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いざ直接対決

 多くのビルが乱立する中をしばらく徒歩で移動し、大通りから少し外れて路地へと進むと一気に静けさが増した気がした。前を行くノジマに遅れをとらぬようついて行くだけで気持ちは精一杯だ。人の通りも目立たなくなってしまった一角で、不意に歩みが止まる。 「ここだ」  言われて、喉元に閊えていた空気がごろりと胸の中へ落ちていく。  見上げたビルは大きくはないが周りに劣らず綺麗であり、ここにヤクザがいるなどと言われても信じられない。一階部分は全てが駐車スペースになっており、外国車は一台きりで、あとは国産車であるのも理由のひとつ。思い返すと、時崎組でも国産車が多く目立っており、思っていた車種とは違うなと感じていたのを覚えている。それが安心感をもたらしてくれていたのだと思ったが、今はその光景を見てもこれから向かう場所が安全だとは到底考えられなかった。  小刻みに揺れる手には、重いジュラルミンケース。いつの間にか落ちていた視線を上げて、伊織は小さく頷いた。  彼のその動作を確認し、ノジマも無言のまま頷きビルの玄関口へと入っていった。  狭い階段を上ったところに重そうな扉が一枚。ノジマがためらいもなく一気に開け 「失礼致します」  礼儀正しい挨拶は見た目通りといったところではあるが、部屋の中にいた若い者たちは気に入らなかったようだった。皆、一様に眉間にシワを寄せてすごんでみせる。数人は値踏みするように頭からつま先までをじっとりと眺め、他の数人は二人の姿を確認すると奥の部屋へと引っ込んでいく。  その中に、見覚えのある男がいた。髪を後ろにひっつめ、尻尾のように髪を束ねていた。  誰かを確認できた瞬間、伊織は息を飲んでノジマの後ろに隠れようと必死になる。  だが、その動きを目ざとく見つけた尻尾頭は喜々とした表情で二人に近づいてきた。 「あれ? 見たことあると思ったらこの間の。何? もう金持ってきた?」  ニヤニヤと嫌らしく笑みを浮かべ、ジュラルミンケースと伊織と視線を行き来させる。  前に立つノジマが、伊織と彼との間に壁を張るように立ち位置を変えた。見る間に尻尾頭の雲行きが怪しくなりはじめ、機嫌が良さそうだった口元を歪めてノジマに突っかかりだす。 「どこの誰だよ、お前。弁護士?」 「これは、名乗りもせずに失礼。私、時崎組のノジマと言います。本日は彼、網中伊織の借金の返済に伺わせてもらいました」 「へぇ、時崎組が……」  同業者と聞き、男の追求が止まった。  恐れて、というわけではないのは見てわかる。好奇心と疑問、少しの侮蔑が入っているような気さえした。だが、それ以上距離を縮めようとはしてこない。下っ端である彼自身が動ける範囲ではなくなったということか。  周囲で様子を見ていた者たちも同じように視線を動かすだけ。  沈黙が流れるかと思いきや、奥にある階段から聞き覚えのある声と一緒に、小綺麗なスーツが見えた。 「これはまた、時崎の方がこんな場所までご足労頂くとは」  濃紺の細身のスーツに薄青色のシャツを羽織った姿は前回と全く逆をいくスタイルだが、メガネをかけた顔だけは忘れられない。色はないものの、笑顔を湛えた柔和そうなその男の声と顔に口の中が引き攣れた痛みを思い出した。  男は入口付近にある応接用のソファーを指し示し、座るよう促す。  伊織は戸惑ってノジマを見やるが、彼は会釈を返して伊織の背中をそっと押すようにしてソファーへと導く。なされるがまま席につき、膝の上にアタッシュケースを抱えて落ち着かなくメガネを見返した。  依然として微笑みは絶やさず、尻尾頭の男にお茶を用意するように指示を出して、自分もソファーへゆっくりと腰を落ち着けると、あの時と同じように柔らかく話し始めた。 