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車中で君と
敵の陣地へと赴く戦国の武将たちはこんな気持ちだったのだろうか。車に揺られ、窓の外を眺めながらそんなことを思う。
タキの運転する車で走り始めてしばらくたつ。相手の事務所は少し離れているようで、もう少しかかるようなのだが伊織にとってはありがたい。どれだけ時間がたっても心は整いそうにないのだが。
外の景色は相変わらず高層ビルの群れが流れていく。都心部へと近づいていっているのだけはわかった。閉鎖された空間に向かっているようで気持ちは憂鬱になっていき、昨日のことが走馬灯のように頭を駆ける。空っぽの手が気持ちを更にそわそわと落ち着かせなくさせた。
足元に置いた硬い銀のカバンにコツンと靴が当たり、ふと我に返って大きく息を吸い込んだ。胸が痛い。
彼の挙動がおかしいことに気が付いたようで、隣で足を組んで鎮座していた春人が声を小さくかけてきた。
「怖いね」
低く静かで体に響く。とても落ち着く声だ。
代り映えしないビル街から目を逸らし、春人を見やる。言葉とは裏腹に口元には笑みが浮かんでいて、伊織は下手な笑い方で返すしかできなかった。不安で仕方がない。背中がなんだか気持ちが悪い気になる。
一つも返事をしない伊織に、春人も笑みを引っ込めて窓枠に肘をついて頭を添えた。
「俺もそうだよ」
「え……」
間抜けな声を出してしまった伊織に、春人が再度答える。
「俺も怖い」
嘘だ。と反射的に思った。
自分の住んでいる世界とは違う場所で生きている彼らが、怖いなどと感じることなどないと。そんなことを感じていたら仕事が務まるはずがない。実際に彼らがどんな仕事をしているのかは全くもって知りもしないが、昼間のサラリーマンとはわけが違う。
……だからと言って、今向かっている國刻会のようなことをしているとは思いたくはないが。
疑いの心中が伝わったのか、春人は少し考えるように目を伏せた。
膝に乗せられた指先を、すり合わせて物思いにふける彼は絵になる。
ガタン、と車が小石か何かに乗り上げると、無造作に掻き上げられたようにセットした髪から、短い前髪がはらりと落ちた。助手席からノジマの落ち着いた声で、気を付けるようタキを咎めるのが聞こえた。
ゆっくりと春人の視線が上がり、伊織と目が合う。瞬間、周りの音が消えた。
「恐怖を感じない人間はいないよ」
「…………」
「すぐには信じられないっすよねー」
場にそぐわない朗らかな声がした。タキだ。暗く、凝り固まった空気に耐えられなかったのだろう。話に割り込んだ彼を怒るようにノジマが手の甲で彼の肩を叩き、後ろを振り返らないように春人には謝罪の言葉を零した。タキは不服そうに頬を膨らませたが、兄貴分に続いて同じように謝る。
春人は気にした様子もなく、ひらりと手を上げて二人に応えた。
「何も言いはしないが、きっと二人もそうだ。これから何が起こるかなんて誰もわからないから、怖くて当然なんだ。敵陣に実際に乗り込む君とノジマが一番恐怖心を抱いているかもしれないね」
名前を呼ばれたノジマが腕を組む。会話には混ざりたくないようだ。窓の方へ顔を向けているため横顔すらも見えないが、あまりいい顔をしているようではない。彼も怖いと思うことがあるのだろうか。
伊織は深く座り込んでいた背を正して、ぎゅっと両手を握り締めた。
「俺は、自分が傷つくのが怖い」
ぼそりと呟いた伊織に春人が当たり前だというように頷く。
「昨日で死んでいたかもしれないのに生きていて、しかも助けてくれようとしている人たちがいる。自分から死んでしまおうかなと思ってしまっていたのに、今は死ぬのが怖いんです。それに……俺を助けてくれる人たちが傷つくかもしれないことが怖い」
気だるげに体を預けていた春人が、驚いたように目を見開いて伊織を見つめる。バックミラー越しにノジマも同じような表情で後方を窺っているようだ。運転席からは嬉しそうな笑い声がした。
みんなに注目されて、彼らを心配するなんてことをしてしまったのは場違いだったのだろうかと少しばかり焦った。が、続くタキの言葉がそれを否定した。
「心配してくれる人がいるって、嬉しいっすね」
「お前は黙っとけ」
「またまたー、ノジマさんは照れ屋さんだから。俺が代わりに言ってあげますよ」
「黙っとけ」
今度はタキの肩にグーパンチが飛んだ。運転中だからやめてくださいよ、とニヤニヤしたままタキが抵抗する。組の中で上下の差はあれど、やはりどの人たちも距離が近く仲が良いようだ。
やいやいと二人が騒ぐ中、春人はやっと普段の笑みを見せた。
「まさかそんな風に思ってくれていたとはね……」
「いえ……一般人の奴が何を言ってるんだと思うかもしれませんけど。でも本当なんです」
「ありがとう、そう言ってもらえるだけでも嬉しいよ。だけど、一番は君が無事に帰ってくることだから。ノジマの傍を離れないように」
組の事よりも自分のことを最優先に考えろというように言われているようだった。
それもそうかと、伊織はうなずく。
「俺が一番弱いですもんね。一番怖がってると思うし……」
俯いて、気恥ずかしくて笑う。一丁前のことを言ってしまったが、自分の感じている恐怖と彼らの感じているものとが同じとは限らない。むしろ同じなわけがない。タキと話していると、学友といるようで気兼ねなくいられたので勘違いをしてしまっているのだ。
ゆっくりとカーブを曲がり始めた車が傾き、春人の体が近づく。体は触れないが、服の擦れ合う音が聞こえた気がする。
それを避けるように伊織が座りなおすと、春人の手が視界の端に映った。
手の平を上にして、きつく結ばれたままの伊織の拳の横に添えられている。無理やり春人の方から触れようとはせず、相手の反応を待っているように宙に浮いたままだ。
手から腕を通り、肩を過ぎて春人の顔へと目を移す。鋭い目だったが、目尻の垂れた柔らかなものにも見えた。
なぜか視線が逸らせない。
いや、逸らしたくなかったのかもしれない。
前の二人の声を掻い潜って、春人の声が鮮明に耳に届く。
「君が傷つくことが俺は怖い。きっと、君が思う以上に」
悲しい声。なぜ、と思ったが、柊一郎への体裁があるのかもしれない。
そうだとしても、彼が自分を思っていてくれることが伊織は嬉しかった。
差し出された手は、まだ伊織の拳の横にある。強張っていた拳を解くと手の平がしっとりと汗ばんでいるのがわかった。
そのまま差し出すわけにはいかないが、ズボンも借りものなので拭うにもできずに固まっていると、催促するように春人の手が指先に触れる。困惑の表情を浮かべてあれこれ問答していたが、意を決して彼の手に自分の手をそっと乗せた。
大きな手の平が、ゆっくりと自分の手を握り返してくる。汗のかいた肌がぴったりと吸い付き、申し訳なさと恥ずかしさで更に発汗してしまいそうになるが、春人自身はそんなことは全く気にも留めてないようで伊織の手の甲を指先で撫でた。
少しくすぐったく、気持ちがいい。
あまり高くない彼の体温が心地よく感じられ、高ぶっていた気持ちも落ち着いてくる。
相変わらず不安と恐怖は消えずに居残り続けてはいるが、とりあえずはそれでよかった。
車のスピードが落ちていく。
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