7 / 17
決戦の時
しばらくそうしていたように思う。ぼーっとソファに埋まり、タキと二・三は話したかもしれない。テーブルにはタキが持ってきてくれたであろう冷たいお茶が入れられたコップが置いてあり、伊織はまだ口を付けていない。
静かな室内に空気の震える音が響く。
不意に扉が叩かれ、タキが返事をすればサッと開いて二人入ってきた。ノジマと春人だ。春人の手には重厚そうなメタリックのカバンが握られている。
春人は商談の席にでも着くように颯爽とソファに座って、タキが出入口の近くに立つと早速というように春人が足元にカバンを置いて指を組み、少し身を乗り出して言う。
「金を渡しに行く際、彼と一緒に行ってもらう」
彼と反するように、ゆったりとした動きで席についたノジマを示した。呼ばれたノジマは小さく頭を下げて春人の言葉を引き継いだ。
「紹介に預かりましたノジマです。こっちの世界と外の世界との橋渡しのような役割をしています」
柔らかく微笑み、右手を出す。日本ではあまり見ない挨拶であるが、彼がすると様になっているように見えた。背が高くスラッとしてスーツが似合う体型でもあり、顔も整っているので海外の気さくな挨拶の仕方が良く似合うのだろう。
つられて差し出した伊織の右手をしっかりと掴み、固く握手を交わす。
時崎組と一般社会を繋ぐ役割ということは、一般の人達と接することも多いに違いない。見た目は完全に大手のインテリサラリーマンなので、今のようににこやかに話しかけられればまさかヤクザとは思うまい。角の立たない話し方もそうだ。安心できる見た目は、この中では珍しく見える。
再び二人が深く腰を落ち着かせるのを待ってから、春人は話を再開した。
「早速だが、このあと打ち合わせをしたら動いてもらう」
「このあとですか!?」
驚き、伊織は背筋を伸ばして大きな声をあげてしまった。普段あまり大きな声を出してまで動揺することがなかったので、思いもしなかった自分の反応に恥ずかしくなって頬が熱くなる。
三人の視線を受けながら、居心地悪そうに背中を丸めていく伊織にノジマが笑った。面白おかしそうにというよりかは、営業用の笑みを色濃くしたような。そんな中でも春人の伊織に向ける声音はいつもと変わらない。
「嫌なことは早く終わらせた方がいい。長期休みの宿題と一緒だよ」
「重さが宿題のそれと違うのでは……」
「そのつり合わせを取るために彼がいる。その限り、君には絶対に危害を加えさせたりしない」
信頼を置いているのだろうことは言葉の端々から感じ取ることができた。
それはノジマ自身もそうだったようで、ちらりと春人を盗み見るように視線が動き、まんざらでもなさげに腕を組んだり、頬に手を当てたりして照れを隠しているようだ。伊織に向けられていた営業スマイルも鳴りを潜め、何度も小さく頷いている。
スマートな登場とは違い、わかりやすいほど動揺している姿に、こちらもそわそわとしてしまう。
もしかしたら二人は昔からの長い付き合いで、仲もいいのかもしれない。
しかし、真っ直ぐに注がれる春人の視線を受けているのは伊織一人。突然の“宿題”を言い渡されて動揺する伊織の決断をじっと待っている。決まったことを伝えてはいるが、あくまでも伊織の気持ちを大切に動こうという意思が見える。
そうとは言っても、今この場で踏み切ることができるのかと言えば別の話だ。
無意識に指先が落ち着きなく離れたりくっついたりを繰り返し、喉が渇いてきたのに目の前のコップに手を伸ばすことも忘れ、ただ表面を流れる雫を目で追った。
一人ではないが、あの時の二人にまた会うのかと思うと心が揺らぐ。しかも今回は敵地へ自ら乗り込むようなものだ。万が一にも予想だにしていなかった事態になれば、自分の危機だけではなく時崎組にも面倒をかけることになる。それは避けたかった。
ぐるぐると同じ問答が頭の中で回り続け何も言えなくなった伊織に、春人がトンとテーブルを指先で叩いた。