「その節はお世話になりました。紹介が遅れましたが、カンダといいます」  思ってもいないことをさらりと口にして一礼する。この男の恫喝の恐ろしさを知っているが為に、返事をすることができなかった。  知ってか知らずか、構わずにカンダと名乗る男は繋いでいく。 「網中さんは時崎組とお知り合いだったんですか」 「え……その……」 「時崎柊一郎と懇意にしています」  口が回らない伊織を押しのけるようにノジマが答える。  あっさりとした答えだったが、カンダは「へぇ……」と頷いただけだった。ノジマも深くを答えるつもりはないようで、早速というように伊織の持っているジュラルミンケースを視線で示し、皮肉を込めて改めて口を開く。 「先ほど出迎えの方にもお伝えしましたが、ここに借金返済用に用意した資金があります。お時間があるなら確認をして頂いても結構です。……網中さん、それを」 「え……あっ、はい」  名前を呼ばれ、慌てて絶対に離さないようにとしっかり抱きしめていたジュラルミンケースをテーブルの上にそっと置いた。  冷えた目で一連の動きを見ていたカンダだったが、お茶を持ってきた尻尾頭に声をかけ、ケースを持っていくように促した。  伊織に対していた時には考えられないほど従順にカンダの意向に沿って動く彼を、信じられない思いで見つめてしまう。かといって、また難癖つけられては敵わないので、すぐに前に向き直るが、こちらもこちらで心休まることはない。  グラスに注がれた濃い茶色の液体が、パキパキと氷にヒビを入れていく。涼し気な音とは裏腹に、伊織の体はじっとりと汗に濡れてきていた。  カンダが一口お茶に口をつけ、申し訳なさそうに眉を下げた。 「時崎組を疑っているわけではないですけどね。一応確認だけさせるので、しばらくお時間もらいますよ。暑かったでしょうから、遠慮せずどうぞ」 「ありがとうございます」  一度も表情を崩さずノジマは感謝の意だけ伝え、実際には手をつけなかった。まさか毒でも入っているわけではあるまいが、伊織も彼に倣っておくことにした。飲むにしたところで、手の震えでいつグラスを落とすかわからない。不用心に動くことは躊躇われた。 「そうそう」  思い出した、とでも言って手を打ちそうなくらい軽い声音に、伊織は肩を強張らせた。 「まさか網中さんが我々同業者と関係があったとは知らなかったもので驚きました。しかも、それが時崎の頭の柊一郎氏とは……世間は本当に狭いものだ」 「そう、ですか……」 「ええ。で、どちらでお知り合いに?」 「彼のプライベートに踏み込むのはご遠慮願えませんか」  話の間に入って、有無を言わさない強い口調でカンダの追求を抑え込んだのはノジマだ。おもむろに足を組み、膝に組んだ両手を重ねて目を細める。 「國刻の方には一般の人間だとしても、時崎の客人になりますので。無用な詮索は控えてもらいたい」 「無用ではないんだけどねぇ……。一応金を貸している側なんだし」 「今日はその全額を持参しています。その借金も網中さん本人が借りた金じゃない、ご友人のものです」  言葉なく、そうですよねと念を押すような問いかけがされている。  楽し気にカンダは笑い、「ノジマさんはいつも真面目なんだ」と伊織に向けて言う。何がおかしいのかさっぱりわからない。自分の周りにいる人種とはかけ離れすぎている。  のらりくらりと言葉をかわそうとするカンダにノジマも苛立ちを隠そうとはしていない。外に仲間が控えているとはいえ、単身、敵地へお荷物である伊織と一緒だというのに落ち着いたものだ。お荷物の方がひやひやしている。  ノジマが怖いと思っているなどとはやはり思えず、春人の意見を疑いたくなった。  難しい顔をして黙り込んだ伊織を勘違いしたのか、カンダは猫なで声で話を続ける。 「ほら、網中さんも怖い顔をしている。