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出会いは突然に

 エレベーターで一階までスーツの男と降り、背中を押されるようにして黒の高級車の止まる前まで連れてこられた。危険信号が頭の中でチカチカと明滅している。これに乗れば自分の人生が終わりに近づくような気がしていた。  後部座席の扉を開けようとした隙を狙って、伊織は車と男の間から逃れる。ドキドキと心臓が高鳴り、男の顔色を伺う。  表情に変わりはなく、口元に微笑は浮かべているものの目元は驚くほど冷ややかだ。  何かあっても良いように、伊織はポケットから携帯を取り出して両手で大事に包む。その姿を見ていたスーツの男は扉から手を離し、伊織に向き直って静かな声で言う。 「怖がらなくても良い。君に危害を与えたいわけじゃないんだ」 「これから危害を与えますよって正直に言う人がいるもんか……!!」  携帯をギュッと握りしめ、できるだけ声が震えないように言い返す。あとは退路を確保するだけだ。平日のこの時間は人通りが少ないので、他人の力を借りることはできないだろう。  走って逃げれるだけの体力があるか疑問だが、電話でどこかへSOSを出すことは可能かもしれない。  男は苦笑を零し、「確かにな」と独りごちる。  両手を自身の顔の高さにまで上げ、今度はゆっくりとジャケットの内ポケットへと手を伸ばす。拳銃でも出すのかと伊織は肩を強張らせたが、出てきたのはどうやら名刺入れのようだった。黒い革で綺麗に蛍光灯の光を照り返している。  呆気にとられ気が緩んだ伊織の方へと近づきながら、男は名刺を一枚取り出し渡す。  真っ白な紙の上に、光沢のある黒字で『時崎(ときざき)組 若頭 時崎 春人(はると)』とある。  やはり、と戦慄が戻った。普通ではないと感じていたものが実際に形になり目に見えた事で、伊織の体が限界を迎えた。  足の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。携帯の画面が地面を擦る音が聞こえた。同時に、慌てたように春人が伊織の背中に腕を回した。  それさえにも驚き、思わず振り払うようにして這いつくばるようにマンションの玄関へと逃げる。情けない醜態などに構っている余裕はなく、怖さで声も出ない今は逃げるしかない。  荒い自分の呼吸を聞きながら共同玄関口へ到着して背後を振り返ると、スーツ姿は先程と同じ位置にあった。  追いかけては来ないようだ。  何度か深呼吸を繰り返し、伊織は心を落ち着かせる。追いかけてこないという事は、今この瞬間は逃しても問題ないと思っているということだろう。その後のことは想像がつかないが。  だが、まだ全面に安心ができたわけではない。彼は一人で来たようだが。どこかに伏兵が隠れている場合も考えられる。さっきの今だ、最悪の状況を考えて備えたほうがいいだろう。……何にとは言わないが。  整ってきた呼吸に合わせて、伊織は自分でも聞こえるかどうかの小さな声で尋ねた。 「何しにここへ……なぜ俺の事を知ってるんですか……」 「君の携帯を取っても?」  答えにはなっていないが、伊織が何か言う前に春人は転がった携帯へと手を伸ばした。手の中で裏へ表へと返し、画面を撫でる。鍵をかけているので中を見られることはないだろうが、相手が相手なだけに少しの行動にも神経を注がずにはいられない。  それからしばらく携帯の動作を確認していた春人は、ゆっくりと伊織に近づき、目の前に携帯を差し出した。 「壊れているところはないみたいだけれど、何かあれば教えてくれれば新しいものに取り替えさせよう」 「え!? えっと……なぜでしょう……」 「なぜって、携帯がないと今のご時世大変だろう」 「あ、そういう意味ではなくてですね。