベタベタだ。今さら痛みを感知できるようになってきて、熱い口内に晒された肉がビリビリ痛む。お金のことを考えると病院へ行くことも躊躇される。
緊張からの解放感と、口の中の激痛に頬の腫れ、突然背負わされた借金の重みに耐えられなくなり、伊織はその場で吐いた。何も食べていないので、ただ胃酸が込み上げ、食道がチリチリと焼かれる。
全部が痛かった。何かが体に触れるたび発狂しそうになった。
一体、自分が今までに何をしたというのか。
その怒りをぶつける相手も、もうこの世にはいないのかもしれないのだ。
この先も生きて、なんになるというのか。意味が見いだせない。
しかし、ここで己が死ねば、家族に災難が降りかかることは間違いない。
板挟みだ。
洗面台に顔を突っ込み、えずきながら涙を流す。
平坦な日常が嫌だと思ったりもしたが、こんな非日常は望んではいなかった。
数十分の間、部屋中に伊織の苦し気な声が響き、気分の悪さが落ち着いてきたところで時計を見上げると、既に夜の十時を回っていた。
大学から帰宅してすぐの出来事だったので、彼らに捕まったのは七時やそこらだっただろう。既に三時間も経過してしまった。一ヶ月が過ぎるのが早く感じてしまう。
心ばかりが焦り、打開策は見当たらない。
とりあえずひと月分はバイトの金で賄えるが、その先は?
「マジで、殺される……」
絶望の声に押しつぶされる。
水を流して洗面台を洗い、痛みをがまんして口の中を綺麗にする。切れてしまった口内用の絆創膏を買いに行かなければと思い立ち、財布を手に持つ。どことなく重く感じた。
血の付いたジーンズもそのままに、スニーカーを履いてそっと玄関を開けた。そこには誰もおらず、普段と変わらない日常が広がっていた。気持ちがいっそう暗くなる。
カギをかけ、エレベーターへと向かう。
ボタンを押して待っていると、階段側の廊下から誰かが近づいてきた。
家の中でのことがあっただけに、伊織は肩を跳ね上げさせて振り返る。
ゆっくりと現れたのは、高そうなスーツを身にまとった、黒髪のオールバックが特徴の男性だった。目尻が垂れ優し気な雰囲気ではあるが、どことなく鋭さがあった。近くに人を寄せ付けないベールのようなものを感じ、伊織も少し距離を置いて立った。
ふと、思う。
階段から来て、彼はなぜ一緒にエレベーターを待っているのだろう。ここは五階で、上るには少しきついかもしれないが、降りる分には問題ないので階段を使用する人も少なくない。だが、どちらにしても、突然ここでエレベーターに乗るのはおかしくはないだろうか。
伊織はそっと視線を上げ、男性を見やる。
ばちりと視線が合った。
「あっ……その」
気まずさから思わず声をあげてしまったが、その先を考えていなかった。
口元に柔和な笑みを浮かべる男性は、首を傾げて伊織を見ている。
「えっと……降りますけど、いいんでしょうか……」
もしや階段を上ってきて、疲れてエレベーターを使用しようとしたのではと思い尋ねてみたが、男性はゆっくりと頷いた。
今度は伊織が小首を傾げる番だった。ではなぜ……。
口元に曲げた指先を当て、小さく笑う姿には上品さも垣間見える。思わず見とれていると、小さく開いた彼の唇から、綺麗なバリトンが流れ出た。
「網中伊織くん、だよね」
怖気だった。
家など出ずに、痛みに耐えておけばよかった。
そう思ったがもう遅いことはわかっている。
自分の目の前で笑う彼は、垂れた目を伊織に向けている。
先から、その目は一度も細められていなかったと、伊織は今さらながらに気が付いた。
ともだちにシェアしよう!