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今後の方針
合流場所にはすでに車が待っていた。見慣れた黒のボディーに安心感を覚え、伊織は抱くように持っていたジュラルミンケースを片手に提げた。ガチガチに固まっていた肩のせいで軽いケースもとても重く感じる。
ノジマは伊織よりも先に車へ寄り、後部座席の扉を開ける。伊織がシートに収まったのを確認すると、自分も急いで助手席に乗り込みタキへ車を出すように指示を出した。滑るように車が発進し始めると、ノジマは硬い表情で少し後ろを振り返って伊織からジュラルミンケースを受け取る。
すぐに中身を空け、緩衝材部分を手で押したり何やら小型の機械で何かの反応を調べたりした後、元通りにしっかりと閉めなおして改めて春人へと向き直ると謝罪を口にした。
「申し訳ありません。我々が若と通信をしているとはアイツらも知らなかったとは思いますが……」
「いい、気にしていない」
ノジマの続く言葉を制すように、春人は厳しい口調で止めさせた。
それでも、ノジマは苦々しく顔を歪めて前を向いた。隣で運転しているタキの表情も心なしか硬く、空気が張り詰めている気がする。
伊織の仕事自体は上手くいったに違いない。先ほどノジマからもお褒めの言葉を貰っている。失敗しているようにも思えないし、大きな緊急事態も起こっていない。
気になったといえば、最後のカンダに投げかけられた言葉。あの後のノジマの動きが奇妙な雰囲気だったことは間違いない。伊織にもわかったくらいだ、カンダも気が付いたことだろう。扉が閉まる間に見えた楽しそうな奴の笑顔が頭に残っている。
どういった意味なのかは伊織には全くわからない。
しかし、今回の件で時崎組と繋がりができたからといって部外者なことに変わりはなく、自ら首を突っ込んでいくのは気が引けた。聞けたとしても、教えてもらえるとも思ってはいない。
とにかく、この不穏な空気の中ひっそり息をひそめているしかできないのだ。
それからしばらく無言のまま車の走行音のみが響いていたが、不意に春人が伊織へ話しかけた。
「無事に終わってよかったよ」
どうしたらいいか困っていたところを察してくれたのか、車内の重苦しい空気を改善させるように優しく静かな声だった。
思わずほっとして、大きく頷く。
「ありがとうございました。本当に……お礼しか言えないのが申し訳ないです」
「君はうちの組の人間を、しかも頭を助けてくれた。それにはこれだけのお返しでは足りないくらいだと俺は思うよ。何度礼を言っても足りない」
「そう言われると、こっちは何も言えなくなってしまうんですけど……」
「そのつもりだったからね」
そう言って微笑む春人には頭が上がらないなと思う。
大きなお金を出費させてしまったという負い目は、一般人の側からすればとんでもない罪悪感にかられる。そしてそれが出会って間もない人からならなおさらだ。それをわかってくれて、引きずらないようにと慮ってくれる春人の配慮が嬉しい。優しさが心地よかった。
だからといって、はいそうですかと終われないのもあるにはあるが。
そうは思うが、体の中で渦巻いていた気持ちの悪い澱からは少しずつ脱却できそうである。えずきつつ泣きそうになりながらおろおろと部屋の中を動いていた自分を思い出して、もうあの気持ちは一生味わいたくないものだと深く感じ入った。同時に、人が信じられなくなりそうで怖くもあるが……。
友人の顔を思い浮かべる。あの崩れた表情ではない。普段、大学で見ていた屈託のない笑顔だ。
特別の友人関係というわけではなかったものの、他と比べて仲は深いと思っていた。休日でも待ち合わせをして遊びに行くこともあったし、お互いの家で勉強会と称しておしゃべりに講じたこともあった。受け持つ授業が同じであれば、複数人と固まって一緒に席を取り、教授が来るまで持ち寄ったお菓子を食べたりしたものだ。
それももうないのだと思うと寂しい。
自分は運よく生き延びることができた。裏切られた気持ちになってはいるが、もう責めることができる相手もいない。またここから変わらない日常に戻るだけだ。
……ふと再び不安が首をもたげ始めた。
借金はなくなった。しかし、國刻会の者には自分の家や大学なんかは知られてしまっている。更には、やり方は知らないが実家でさえも知られてしまう可能性もあるだろう。もしハッタリでなければ一人でいる間は心休まる時間がないように思える。
引っ越しをすればいいのだろうか。それで自分が逃げおおせたとして、家族に矛先が向かったりはしないのだろうか。
ぞわりと背中が泡立ち、そっと春人を見上げた。
縋りつくような視線の先にいた彼は、真剣な表情のまま言葉を促すように「何か言いたいことがあるなら聞くよ」と先ほどと変わらぬ、柔らかな声で言う。
「俺、ひとりでいても大丈夫なんでしょうか……」
涙が滲むような情けない声が出た。
一瞬、驚いたように眉を上げた春人がはたと思い出したような顔になる。
「ああ、すまない。伝えていなかったからね。君の身柄はしばらく時崎組が擁護させてもらおうと思う」
「……は、い?」