彼とは契約を交わした者同士なんだ、大切な友人含めてね。一度できた縁は大切にしたいもの」 「一方的な縁は迷惑にもなりかねない。國刻会は、その大切な友人を今はどこへやったのでしょうかね」  鋭く言い放ったノジマの言葉に伊織は拳を強く握りしめた。  小さな携帯の画面で見せられた友人の面影のない顔がフラッシュバックする。血を流し、顔が赤黒く腫れ上がって醜く歪んだ目元から流れていた涙と、潰れたような声で必死に殺さないよう懇願する姿を一生忘れることはできない。気分が悪くなり、口元を片手で覆う。  様子を窺うようなノジマの視線が注がれていることに気が付いたが、これ以上お荷物になっては堪らないと怖々カンダへ目を向けた。  静かに、口角を引き上げたままソファーに深く座り込んでいるカンダ。  疑問にも似たノジマの言には何も返すことはないと言いたげだ。それが、どういうことなのかは伊織にもわかった。信じられる信じられないに関わらず、彼の物言わぬ微笑みの意味はわかってしまった。すっと背筋が冷えるのと同じく、腹の底で爆発するような熱い何かを感じたが、バタバタと足音高く奥の部屋からやってきた尻尾頭の声に遮られてしまう。 「カンダさん、確かに全部」 「わかった」  それだけ言うとソファーから立ち上がり、伊織とノジマに向かって幾分も軽くなったジュラルミンケースを寄こす。 「清算ありがとうございました。金額は確かに全額頂きました。ま、時崎組の方がまさか偽札を掴ませることはしないとわかってはいますが、そちらは時間がかかるので」 「わかりました。そのケースは持っていかれても構いませんよ、ウチよりもお使いになるでしょう」 「いやだなぁノジマさん、俺たちは中身にしか用がないんですよ。それに、使いまわせるものじゃないでしょう。お返しします」 「随分と用心深くなったものですね」 「さすがに、歳を重ねてきたもので」  上辺だけを滑る応酬は酷く心が重く、伊織は奪うようにジュラルミンケースを掴んでノジマの隣に付いて出入口へと歩を早める。重い扉を開く微々たる合間も早くこの場を去りたい気持ちで胸がいっぱいだった。外階段が見えたあたりでほっと息をつき、ノジマに促されて先に外へと飛び出す。  ノジマが扉をくぐり一歩踏み出した際、カンダのまとわりつく声が追いかけてくる。 「時崎の若様にもよろしく伝えてくださいよ」 「……っ!」  ポーカーフェイスを貫いてきたノジマの眉が吊り上がり、今にも臨戦態勢を取らんばかりに殺気立った後ろで、ゆっくりと扉が閉まっていく。その隙間から見えたカンダの笑顔。バイバイと軽く手でも振ってきそうな彼に、伊織は強く嫌悪を感じていた。  だが、それ以上にノジマが憤っているのに驚く。  若様とは、もしかしなくとも若頭の春人のことだろう。時崎組の皆が春人をよく思っていることは知っているし、敬意を抱いていることも知っている。実際に、伊織自身もこの短い間ではあるが春人の人となりに安堵をもって接せられた。その彼が引き合いに持ち出され、嫌味のように使われたことに怒りを感じているのだろうか。  階段を前にしたまま立ち尽くすノジマに、伊織はそっと声をかけてみた。 「……ノジマさん?」  ハッとしたように背中が震え、ノジマは伊織の肩を叩き 「よく頑張った。とりあえず、早く戻ろう」  強張った表情はいつの間にか消え、普段の彼が覗く。  盗聴器の向こうの春人たちにわかるように現状を一言二言残し、予定通りビルから離れた場所で落ち合うよう進むことを伊織にも告げる。  一分、一秒もここには留まりたくはない。  伊織は来るときと同じように、後れを取らぬようノジマの後をしっかりとついて行くことに、今は集中することにした。早く、安心できる場所へ帰るために。

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