ハッとして顔を上げた伊織と目が合うと、優しく微笑む。
「何も不安に思わなくていい。君はノジマに付いて行けば問題ない。相手方と話をするときは彼が助けてくれる」
言って、自らの胸元に手を当てて
「俺も車に同乗しよう」
その言葉に酷く安心を覚えた。
出会ったときの優しさがしみているのか、彼が一緒にいると心強かった。
固まった首をようやく縦に動かして了承すると、春人も大きく一度頷く。
「ありがとう。そうしたらまず、こいつが君のご友人が作った借金の全額だ」
春人は足元に置いたままだった例のカバンを持ち上げてテーブルの上に乗せた。重い音が鳴り、この中に750万が入っているのかと身震いした。自分では到底一度では用意できない額が提示されて一気に現実味を帯びる。
「実際に奴ら……國刻会 に乗り込むのは網中伊織とノジマの二人。アイツらのことだ、こちらの顔は割れているだろうし、無理に組の名前を伏せずともいい。争いごとは極力避けるように、相手陣地に二人……一般人がいる分、申し訳ないがこちらの分が悪い。だがまあノジマなら一人でも少しはもつだろうし、危険だと判断すれば俺たちも向かう」
「俺たち?」
「そう。運転者はタキに任せて、俺も同乗するから俺たちだ」
名前があがったタキを振り返ると、ぺこりと頭を下げて所在なさげに笑う。彼もこの話を知っていたのだろう。一緒にいたのに話せなかったことを気まずく感じているような笑い方だった。伊織に不安を抱かせる時間を短くするための春人の配慮かもしれないが。
「でも、向かうって言ってもどうやって……」
「問題ない、性能はそこまで良くはないが近くの音を拾ってくれるぐらいの盗聴器はある。それを君かノジマに持たせるようにしよう」
「盗聴器あるんですか」
「職業柄ね」
穏やかに言って笑っているが、その一言で済まされていい代物ではないのでは。とりあえず曖昧に伊織も笑っておく。
話の全体像は出揃ったように感じるが、なにせ伊織のやることはノジマに付いていくということに限る。下手に動けばノジマの、ひいては時崎組の迷惑になりかねない。
更に言えば現場の想像が全くできないことにもある。こんな経験一度だってなく、一度だってしたくもなかったのだから。
静かになった室内で春人が立ち上がり、皆の顔を窺うように見渡しながら
「やることはシンプルだ。金を返して立ち去る、それだけ。何も難しく考えることはない、相手だって好んで面倒を引き起こす奴らじゃない」
「下っ端は統制の取れないバカもいるみたいですが」
「ノジマ」
皮肉を飛ばすノジマを睨み牽制する春人。
彼の目に晒されて、ノジマは肩を少し上げてそっぽを向く。怒られてすねてしまったのだろうか。
春人は小さくため息を吐いて、改めて指示を出す。
「今から三十分後、玄関口に集合。タキは車を出しておいてくれ」
「了解です」
頷いて、部屋を出て行く春人とそれに続いたノジマの為に扉を開けて頭を下げた。
部屋に残されたのは伊織とタキ、そしてテーブルの上にあるジュラルミンケース。テレビで見るような大きなものではないが、それ相応の重みがあるようにも見える。もしかしたら、既定の額よりも多めに入っているのかもしれない。
まさか開いて確かめるわけにもいかず、伊織は震える胸に手を当てて、まだ出入り口に立つタキを見上げた。
「もうクライマックスみたい」
笑えているか自信はないが、何でもない風を装って声を出してみる。
少し眉間にシワを蓄えて、伊織の近くにタキが寄ってくる。冷えた手を両手でそっと握って力強く握りしめた。
「あの二人が付いてるんで、絶対に大丈夫。普段通りの伊織さんで大丈夫だから」
「タキさん……」
ありがとう、と続けるつもりが、いきなり手を離されて「さん付けはダメっすわー!」と気恥ずかしそうに頭をガシガシとかきはじめた大型犬のような姿に、思わず吹き出した。
ともだちにシェアしよう!