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過去の話

 その日は一限飛びずつに講義があった。  二限目から始まり、次は四限、最後に六限。早く帰るためには講義の間をあけずに詰め込むことだが、興味のない話を一時間以上も聞けるような胆力もない。だからと言って二年の時期に全く講義を取らないのも考えものだ。  大学生活の後半は就職活動へ当てる時間が多くなるだろうと伊織は考えていたので、卒業へ漕ぎ着ける為の単位は早めに納めておきたかった。  しかし適度な息抜きも必要だ。一限飛びの授業ほど面倒に思うものはない。  本日初めの講義を受け終わり、人でごった返す昼の学食を通り過ぎて学校からほど近い場所にある本屋へ向かった。欲しかった文庫本を手に、店内をふらふら見て回っていると時間はすぐに過ぎる。  既に次の授業が始まっている時間だ。目当ての本だけ買って、コンビニで片手で食べられる昼食を選び買い、サボりに行きつけの公園を目指す。  平日の昼間ということもあって、そこそこ広い園内は静かなものだった。数人の親子が遊具で遊び、ベンチでは着物を着た男性が日向ぼっこでもするように目を細めて座っていた。  いつも座っているベンチに男性が座っていたので、伊織は一つベンチを挟んで座った。思い出したようにお腹の虫が騒ぎ始め、早速おにぎりにパクつきつつ買ったばかりの文庫本を開く。汚さないように細心の注意を払いながら読み進めていると、ふと耳に届く声に気がついた。  か細く、途切れ途切れに聞こえる小さな声。  誰かを呼んでいるように聞こえなくもない。  伊織は文字から目を離して辺りを見渡す。背後は木々が鬱蒼として夏場は蝉が大合唱だが今は静かなものだ。遊具で遊ぶ子どもたちの声はここまで届くがそれとは違うし、ましてや子を見守る親の小さな話し声がこんな場所にまで聞こえることはない。  はてな、とそっと隣に視線をやると先ほどの男性が変わらず座り、こくりこくりと首を前後にしている。寝てしまっているのだろうか。もしかしたら、この人の寝言か吐息だったのかと伊織は思わず頬を緩める。  夏の前の柔らかな太陽の光は気持ちよく、花粉症でもなければ最高だ。屋内ではなく家の外に出て緑の匂いを嗅ぎながらの昼寝もしたくなるだろう。  思いもかけず、とても微笑ましいものを見てしまったなと緩む口元をそのままに、さて続きに取り掛かろうかと視線を落とそうかとした時。  ぐらりと男性の体がひしゃげた。  ゆらゆらと前後していた体が急に前のめりになってあっという間に二つ折りになってしまった。寝相が悪いと言うにはおかしな態勢に、伊織は手に持っていたおにぎりと文庫本を荒々しくベンチに放り、慌てて男性の元へと駆け寄った。 「大丈夫ですか!?」  どうして良いのかわからず、かといって体に触れていいものなのかも判断ができずに手が虚空を舞うばかり。  老人と呼ぶにはまだ若い顔は苦悶に歪み、額には脂汗が浮かんでいる。はたとそこで伊織は携帯の存在を思い出し、座っていたベンチに置きっぱなしにしていたカバンへと向かおうと立ち上がった。しかし、男性の腕が伊織のそれを掴んでグイッと引っ張る。  弱々しい力であったが振り払うのも気が引けて、伊織は彼の手にそっと触れて 「大丈夫、どこにも行きませんから。携帯で救急車を……」  理由を伝えれば安心して手を離してくれるだろうと思ったが、逆に力が強まってくる。早くしなければ自身の命に関わることなのにどうして……と伊織が焦りも露わに男性を窺う。  そっと、腕を掴む方とは逆の手が地面を指差す。  習ってそちらへ視線をやれば、銀色が鈍く光った。  薬だ。  時折吹く風にカタカタと動くそれに一歩で近づき手に取る。中身を押し出して男性へと手渡した。固形物だ、水もいるだろうとコンビニで買ったお茶のペットボトルを持ってこようとベンチへ走る。飲みかけだが、緊急時だ。我慢してもらおう。  蓋を開けながら戻った時には、幾分落ち着いたように見える男性が静かに座っていた。  青い空を仰ぎ、子どもたちの騒ぐ声を聞いているかのように見える。もしや自分がここへ来た当初から気分が悪かったのではないかと、伊織は眉間にシワを寄せた。  水もなしに飲み込んではまた何があるかわからない。とりあえず、手にしていたペットボトルを男性へと差し出した。 「嫌でなければどうぞ。水もなしじゃ、喉が苦しいでしょう」 「……すまないね」  言葉少なにペットボトルを受け取り、ゆっくりと中身を傾けた。静かに喉が動くのを見て、やっと伊織は落ち着くことができた。もし自分が普段通り講義に出るために本屋から直行して学校で本を読んでいたら、男性は誰かに知られることなく事切れていたかもしれないと考えると背筋が薄ら寒くなる。サボって良かった、と自らを正当化しようと小さく思う。  離れたベンチに置きっぱなしになっていたカバンと文庫本と少し汚れてしまったおにぎりを手に、男性の隣へと腰を下ろす。なんとなく一人にしておくのが不安でもあったし、家が近くでもあれば送り届けたほうが家族も安心するのではと考えたのだ。  それとなく話をしながら提案してみようかと、伊織はできるだけゆっくりとした語調を意識して口を開いた。 