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第1話

 新しいチェストは二階の寝室に置くことになっていた。  配送は明日の午前を予定していたが、現在、その予定スペースには大型の古い箪笥が鎮座している。 「自分の眼で見つけた、しっかりした家具を置くと、自分の家だって実感できるんだって」  先週の日曜、一緒に住んでいる若い恋人に連れられて、(いずみ)はインテリアショップを訪れた。  二人の同居が正式に始まったのは、十日前のことだ。その記念になるような家具がいいのだと云ってあれこれ見て回る中、最終的に恋人が心を決めたのが、シンプルなホワイトオークのローチェストだった。恋人はどうしても、このチェストを二人の寝室に置きたいのだと云って譲らない。  新しい家具に恋人が満足気なのは泉も嬉しかったが、それと大型家具の処分は別だ。古い箪笥をリサイクルに回すべきか、粗大ごみに出すべきか、それを考えるだけでも気が重く、判断しかねたままずるずると配送前日の今日まできてしまった。  そこでとりあえず、問題の箪笥を空きのある隣室へ移動しておくことに決めた。移動の前に五段ある抽斗(ひきだし)を一本ずつ抜き取って床へ下ろしていると、仕事へ出ていた恋人が帰って来た。 「ただいま。重いー。帰りに小田急で惣菜とケーキ買って来ちゃった。あとワイン」 「えっ、どうしたの?君がデパ地下寄るなんて珍しい」 「正式に同居が始まりました記念。ちゃんと祝っておきたくってさあ。それ、泉さん好きなやつでしょ?」  恋人は得意げに泉に手渡したワインを指差して確認してくる。 「ありがと。でもあと一週間もすればクリスマスなんだから、その時祝っても良かったのに」 「えーそれはそれ、これはこれだよ」  今夜は一段と冷える見込みで、しかも夕方から深夜にかけては冷たい冬の雨が降るという予報が入っていた。恋人は今朝、傘を持たずに出勤して行ったので泉は少し心配していたところだったのだ。  泉が古い箪笥の整理に取りかかっている最中だと云うと、恋人は惣菜等を冷蔵庫へ入れたら手伝うと申し出てくれた。 「この際だから、要らないものは捨てた方がいいよ。このセーターとか、着てるとこ見たことないけど」  床に置かれた抽斗の中を検めながら恋人は云った。確かに、今では身に着けていない服や装飾品類がかなりスペースをとっている。新しいチェストには恋人の荷物も収納しなければならないのだ。 「そうだね。じゃあ少し断捨離しようかな」  恋人は一番上の抽斗に入っていた雑貨類の整理に取りかかってくれたので、泉は衣類を精査することにした。 「ねえ、香水の試供品がまとまって出てきたけど、これどうする?」 「ああ、もう年数経ってるもの多いし、捨ててくれる?」 「はあい。……あれっ、これ、何か変わった形の瓶だね。かっこいい」  それは思いがけない過去との再会だった。 「へえ、ニナ・リッチ?ええと、プレミエ、アール……だめだ、読めない」  その後で恋人に差し出された薄い水色の香水瓶を認めると、泉は微笑んで、 「そう。そんなの残ってたんだ。抽斗の奥にあった?」  と、手にしていた衣類を畳みながら何気なく応じた。  何気なく。そのつもりだった。  けれど恋人は、その短いやりとりの中に敏感に何かを感じ取って、手にしていた香水瓶を窓辺の(ふち)へ注意深く置いた。 「ごめん、先刻(さっき)買って来た惣菜、階下(した)に行ってちょっとつまんで来てもいい?やっぱり小腹空いちゃった」 「はいはい」  恋人が部屋を出て行ってから、窓辺に置かれた香水瓶のひっそりとした気配に、泉の心は刻々と支配されていった。まるで過去の亡霊が徐々に姿を現していくようだった。  プルミエ・ジュール。瓶の下の方には白い文字でそう印字されている。  フランス語で『最初の日』という意味らしい。  プルミエ・ジュールの香水は女性らしい桜色のものと、夏限定で発売された涼しげな水色のものがあり、泉が持っているのは水色の方だ。  失くしたと思っていたのに、いつこんなところへしまい込んだのだろう。  若い恋人は、出会った頃より人間の機微にずっと聡くなった。泉が持つ密かな闇を知っているのは、今愛しているあの恋人だけだ。そして泉自身もまた、彼の中に沈む闇を知っている。  窓の外で、ぱらぱらという軽い音がし始めた。降り始めたな、と泉は思う。薄いカーテンを開けずとも、ベランダの手すりに大粒の雨が打ちつけられているのが分かる。香水瓶の向こうの窓硝子の外側も、雨に濡れ始めている。  瓶の中身はもうほとんど残っていないが、蓋を開ければきっとまだ香ると思う。けれどあの匂いを思い出せば、たちまち自分が過去の亡霊に取り込まれてしまうことを泉は分かっている。  そう云えば、あの日も雨だったなと泉はふいに思い出した。  もしかしたら、あの男の魂が雨音と香水の芳香を借りて、恋人と新たな一歩を踏み出そうとしている自分に何か伝えに来たのかも知れない。  彼の名前を記したものを、彼の姿を映したものを、泉は何一つ持っていない。あの男の顔も、その存在すらも、意識の裏側に潜像としてひた隠し、この数年間、浮かび上がらせることはなかった。  物寂しげに過去を見るなというワーズワースの言葉を頭の中で反芻しながら、泉は香水瓶を捨てようと意を決してそれを手に取った。  だが直前になって、これが最後だ、という囁きがどこからか聞こえてきた。容易くその誘惑に負けた泉の右手が、香水瓶の蓋を外してしまった。  匂いを嗅いだ直後、真っ先に泉の眼に浮かんだのは、冬の芦ノ湖の景色だ。それからかつて、この家の一階を照らしていた、淡いオレンジ色の間接照明の光。  直後に気が遠くなるほどの懐かしさがこみ上げてきて、呼吸ができなくなった。失った記憶の断片だけで、泉の胸は軽く押し潰されそうになった。  いつも霧雨を纏っているような男に、かつて泉は出会ったことがある。  いつもあの男の体からは、泣きたくなるような憂愁の甘い香りがした。抱きしめても愛を囁いても過去を慰めても、水面を隔てて互いに微笑み合うのが精一杯で、水底に沈んだあの男の魂に触れることは叶わなかった。そして次の瞬間には抱いている指の間から流れ出てしまう水そのもののような男だった。

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