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新しい世界

 春人の服は少し大きめだったが不自由はなかった。Tシャツに、チノパンの裾を折り込んでベルトをして履けば見目も悪くはないように感じる。ありがたく拝借し、濡れた髪を乾かして大人しくリビングのソファに座って待った。  しばらくそうしていると、車のキーを手に春人が呼びに来た。前日のようにエスコートされつつ車に乗り込み、時崎組事務所の門を車が潜ると出迎えらしき若者が顔を出す。  見た顔だ。  するりと車が停車すると同時に、伊織の乗っていた後部座席のドアが開かれて若者の声が明るく響く。 「おはようございます!」 「おはよう、タキ。出迎えはいらないと言っただろう」  運転席から春人が答えると、今度は運転席のドアを開けながらタキが顎を突き出して不服そうに言う。 「若のじゃなくて、伊織さんの出迎えっすよ」 「そいつは失敬。いい心構えだ」 「褒められたー」  えへへ、と笑う彼の表情は一般人のそれと変わらない。既に名前呼びに変わっているところを見るに相変わらずのようで、伊織の表情も和らぐ。やはり堅気ではない集団の中へ踏み入るのはまだ慣れるものじゃない。  車から降りて春人とタキに導かれるように屋内に入り、応接室へと案内された。  大きなテーブルと四脚の椅子、壁に沿うように置かれたローテーブルや棚には骨董品がいくつか並んでいる。ここでタキと待つように春人に指示され、彼が柊一郎に挨拶してから仲間に面通しする旨を伝えられる。改めて確認されると緊張がぶり返してきてしまった。  二人取り残された室内で、タキに椅子を勧められたので心を落ち着かせるために座ることにした。  革張りの椅子ではあったが、腰を下ろすと驚くほど柔らかく沈んだ。途中で足を取られるようにして座りんでしまう。それを見て、タキが小さく笑った。 「緊張しますよね」  隣に立つ彼を見上げ、揃えた膝に自分の拳が置かれていることに気が付く。  それを和らげるかのように、タキはおどけて言って見せた。 「いきなりこんな世界に一人放り込まれて、しかも自分で拵えたものでもない借金を背負わなきゃならなくなったんですもん。俺だったら死んでたかも」 「いや……俺もそうだったかも。今の状況は、すごく運がよかっただけなんですよ、たぶん」  硬くなっていた手をほぐして指先を合わせる。 「あの公園で柊一郎さんと出会ってなかったら、死んでたかもしれない」  ぶるりと背筋が震えて、昨日の友人の変わり果てた姿が思い出された。今も一人ではないとはいえ、いつ彼のようになるのかという不安は拭えない。顔も名前も住所も知られてしまっていという恐怖がここまでとは思いもよらなかった。  強張っていく伊織の表情を目にして、タキは「でも、」と口を挟む。 「伊織さんが性格いいからですよね、こういう巡り合わせって」 「性格いい、かな……」 「優しいって感じ。知らないおじさんが具合悪くなって怖かっただろうし、それでも薬に気が付いて、更には一緒に長くいてもらったらしいじゃないですか! 普通、知らないおじさんと長いこと話したりしないと思うんすよね」 「そうかな」 「俺はそう」  腕を組み、うんうんと頷くタキ。  ふわりと嬉しい気持ちになった。当たり前だと思ってやったことだが、伊織だからやれたことなのだと言われた気がして、うなじがむず痒く感じる。照れを隠すために視線を手元に移せば、細く頼りない指先が白くなるほど力が入っていた。……自分への過大評価が過ぎる。  力なく笑い、とりあえず「ありがとう」とタキへ返した。感謝の言葉をもらうとタキは目を細めて微笑んだ。素直な人だ。  その後、柊一郎を知らないおじさん呼ばわりしたしたことは内緒にしておいてほしいと手を合わせるタキをからかったり、組の内部で話題になっている少し前の恋愛映画の話をして、柊一郎の言っていた女子高生のような子どもたちが誰なのか合点がいったことが可笑しくて笑ったり、他愛のない話題で盛り上がった。長い時間ではなかったが二人の距離はすぐに縮まった。それも、タキの性格によるものだろうが。  しばらくそうして二人で話していたが、軽いノックの後に春人が顔を覗かせた。 「楽しそうに話していたところ申し訳ない。準備ができたから、一緒に来てもらえるかな」  扉を開けて、頭を傾けて部屋の外へ出るよう二人を促す。先を行くようタキに言われた伊織は春人の背中を追う形で廊下へ進んだ。  廊下を挟んで目の前の大広間。柊一郎の部屋へ向かう際に突っ切っていった部屋の襖が今は閉ざされている。少しここで待つよう春人に言われ、彼一人が襖を開けて中へ入っていく。  