「落ち着きましたか?」 「……なんとかね。これも、悪かったね」  言って、持っていたペットボトルを振って見せた。 「いいんですそれくらい。俺も、全然気がつかなくてすみませんでした」  ぺこりと頭を下げると、男性は訝しむように片眉を持ち上げる。 「なぜアンタが謝る。私のせいだよ。薬が嫌いでね、ギリギリまで飲みたくないんだ。子どもたちからは怒られるが……しかし今回のことが知られたら私も強くは言えなくなるな」 「それは……俺もお子さんたちの味方します」 「あっははは」 「いや、笑い事じゃないですよ!!」  先ほどのことなど他人事のように笑う男性が子どものようで、伊織は彼を諌めつつも安堵の息をもらした。軽口も叩けるようになっているようだし、笑うことができるのなら問題はないだろう。  心に余裕ができただけで、急に周りの声や雑音が耳に入ってくるようになった。柔らかな風が吹き、車の走る音や人の話し声が微かに聞こえる。  持っていたおにぎりの汚れた米粒を少し取り除いて、再びお昼ご飯を始めた。 「今から昼餉かい?」  話しかけられ、口元を手で覆い隠しながら頷く。 「いつもここで? 一人でいるのかい?」  矢継ぎ早の質問に答えるべく、急いで飲み込んで今度は首を横に振った。 「たまにです。今日は一つ授業サボっちゃったんですけど……普段は学食とかコンビニで買って、友達と食べたり一人の時もありますけど。今日はここに来てよかったです」 「ああ、助かったよ」 「いえ……」  にこやかに微笑まれ感謝されるとくすぐったい。普段は面と向かってしっかりと感謝されることなどないので余計に。  照れを隠して前を向きながらなんでもないように一口でおにぎりを頬張った。ゴミを袋にまとめ、カバンの中にしまう。文庫本も軽く表紙を叩いてカバンの隅の方へしまい込んだ。 「そういえば、おうちはここら辺になるんですか? お散歩とか?」  カバンをゴソゴソさせながら、今思いついた風を装って尋ねる。演技など小学生の出し物以来したことはないが、そこまで不自然ではなかったろうと自分を鼓舞し、首を傾げて男性を見る。  当の本人はといえば、気持ちのいい風に髪を静かに靡かせて大きく息を吸っては吐きを繰り返していた。今のこの瞬間を楽しんでいる姿に頬が緩む。彼の周りだけ時間がゆっくりと流れているようだ、とは良く聞いた表現だが本当にそんな瞬間があるのだなと身をもって知った瞬間だ。  どこか非日常ささえ感じる光景に伊織の心は癒され、いや役目が逆だろうと苦笑する。たっぷりと間を置いてから、男性が口を開いた。 「電車を乗り継いで来たんだ。やっと暖かくなったんだし、少し遠出をしたくなってね」  最寄駅の名前を聞いて伊織と一駅しか違わないことを知り、こんなこともあるのだと二人で笑いあった。  男性は名を柊一郎と名乗り、自身もよく読書をすること、映画をよく見ていてジャンルは恋愛映画が今はすきなこと、そのせいもあり家の中で恋愛ものの映画の話が飛び交い、家の中に女子高生がいるかのような錯覚に陥ることなんかを話した。  彼の声は低く落ち着いてるにも関わらず、臨場感たっぷりに話す様は落語をきいているようで楽しい。格好も着物なだけに、そのうちベンチに正座でもしてしまうのではないかと思うほど。  なんなら、本当にそれが職業なのかもしれない。日本文化に明るくない伊織は彼を知らないが、その道の人が知ったら今この瞬間は夢のようなものなのかも。  話から察するに、彼の言う子どもはとても数が多いように聞こえ、それも弟子か門下生かそんなところの人たちなのかもなと思える。  自身の推理力も満更ではないような気がして、伊織はほくそ笑む。  そんな事を話しているうちに次の授業開始まで時間がないことに気がついた。  カバンを手に、伊織は名残惜しいが柊一郎にやっと案を呈した。 「あの、もしよければお家までご一緒しましょうか? 俺も心配だし」  押し売りにならないように言葉を選ぶ。更に、深追いはしないように言葉はそこで切った。あまりグイグイ言い募っては本当に迷惑な際も断りづらくなるだろう。  思った通りではあるが、柊一郎は否定の意を示した。 「気持ちだけで充分。アンタが来たら余計に出かけにくくなってしまうからね。一人で来れたんだ、帰れるさ。それに」  そっと持ち上げた指の先には、公園に設置されている公衆電話。 「もしできなかった時はあれもある。なに、頻繁に起こるような発作じゃないんだ。今日だって久々にあそこまで悪くなって……」 「お子さんたちの心配する意味がどんどん良くわかります」 「ありゃ」  笑う柊一郎につられるように伊織も微笑み、ふと思いついて授業で使っているノートに自分の名前と連絡先を書いて渡した。  不思議そうに手の中のものを見つめる柊一郎に 「もしお家の方がいらっしゃらなかったら呼んでください。授業中でも飛んできます」 「これは、驚いた。……しかし、救急車より早くて役に立ちそうだ」  そう言って口の端を上げる柊一郎の表情は、今日の風のように柔らかくて暖かいものだった。

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