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転換期
ほんの数ヶ月前のことだというのに、着ているものや雰囲気が少し違うだけで人相が揺らいでいてしまったことが恥ずかしい。一日だけとはいえ、あれほど濃い時間を共に過ごした者の顔をすぐに思い出せないとは。
しかし、今日の伊織の一日もなかなかにハードなものだったことは否めないので仕方がないとも言える。あの二人につけられた傷は内から外から痛み、癒えるまでには時間がかかるように思えるが、柊一郎の優しい声と物腰にホッと胸があたたかくなった。
「その後、変わりはないですか?」
病に伏せているようには見えないが、あれほど苦しそうな場面を見てしまっているので心配の言葉をかけずにはいられない。
だが、当の本人である柊一郎は笑顔を浮かべて自らの胸をトンと叩いてみせた。
喉を整えるように鳴らすのが隣から聞こえた。
ビクリと肩が揺れ、音のした方をそっと窺ってみる。
眉間に薄くシワを寄せた春人が、心なしか柊一郎を咎めているように感じられた。
自分が怒られたわけでもないのに伊織は背筋をぴんと伸ばして、改めて柊一郎へと向き直ると、バツが悪そうに頭を掻く彼と目が合った。イタズラがバレた子どものような顔をしている。
いくつも歳が離れているのに、伊織はなんだかおかしくなって笑う。
「ぁいっ……」
ビリッと口の中が痛んだ。
懐かしい話の高揚感で忘れかけていたが、少し前まで口の中は血の洪水が起こっていたのだ。春人の言った通り傷は浅いが、通常よりも大きく口を動かそうものなら波のように痛みが襲ってくる。
口を手で覆い隠して顔をゆがめる伊織を見て、今度は柊一郎が春人を咎める番だった。
「なんだ手当てがまだなのか。ハルよ、先に薬持ってきてやんな。若いののところにあんだろう」
「すぐに」
短く返事を返し、一礼して春人は颯爽と部屋を出ていった。
部屋に残された伊織は悪い訳でもないのに、体を縮こまらせてぺこりと頭を下げる。
「すみません……わけも分からず連れられてきて、薬まで用意してもらっちゃって……。しかも……あの……さっき車で春人さんから、その、借金……の話を……」
話し出したはいいものの着地点がわからず、自ら借金を肩代わりしてもらえる話を切り出してしまった。口をついて出てしまってから「しまった」と思ったが時すでに遅し、意地汚い奴だと思われたらどうしようかと伊織は上目遣いに柊一郎を見やる。
先程まで好々爺然とした彼が、今は渋い表情で腕を組んでいる。
伊織の背中を冷たいものが走り抜けた。
ここで柊一郎に嫌われればこの組も敵側に回りかねない。
そう思うと、再び谷底に突き落とされるような心地だ。
しかし、その彼の口から出たのは想定とは程遠いものだった。
「君の家に押しかけたのは結構な無礼者だったろう。一般人にこんなケガまでさせて、とんでもない話だよ」
「……ええっと」
ヤクザなのだから当たり前なのでは、と苦笑まじりに言いそうになったが、伊織のいるここもヤクザたちの集う場所なのだった。
そうとは思えない柔らかな空気に絆されてしまっているが。
「普通は一般の人は、襲わないというか……危険な目にあわせたりはしないってことですか?」
「最近は特にね。警察の取り締まりが厳しくなって、派手なことはできなくなったんだよ。だがまあ、そんなの構いやしねぇって奴らも一定数はいるんだろうな」
「同業者にこんなことを言っていいのかわかりませんが、絵に描いたようなヤクザでした」
言えば、柊一郎は大層おかしそうに笑った。
「そりゃそうさ、ここいらじゃあ一番猛威を振るっている奴らだ。そんな奴らに貸しを作っちまったご友人も、今頃は行方不明者の一人かもしれないね」
ゾクリとした。