部屋の中から「なんだ若かー」と笑う幾人かの声に被さるように、「うるさいぞ」と窘める太い声もしたが学生の集まりのように落ち着きはない。背後でタキが笑う声もする。いつものことなのかもしれない。その中で、凛とした春人の声が耳に届く。 「じゃあ、中へ」  開かれていた襖の向こうから聞こえた声に、少し足がすくむ。助けるようにタキの手が背中を押して、そろりと一歩踏み出して畳を踏んだ。  春人の隣に立ち目線を上げると、二十人前後の男たちが思い思いに座り込んで伊織を見上げていた。柄の悪そうな風体の者もいれば、街中でよく見かけるサラリーマンと変わらない服装で座っている者もいる。先ほどまでざわついていた室内が一気に静まり返り、伊織は息が詰まるのを感じた。救いを求めて春人をちらりと見れば、微かに口元が動く。  挨拶を、と言ったようだ。転校初日の生徒のように背筋を伸ばして、足の裏に力を入れて立つ。  冷静に……と頭で念じながら部屋の中を改めて見渡した。  全ての視線が伊織を見つめて、発言を待っているように見える。  冷えた肺に空気を取り込み、声が枯れないように腹に力を込めて声を出す。 「網中伊織です。時崎組の方には、この短い時間の中で本当によくしてもらっていて……あの……あ、ありがとうございます!」  言葉を選ぶ余裕もなく、勢いのまま頭を下げる。  発言者がいなくなり、静かになった室内に一つ声が響く。 「逆にありがとうございます!」  ハッとして頭を上げると、部屋の後方にいた茶髪で軽薄そうな男が手を上げていた。どうやら彼が発言したらしい。その声に呼応するように周りが笑い始めた。茶髪の男を小突き、「声がでけえよ」といじられる。当の本人は小突かれたことが不服そうだ。  しかし、そのおかげで空気が軽くなった。  伊織の表情が緩んだのを見るや、あちらこちらから声が上がり始めた。柊一郎との出会いの話や、春人と初めて会った時の話、はたまた伊織の借金の話にまで飛び火して、場が騒然となった時。  手を鳴らす乾いた音が鳴る。  音の出処は春人だった。ただそれだけで、皆の口がサッと閉じる。調教された犬たちのように従順で、伊織は畏怖と尊敬の念を込めて春人を見た。  視線を一身に浴びた彼は伊織を手で示し 「今日の昼の席にも来てもらう予定ではあるから、その時にでも積もる話をするといい。とりあえずの顔見せと……ノジマ」 「はい」  名前を呼ばれたノジマであろう男が手を上げる。  フチなし細身のメガネとスーツにネクタイという春人と似通った見た目をしているが、受ける印象は全く違う。メガネのせいもあるのだろうが、知的な印象が強く出ている。 「網中伊織の手伝いをしてもらいたい。あとで応接に来てもらえるかな」 「伺います」 「ありがとう」  首肯し、春人は伊織の肩に手を回して柔らかな声で言う。 「あちこちに連れ回して申し訳ない。ノジマと俺とで例の問題について話したいから、さっきの部屋で待っていてくれるかな」 「わかりました」 「何かほしいものがあればタキに言うといい。部屋に一緒に行かせよう。タキ」 「了解です!」  春人に敬礼を返し、タキは伊織を先に通すため襖を開ける。部屋を出る伊織の背に数人から暫しの別れの挨拶が飛んだ。またすぐ会えるというのに、なんだか可笑しくてくすぐったい。  はにかみ笑い、伊織が小さく手を降ると場が再び沸いた。驚くほどの反応の良さに圧倒されつつも、伊織はタキと部屋を出る。  応接室へ戻りながら、苦笑をもらしてタキへ困惑の言葉を口にした。 「俺一人にあんなに良くしてもらって、なにかする度にレスポンスがあってビックリするよ」  同じようにタキも笑いながら頷いた。 「伊織さんみたいな人が初めてだからじゃないっすかね。シュウさんが良い子だって褒めるし、若が自ら動いて助ける相手だし……俺もどんな人が来るんだろうってそわそわしてたのもあるし、みんなもそうなんじゃないかなぁ」 「……随分と恐れ多い」 「俺らと違う世界に住んでる人が、フツーこんなところにやってくることなんてないんで。そういう珍しさもあるかもしんないですね」  そうなのかと、伊織は思った。  ここの人間にとっては、自分の方が物珍しい人間に映るのだ。ただ普通に学生の一人として一般社会で生きている自分が。  言われるまでそんなこと考えもしなかったので新鮮な気持ちになる。  応接室の扉をくぐり、柔らかなソファに腰を下ろして背もたれに上半身を預ける。そのまま沈みこんでしまいそうになりながら、部屋に召集された時崎組の舎弟たちの顔を端から思い出していった。  今も賑やかな笑い声が聞こえるような気がする。

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