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ふたりの朝

 ふと、気が付くと自分の体が柔らかなベッドに包み込まれているのがわかった。うまく開かない目にカーテンの隙間から差し込む太陽光は些か厳しい。何度か瞬きを繰り返していくうちに、次第に目が慣れて部屋の中を見渡せるくらいになった。  薄手のタオルケットに包まったまま視線だけを動かして辺りを探る。  物が大して多くなく、スッキリとした広い部屋は自分のものではないとすぐにわかった。  黒やダークブラウンで統一された家具や調度品は、シックで大人な雰囲気を醸し出している。部屋自体も広く、伊織の住んでいるワンルームがそのまますっぽりと入ってしまいそうなほど。だというのに手入れは行き届き、お香だろうか、いい匂いもしている。渋めの紅茶のような、力強いウッディな香りと一緒に時折甘い香りも漂ってくる。  同じ男性とは思えないほどのできすぎた室内に、伊織は気が引けて少しも動けなくなってしまった。どうしたものかと頭を悩ませていると、軽いノックの音がして扉が開いた。  目を閉じることもできずに、部屋に入ってきた春人と目が合う。  グレーのワイシャツを袖捲りして、細身のスーツパンツを合わせた姿が様になっている。第一声に迷っていると、彼の方が先に声をかけた。 「おはよう」 「おはよう、ございます」  寝起きのせいで声がかすれる。 「朝ごはんは食べる人?」 「一応、食べる派閥には入ってます……」  言えば、春人が笑う。 「よかった。昨夜は何も食べなかっただろう。よければ一緒にどうかなと思って呼びに来たんだ」  ゆったりとした仕草で伊織の目の前にしゃがみこみ視線を合わせる。寝起きの顔を覗き込まれた伊織は、恥ずかしさを覚えて慌てて起き上がり「いただきます」と何度も頷いた。  がっついたと思われれば、それはまた恥ずかしくあったが、春人は咎める様子もなくベッドの脇に寄せてあったスリッパを揃えて差し出し、ついてくるよう促した。  寝室を出ると、これまた広いダイニングが広がっていた。  こちらもベースになる色は寝室と同じで、アイランドキッチンが存在感を放っている。  まずは更に奥の部屋にあたるランドリールームの洗面台で顔を洗い、よく口を濯いだ。再びキッチンに戻ると今更のように甘く香ばしい匂いに気がついた。  カウンターには丸椅子が三脚。春人に導かれるまま、伊織はそのうちの端の席に座る。 「甘いものと、そうでないもの、どちらがいいかな」  言いながら春人がキッチンからカウンターに置いたのは二皿のフレンチトースト。  片方は甘いはちみつが香り、カリカリに焼かれたフランスパンの上には粉砂糖といちごとブルーベリーが。もう片方は香ばしい匂いが漂うベーコンとチーズに、黒コショウを散らしたもの。暴力的な朝食の並びに、お腹の虫が騒ぎ出してしまう。  ぐるぐると鳴ったお腹を押さえて、伊織ははちみつが光るフレンチトーストを指さした。  どうぞと目の前に差し出された皿に、用意されていたナイフとフォークを掴んで手を伸ばした。  出来立てのフランスパンにナイフを突き立てると、さくりと軽い音がして切り離された隙間にはちみつが染み込んでいく。上に乗っていたブルーベリーと共に口に頬張れば、至福の味がする。しかし、同時に切れていた口内も痛み出す。  だが美味しさの前には痛みも無力だ。  緩む頬をそのままに二口目にとりかかろうとしたお皿の端に、ドーム型に抜かれたバニラアイスが置かれた。 「サービス」  アイスの箱を冷凍庫に戻しながら言う春人に、お礼を言って喜々として口に運ぶ。  甘味が増しただけでなく、硬いフランスパンが少しずつ柔らかくなっていくのも食べやすかった。  ひたすらに手を動かす伊織を横目に、ひとつ席を空けて春人も座る。自分の分の皿を引き寄せてパンを手に取って一口。