大きく報道されていないだけで、行方不明者や失踪者は年間どれほどいるのだろう。それが本当に言葉のままの意味として捉えてもいいものなのだろうか……。
そして、その事実を明日の天気予報をするかの如くさらりと言ってのける柊一郎も、あちら側の人間なのだとハッキリ自覚する言葉だった。
ヒリつく空気に喉が乾いてくる。一度引いていった「怖い」という感情が再び舞い戻り、伊織の背中をそれは優しく撫でていった。
二人きりでいることが恐ろしく感じられ、次の言葉をどう繋いだらいいのだろうかと考えあぐねていると、閉じられていた襖の外から声がかかった。
「失礼します」
ピタリと閉じられていた襖が開き、来た時と同じように丁寧な仕草で春人が部屋の中へと体を滑り込ませる。傍らには救急用品がまとめられた小さな手提げカゴがあった。
伊織の胸に安堵が広がる。時間が動き始めたような心地だ。
勝手に緊張していた肩の力が抜け、いまさら正座をしていた足が痺れ始めた。固くなっていた体を解すように軽く足を崩すが上手くいかない。
それに気がついた春人が、楽にするよう声をかける。柊一郎にも一言断りを入れてから胡座をかくように伊織に小さく耳打ちした。
同じように小声で謝罪と感謝を添えて言われたように足をゆっくりと変えた。ビリビリと感覚を奪っていく感じがする。
「お話中申し訳ないですが、先に手当てだけいいですか」
「その為に持ってこさせたんだ。やってやんな」
一つ頷く柊一郎に黙礼して、春人は伊織の背中に大きな手を添えて部屋の隅へと誘導し、光が当たるように顔を上へ向けるよう指示を出す。当たり前のように手当てを始めようとする春人に、慌てて自分でやる旨を伝えた。
「じ、自分でやりますよこれくらい」
言えば、春人は首を横に振る。
「鏡がないんだ。それに、下っ端の奴らの面倒を見ていたこともあるから、それなりにできる」
「それなりなんですか」
口内用の消毒液と軟膏を手にして構える姿と、控えめな物言いがおかしくて頬が緩む。ふふっと笑えば、春人は少し照れたように視線をさまよわせ、伊織の口元を指先でつついて開けさせようとした。
ここまで促されては仕方がないので、柊一郎がいる手前恥ずかしくはあるが観念してゆっくりと口を開いて上を向く。
下顎を手で支えられ、親指が頬の肉を押し広げる。空気に晒された事と引っ張られた事とで傷口が開いたような痛みを覚えた。
眉間にシワを寄せて痛みに耐えていると、消毒液の苦味と軟膏のもったりとした粘り気を感じた。
と思えば、無骨な親指が引き抜かれて、そっと顎を閉じさせるように指先が頬を撫でていく。
手際の良さにも驚いたが、春人の手が思いのほか優しく動くことに感動してしまっていた。
裏稼業の人間ということを忘れてしまいそうなくらいに柔らかな身のこなしと、無償にも感じる優しさ。柊一郎を助けたことで呼ばれたわけだが、伊織にとっては当たり前の事をしたまでなので、後からお金を巻き上げられたとしても不思議と思わないぐらい。
終了したことを示すように持ってきていたガーゼで手を拭く春人に頭を下げ、改めて柊一郎に向き直り同じく頭を下げる。
「お世話になってすみません。助かります」
「何度も頭下げなくたっていいんだよ。大学にまで通ってるんだ、安くはないだろう。それに、世話になるのは長くなるかもしれないんだから」
「それはどういう……」
意味でしょうかと繋げようとしたところで、先程の会話がフラッシュバックする。
「……彼らが、逃がしてはくれないってことですか」
「そうだろうね」
柊一郎が笑う。
「言ったようにアンタの家にお邪魔した組の連中はネジが緩んでる。この一件でおしまいって訳にはいかないだろうね。派手なドンパチを起こすことはないとは思うが、ウチの組が関わっているとわかれば事情ぐらいは気にかかるだろう」
どちらに転んでも地獄というわけだ。