いや、それもひとつの答えとしては当てはまるのですけど……」  なんと言えば良いのか……と伊織が言葉に詰まる。顎に手を当て適当な表現を考えていると、そっとしゃがんだ春人と視線が合った。  色素の薄い春人の瞳に意識が吸い寄せられる。綺麗なグレーの虹彩はマンションの明かりに照らされて、より儚く見えた。 「借金の肩代わりをさせてもらえないか」 「しゃっきんの、かたがわり」 「そうだ。さっき、君の家に押しかけていた奴らから提示された金額を教えてくれ。そのぶん、俺が出す」  しゃっきんの、かたがわり。  もう一度言葉をなぞってみる。意味は、借金を肩代わりしてくれるということだ。しゃっきんのかたがわりなのだから。 「なんで!?」  彼の提案に、伊織は思わず叫んだ。静けさの広がるマンションの敷地内に素っ頓狂な伊織の声が響いた。響いたが、意味はよく理解し切れていないので、叫び損ではある。  突然背負わされた借金を、突然現れたヤクザが、突然肩代わりすると言い出した。ありがたい話この上ないが、さっきの今で何の話も信じられない。このうまい話にも何か裏があるのではと疑ってしまう。  懐疑の眼差しを春人に向けたまま、差し出されたままだった携帯を掴む。連絡経路ができただけでも少し心が安定し、話に意識をやることができ始めた。 「なんで、俺のことなのに首を突っ込んでくるんですか。あなたには、何のメリットもないのに」  遠回しに自分は何もできないのだとアピールをしたつもりだった。だから、恩を売られても困るのだと言ったつもりだった。  相手はそれを汲み取ってくれはしないようだったが。 「前に世話になったお礼がしたいんだ。代わりと言ってはなんだが、俺に手伝わせてくれないか」 「ヤ……ヤクザを世話した覚えはないですが……」  記憶を遡ってみるが、当然何も思い出せることはない。平凡を絵に描いたような生活をずっとしていたのだから当たり前ではあるが、春人が何かと間違えて記憶しているのではと首を傾げたくなる。  それでも、彼は首を振り伊織の名前を確認した。 「網中伊織、俺が知っているのはその名前で間違いない」 「その、俺の名前もなんで知っているのか……」 「とりあえず、一緒に来てはもらえないだろうか。さっきも言ったように悪くはしない。恐ろしい気持ちにさせたりもしないし、嫌がることはしないと約束する」  徐に立ち上がり、春人は伊織に手を差し出した。  大きく無骨な手のひらはお世辞にもキレイとは言い難く、たくさんの大きな、小さな傷が走ってる。小指が付いていることにまず安心し、傷だらけなのにも関わらず、その手が良いなと思えた。  家に蔓延っていた二人の男の手は大きく細く、相手を威圧する為に存在していた。  だが、今差し出されているこの手は、伊織のことを包み込んでくれそうなほど大きく、そして暖かな気がしたのだ。なぜそう思えたのかは、現時点では把握できなかったが。  春人について行って何が起こるのかはわからないが、その手を取ってみてもいいなという気持ちになった。  携帯を返してくれたことも、優しく話しかけてくれたことも、伊織が動くまで手を引かず、かといって焦らせもせずに待っていてくれることも、この男が悪い者だと決めつけることができない要素である。信じてみてもいいかなと、思ってしまったのである。  促されるままに春人の手に自身の手を重ねた。  そっと持ち上げられて、体が軽くなったようにふわりと浮くように立ち上がれた。 「ありがとう、きっとみんな喜ぶ。あとでちゃんと説明があるとおもうから安心してほしい」 「みんなが、よろこぶ」  オウムにでもなってしまったかのようだ。  眉間にしわをよせて言葉を繰り返した伊織に、春人は小さく微笑んで車へと誘う。  ピカピカの黒い車は車高が低く、伊織が頭をぶつけないように、春人が腕を頭の上に掲げてくれた。