とりあえず頷くが理解はまだできていない。
「借金の返済が終わったっとて、國刻が今後君に関わらないかはわからない。むしろ、時崎との繋がりを確認した彼らが面白がらないわけがないと言った方がいいかもしれない。今は法律が怖い時代だからね、普通なら大きくは動かないだろうが國刻はわからない。そういった人間が多いから」
確かそんなことを柊一郎も言っていた気がすると伊織は頷く。
借金がなくなったからといって、裏の世界の人と関わりを持ってしまった以上、解放されることは容易ではないのだろうことは薄々感じていた。
「期限は確約できないが、しばらくは時崎に身を置いてもらいたい。入り用の物があればこれから君の家に向かわせてもいいし、後日でも構わない。一旦組へ帰ってから説明をしようかと思っていたが、不安にさせてしまったようだね。申し訳ない」
「いえ、俺は……こういったことは初めてなので……」
「初めてじゃなかったらこっちも怖いっすよね」
運転席から笑い交じりにタキが答えた。
確かに、と伊織も自分の言ったことに思わず苦笑する。少しばかり空気が柔らかくなった。
助手席のノジマが唐突なタキの発言を、名前を呼んで注意する。しかし春人が気にしていないことを当人たちもわかっているようで、タキは間延びした声で「すみませんでしたー」ととりあえず頭を下げた。
先程より幾分も話しやすくなった中で、伊織は頷く。
「正直怖いですけど、でも今の春人さんが言ってくれたことで、少し怖さもなくなりました」
「それならよかった」
笑う春人に、でもと言葉を続ける。
「これ以上みんなに迷惑をかけるのは申し訳なくて……。俺を匿うとなったらそれ相応の時間も労力もかかるし、仕事の邪魔になったらと思うとちょっと……」
「そう言うとは思ったけどね。君の命がかかってくる事態にもなりかねないんだ。目の届くところ、ひいては守れる範囲にいてほしいとこちらは思っている。その方が時間も労力も少なくなる。人員を割くことはあるけれど、そのせいで仕事が滞るわけでもない。うちは少数精鋭だからね」
軽く片目を瞑ってみせる春人。スマートな対応にドキリと胸が弾む。外国人のような仕草でも様になっているのがずるいと思う。とても良く似合うのだ。
固まったままの伊織がまだ困っていると感じたのか、ノジマやタキにも同意を求め始めてた。二人とも彼の意見に賛同しながらも、ちゃっかりと少数精鋭と言われたことを持ち上げて喜んでいるようだった。直接言われることなどあまりないのだろうことがわかる。タキはニコニコと嬉しそうにしながら、あのノジマでさえも腕を組みつつそわそわしていて微笑ましい。
話が脱線してきているのに気が付いたが、面白いのでそのまま聞いていることにした。まるでひとつの家族のような彼らのなんてことない話が、距離が近いものに感じて落ち着くこともある。血の繋がりがないというのに居心地がいい。楽しいとさえ思えてしまう。
口元を押さえて笑うのを堪えていると、部下たちの抑えがきかなくなり呆れたように溜め息をついた春人が、苦笑しながら足を組んだ。
「申し訳ないね。一度火が付くと止められないんだ」
「知ってます。以前、柊一郎さんから少し聞いていたので」
公園で話した時のことを思い出す。
みんなで映画を見るくらい仲も良く、その話で盛り上がれる人たち。頭である柊一郎を交えても話を続けてしまうくらいだ、ちょっとやそっとでは切り上げるのは難しいだろう。
「楽しくて、聞いていると笑っちゃいそうで」
「ならよかった」
「……気を使ってもらって、ありがとうございます」
「当たり前のことをするだけだよ。さっきの話も考えてもらって構わないが、俺としては近くにいてほしいと考えている。言い方は悪いがコストがかからないのでね」
「食費や公共料金なんかはかかります」
口を尖らせて言えば、呆気にとられたように春人は笑った。
「まさか、そこまで気にしているなんてね。舎弟が一人増えたと思えばなんてことない。君が気にするような大きなことではないよ」
「あ、あまり慣れてないんです! 人の家で長くお世話になることなんて、なかったし……」
頬が熱くなるのが自分でもわかる。きっと今、頬は赤く染まっているに違いないと思うと、余計に意識が向いてしまう。
ふい、と春人から視線を外して膝の上に載せたままの両手を眺める。
視界の端に自分のものより少し大きな手が写り、そのまま下から掬って指先を柔らかく包む。
弾かれたように頭を上げると、春人が覗き込むようにして首を傾げていた。
気恥ずかしく、視線をどこへやったらいいのかわからない。
「今すぐ答えを出さなくともいい。とりあえず組に帰って一息つこうか。その後、昼を食べながらでもいいし、ゆっくり話そう」
文字通り、彼の話す速度もゆっくりとしていて落ち着いた。
とりあえずは、大きな仕事が一つ終わったのだという達成感と安堵を感じる事にしようと伊織も深くシートに埋まった。
雑談と変わった前の二人の声を聞き流しながら、指先に感じる春人のぬくもりを、そっと握り締めた。
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