しかし、一人で抱え込んで悩んでいた先程の自分と比べると今の状況は好転しているように思える。なによりも精神的な重みが違う。
裏社会に挟まれてしまっていることには変わりないが。
救急用品をしまい、手提げカゴを傍らに置いた春人がスっと前に進み出て柊一郎の後を継いで口を開く。
「一度関わってしまえば、どこかで途切れることはない縁だ。普段ならこういった事に首は突っ込まないが今回はまた話が違う。組の主を救ってもらった身としては、君をこのまま放っておくわけにはいかない」
真剣な表情で言い切る春人に、柊一郎が「誰が主だよ」と苦笑する。だが、彼の話に否定をする気はないようで、伊織の反応を窺うように見ているのがわかる。
突然の話できちんと把握ができていない伊織だったが、とりあえず言いたいことは自分の中でわかっていた。
込み上げる熱いものを感じながら、この選択が正しいものかどうか不安を覚えつつも二人に向かって
「俺の方こそお願いします」
思うように足が動かず胡座をかいたままで失礼だとは思いつつ、できる限りに頭を深く下げて声を振り絞った。
「俺を……助けてください」
声が震える。
目頭がぶわっと熱を持つ。
揺さぶられていた感情が爆発して全てが流れ出た。
大きな手が背中に添えられ、弾かれたように頭を上げれば滲む視界に優しく笑む春人がいた。少し降ろしては再び背負い直していた荷物を、ようやく地べたに置くことが出来た。軽くなった体が怖くて、余計に涙が溢れて子どものように泣きじゃくる。
背中を撫でられても止まることのない涙がぼたぼたと畳を濡らしていくのを見て、人様の部屋を汚していることを、どこか冷静に頭の片隅で考えてもいた。
濡れる頬もそのままに泣く伊織の手を、水分の少ない乾いた手が包み込んだ。柊一郎の手だ。
他人の手の温度に少しだけ涙の勢いが収まるが、いまだ頬を伝っていく雫が顎の先から二人を繋ぐ手の隙間へと落ちていく。
「今度はこちらがアンタの為になる番だね、伊織さん」
名前を呼ばれたことで、不安だった心の内がより晴れていくようだった。歪んでいく顔を自覚しながら柊一郎の手を強く握り返し、裏返る声で何度もお礼を口にする。
しばらくそうして伊織が落ち着くのを待って、涙がすっかり枯れるのを見届ける頃には伊織の体力は限界にあった。夜も遅い時間に差し掛かっていることもあったが、それ以上に一日であったとは思えない量の出来事で疲弊しきっていた。
気を抜くとふらりと上半身が揺れる彼に気付いた春人が
「シュウさん、すみませんが今日はここまでにして、後日また皆への面通しをしませんか。彼も疲労が溜まっているようですし……」
彼の言葉に柊一郎も同意を示す。
「体調を崩しちゃ元も子もない。寝床は決まってんのかい」
「若いのと同室では気も休まらないでしょうし、今夜は自分の家へお連れしようかと」
「その方がいい」
質問攻めにでもあったらかわいそうだと柊一郎が笑えば、その光景が思い浮かんだのか春人も手元で口を隠すようにして笑った。玄関前での事を思い出すとあながち間違いでもなさそうで伊織は笑えない。徹夜コースになってしまっては違う意味で死にそうだ。
その後、柊一郎に見送られて逃げるように時崎組を後にした。
玄関から素早く外へと出て、春人の車へと乗り込む。後部座席に深く座り込むと眠気が一気に襲ってきた。ふわふわとした頭でシートベルトを閉めることを思い出して、手の感覚だけで探し出してカチャリと音がしたのを確認する。
「着くまでには少し時間があるから、少し寝てしまっても構わないよ」
「ありがとう……ございます」
どうにかそれだけ言うと、バックミラー越しに冷たくもどこか優しい目を見たのを最後に、伊織の体はゆっくりと深く闇の中に沈んでいった。
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