後部座席なのでシートベルトはしなくてもいいと言われはしたが、何かあっては怖いので場所を確認しておく。あとで付けることにした。  春人は微笑んだまま静かに扉を閉めて、自分は運転席へと向かった。  春人が乗り込むと車体が揺れた。シートベルトの引っ張る音がしたので、伊織も同じくベルトを装着する。程なくして車は発進した。  夜の街を滑るように移動していき、流れていくビル群を眺めていた伊織はそっと運転席に目をやった。キラキラと光る街並みがガラスに反射して春人の髪を照らしていく。わざとなのか、オールバックが少しほつれたような無造作な髪型で、それがよく似合っていた。日本人の顔立ちではあるのに、背が高いせいか目鼻立ちがしっかりしているのか、スーツと相まってよく映えるのだ。  そのスーツもシワ一つなく綺麗で、バックミラー越しに見える濃紫のネクタイが効いていてオシャレだなと感じた。一見してヤクザのようには見えないのである。やりての商社マンと言われれば信じられるが。  襟ぐりからずっと視線を上げていくと、先程までは怜悧に見えた優し気な瞳があった。  目尻が垂れた目は進行方向を見つめ、たまにライトに当たって灰色が美しく見えた。  ふと、視線がかちあう。  伊織はなんでもないように視線を逸らした。変に思われてはいないかと内心ビクビクしていた。  が、かけられた声は静かでおだやかだった。 「不安が大きいかな」 「……全く、とは言えません」 「そうだね。さっきまでボコボコに殴られたようだし」  苦笑する春人の言葉にハッとして自分の頬に手を当てると、思い出したように殴られた箇所が痛んだ。アドレナリンのせいか、非現実への対応に困窮していたせいか、痛みをどこかへ置き忘れていたような錯覚に陥っていた。 「今さら痛くなった……」 「ごめん、言わなければよかったね。すぐに着くから、これでも使っていて。青黒くなってきてる」  嫌な事を言うなと思いつつも、手渡された缶コーヒーを受け取った。冷たく冷やされていて、出会う直前に買ったのだろうと思われる。  ピタリと頬にくっつけると気持ちがよかった。熱を吸い上げていってくれるのがわかり、ホッと息を吐き出すと今度は口の中がピリリと痛む。忙しい体がほとほと嫌になってきた。 「さすがに口内用の薬は今は持ってないけど、血が出ていなければ浅い傷だから安心して」 「はい」  よく見ていてくれるなと思いつつも今はその優しさがありがたかった。少し緊張の糸が解れると、瞼が重くなっていく。それを押さえつけるように頬に缶をギュッと押し付け、痛みで覚醒させる。  しばらくそうして痛みと睡魔に耐え、時には春人とぽつぽつ先程の男たちのことを話しながらいると、目的地に着いた車が敷地内に入って行った。  大きな平屋の一戸建てで、和風な作りが残る庭もある。似たような車が並ぶ一角に自らが乗る車もつけられ、エンジンが切られた。伊織は、春人が扉を開けにきてくれるまでその場から動くことが出来ずにいた。  促されるように車から降り立つと、玄関の引き戸を慌ただしく開けて出てくる男と出くわした。 「若! 一人で出かけてたんですか!?」  Tシャツに大きめのズボンを履いた男は春人を心配そうに出迎えたが、当の本人は可笑しそうに笑って 「いつものことじゃないか。それより、例の網中伊織を連れてきた」  言って、伊織を近くに呼ぶ。  呼ばれれば行くしかないので、従順な犬のように春人の隣に立ち、伊織は小さく頭を下げて蚊の鳴くような声で「はじめまして」と気持ちばかりの挨拶をした。  その声は聞こえたのかは定かではないが、男の表情がパッと明るくなり、顔に満面の笑みを貼り付けた。彼も例によってヤクザではあろうが、随分と身近に感じる表情を返してくれる。 「アンタが、いや! あなたが網中さん! その節はお世話になったそうで……」 「タキ、本人は覚えていないようで、まだ俺も理由を話しちゃいないんだよ。