しばらく二人して黙々と食事を続けていたが、空腹が満たされて昨夜のことを思い出した伊織が申し訳なさそうに春人を見上げる。 「昨日、寝ちゃったまま記憶が全然ないんですけど……迷惑、かけましたよね……」 「迷惑なんてとんでもないよ」  パン屑のついた指を払って春人が言う。 「まぁ、久しぶりに人を担ぎ上げたんで腰にきてるかな」 「ご、ごめんなさい!」  完璧なる迷惑ではないかと思わず立ち上がったが、おかしそうに笑い続ける春人を見て冗談なのだと知れた。どこまでが本気で、どこからがジョークの範囲なのか見当もつかないが。  お湯が沸いた音が鳴りキッチンへ立つ春人に口を尖らせ、ストンと再び椅子に腰を下ろした。  不満げな顔を隠しもしない伊織に春人は口の端を少し上げ、温めてあったティーカップに紅茶を注いで二人の席へと戻ってくる。 「悪かった。あまりにも素直すぎて、つい口が動くんだ……因みに、寝床も違うから安心して」 「……春人さんって思っていたような人と違う」 「へぇ、少し気になるな。どんな風に違うの?」  熱い紅茶を一口含み、片眉を上げて続きを促す春人。  言われるままに、伊織はええっと……と眉間にシワを寄せた。 「ヤクザっぽくないというか、見た目は確かにひやっとしたけど……今みたいに冗談も言うし、普通に話せるし、あんまり怖くないです」  指折り思ったこと感じたことをあげていくと、聞いていた春人は少し寂しげに眉を下げてなるほどね、と頷いた。そんなところも思っていたヤクザ像と違って違和感に似たものを感じる。  柊一郎を助けたことには変わりないが、そうだとしても丁重に扱われすぎているような気がしてならない。それが嫌かと言われればそうでは無いのだが。  朝食を済ませ、ぬるくなって飲みやすくなった紅茶を飲んでいると、シャワーを浴びるように春人が申し出てくれた。昨夜の服のまま寝てしまい、夏場であることと冷や汗ものの展開を繰り広げたのでお世辞にも清潔とは言い難かったので、有難く頂戴することに。  脱衣所へ案内され、バスタオルと春人の服を借りる。着ていた服は洗濯機へ放り込んで風呂場へ入った。  これまた大きな浴槽に、床も暖房がついているのか冷たくない。シャワーヘッドから流れる水も自分の部屋のものより柔らかく感じられた。生活の水準の違いに驚かされてばかりだ。  熱いシャワーに身を包まれると安心感が広がっていく。怖々シャンプーを借りると、例の春人の香りがした。力強くも甘い香りに癒されるのと同時に、少し胸が高鳴っているのを感じる。いつもと違う空気に気分が高揚しているのだろうか。  おかしな感覚に頬が火照るのを感じ、伊織は香りを楽しむのも早々に素早く洗い流してしまった。  不意に風呂場の曇りガラスの扉がノックされた。  驚き、伊織が小さく声をあげる。 「……驚かせてすまない。今日のことで相談なんだが、話を続けても構わない?」 「大丈夫です」  心の内を覗かれたような気がして焦り、脈打つ胸元へ手を当てて声が裏返るのを抑え込む。平常心を意識して、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「今日から週末だけど、何か予定は入ってる?」 「特には、ないです」 「もし体に余裕があれば、事務所に行ってみんなに面通しをしたいなと思っているのだけど、どうかな。今後の話もしたいし、学校があると平日は厳しいだろうし……」 「俺は構いません」 「ありがとう。そうしたら俺も用意をするから、あがったらリビングで待っていて」  言って、扉の前から黒い影が遠のいた。  ほうっと息をついて、出しっぱなしになっていたシャワーを止めた。水滴の垂れる音を聞きながらボディソープに手を伸ばす。これからのことに思いを馳せつつ、どこでバスグッズを買っているのだろうと関係ないことを考えて心臓を落ちつかせることにした。

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