シュウさんに会わせてから話すから、後でまた良くしてやってくれ」 「そうなんですか!? 覚えてないなんて……懐が(ふけ)え方なんすね……」  くるくると表情を変え、南無……と伊織を拝むタキに、同じく伊織も南無と両手を合わせて返してみる。  こうしちゃいられねえと、顔を上げたタキはいそいそと二人を屋内に通して「シュウさんは部屋にいる」とだけ伝えると、自分は伊織から温くなった缶コーヒーを受け取って奥へと引っ込んでしまった。  元気で騒がしかったタキが姿を消すと、屋敷の中の音がよく聞こえた。  他にも幾人か人がいるようで、タキが春人の帰還を知らせているようだった。出迎えを止める声が誇らしげで、自分は既に伊織にも会ったと自慢すらしている声が筒抜けだ。何も自慢になるまいと思ったが、追って響く驚嘆に思わず肩の力が抜けてしまう。  春人は声を潜めて謝罪した。 「落ち着きのない輩で申し訳ないね」 「いえ……少し、安心しました」  靴を脱ぎ、隅の方へ寄せて立ち上がる伊織に、春人は「よかった」と微笑む。相変わらず目元は鋭いままだが、元からなのか。  広い玄関を左に曲がって大広間を突っ切っていく春人の後を追いかけながら、伊織は思った。  奥まった小さな座敷部屋に着くと、春人は障子の前に正座をする。伊織も促され、真似するように背後に正座をして居住まいを正す。 「シュウさん、春人が戻りました」 「ん、入りなさい」  静かな、嗄れた優しい声が招いた。  見ているかもわからない障子越しに春人は一礼し、框に指をかけてサッと引いた。  中では一人の男がメガネをかけて本を読んでいたようだった。小さな文机に似たテーブルに本を置き、座椅子の上で尻の位置を直してこちらを向く。歳は60代後半くらいのように見えた。  柔らかそうな髪が春人と同じように綺麗に撫で付けられ、それほど背が高いようには見えないがどこか風格のある出で立ちだ。それだけで大きく見えるような気になる。  伊織自身、ヤクザに詳しいわけではないが、若頭である春人が畏る相手であるから、ここの組の元締めと言ってもいい人なのだろうと予測する。  そうだとは思っても、優しい雰囲気も似ており、思わず「おじさん」と馴れ馴れしく呼んでしまいそうになった。  部屋の中へと入る春人に続き、入り口のごく近くに正座をし、そっと障子を閉めた。メガネ越しに見つめられ、伊織は恐縮して肩をすくめた。 「あの時の子だよ。間違いない」  喉の奥から鳴るような声で、メガネを取りながら男は呟いた。その顔に伊織も見覚えがあった。だが、どこで見かけたのかはハッキリと思い出せない。まさかニュースではあるまいなと勘ぐっていると、男は口元を緩めて身を乗り出す。 「網中さん。覚えてないかな。公園の隅で座り込んでいた私に声をかけてくれたろう」 「都会の公園では声をかけてくれる人なんてそうそういないのに、それに加えて叔父貴を助けてくれたんだ。講義に使ったという用紙の裏に名前と連絡先を書いて渡してくれただろう」  記憶の助け舟を出してくれた春人の言葉にハッとした。  思い出が蘇ってくる。  それは確か、今から数ヶ月前の事だったように思う。大学二年にもなれば学校での過ごし方もわかってきて、中だるみがでてきてしまう時期。  そんな折り、一人講義をサボって公園で遅めの昼食を食べながら本でも読もうかと公園に入ったのだった。  今まで頭の隅に、奥にしまいこまれていたモノクロの記憶が、鮮明に表に浮き上がってきた。伊織は何度も頷きながら、自分の頬が緩んでいくのを久し振りに感じていた。 「柊一郎(しゅういちろう)さん。柊一郎さんですよね」 「覚えていてくれて嬉しいよ」  目を細めて笑うその目尻のシワに、伊織は嬉しくなった。

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