2 / 60

第2話

 泉が結城(ゆうき)と出会ったのは、数年前の年の瀬のことだ。  その時、泉は四十歳で、セキュリティ機器の設置やメンテナンスを請け負う会社に勤めていた。当時は採用人事や作業員たちのスケジュール管理などが主な仕事だったが、現場経験があったため、人手が足りない時や緊急時には客先へ駆けつけることもよくあった。  結城が勤めていた小さな印刷会社に泉が足を運ぶことになったのも、そんな理由からだった。  十二月も残り何日かというその日、泉は現場の作業員からトラブルの連絡を受けた。三件予定していた作業現場のうち、一件目で予期していなかった機器のエラーがあり、その対応にとんでもなく時間がかかってしまっているので、このままでは二件目、三件目へ到着する時間が大幅にずれ込んでしまうということだった。 「移動距離や点検台数を考えると、ちょっと今日は三件回るのぎりぎりだなあって朝から思ってたんですけど」  若い作業員の半分笑いながらのぼやきは、スケジュール管理をしている自分への当てこすりだと気づいたが、泉は気づかないふりをした。 「そうだよねえ。でも年末は毎年忙しくなるものだから仕方ないね。とりあえず、二件目には遅れる旨をこっちから連絡しておくから。三件目はメンテナンス台数が少ないから、僕が行くよ」  泉が向かうことになったその現場は社用車で片道三十分の道程だった。  そこは古いオフィスビルの中にある小さな印刷会社だった。  受付がなかったので、泉は通りかかった男性社員に声をかけ、セキュリティ機器の点検に来たのだと挨拶をした。  声をかけた瞬間、男はびくりとして顔を上げたが、話を聞くと面倒ごとを避けるかのように視線を逸らし、 「分かりました。どうぞ作業に入って頂いて結構です」  と、愛想のない声で返答してその場を立ち去ってしまった。眼鏡をかけた、見るからに冴えない雰囲気の男だった。  仕方なく泉は別の社員を捕まえて、点検場所を確認し、作業に取りかかった。  点検の最中、泉は最初に声をかけた眼鏡の男性社員と、再び眼が合った。男は部屋の片隅に置かれた印刷機の前で書類が排出されるのを待ちながら、時折泉の方を見ていて、泉も少し前からその気配には気づいていた。  無表情さと銀縁の眼鏡の所為で、初めは硬質な印象を抱いたが、二度目にその顔を見た時、泉は彼に不思議な引力を感じた。レンズの奥から放たれる、そのどこか物云いたげな光に、泉の意識は絡めとられた。それほど近い距離にいるわけではないのに、男の虹彩が黒曜石の光を帯びているのが、泉にははっきりと見える。ふと、懐かしい人に出会ったような気がした。  三秒ほど見つめ合っただろうか。  別の社員がすぐ前を通ったタイミングで、男はぱっと顔を背けた。そして何事もなかったようにでき上がった印刷物を整えて、奥の別室へと姿を消した。扉を閉める直前、もう一度こちらを見るだろうかと泉は期待したが、男は書類の方へ視線を落としたままだった。泉は何故だか、軽く胸が締めつけられる感覚を覚えた。  ふいに手許の工具が眼に入り、我に返った泉は、理性を取り戻して小さく自嘲の溜息を吐いた。  しばらくは一人で静かな時間を過ごすつもりでいたのに、もうこれだ。  ここ三か月ほど親しくしていた男と、別れて二週間経つ。  年齢の割に落ち着きのない性分に、自分でも呆れてしまう。    別れたセックスフレンドは深月(みづき)という三十二歳の男で、製薬会社で働くエリートだった。彼は職場に婚約者がいた。彼女との仲はとてもうまくいっていて、来年か再来年の初旬には入籍をし、結婚式を挙げるという話になっていた。だからこそ遊びだと弁えた上で付き合っていたはずなのに、ある日突然、その婚約者と別れると深月は云い出したものだから泉は焦った。 「一体何を云ってるの?」 「俺が彼女と別れたら、ちゃんと付き合ってくれるんですよね?」  もちろん、泉はそんな約束は交わしていない。  聞けば深月は泉と映画に出かけた先週末、婚約者との式場見学の予約をドタキャンし、以降、彼女からの連絡には一切応答していないという。スピーカーモードで聞かされた深月の留守番電話には、 『ここのところ、一緒にいても上の空でいることが多かったし、セックスも断られたりすることが多いからおかしいとは思っていた。浮気をしてるなら絶対に許さない』  と、激怒し、泣き喚く女の声が入っていた。 「それで、僕にどうしろって云うわけ?」 「責任とって下さいよ。俺は泉さんと出会う前はずっとストレートで生きてきたんだから。こんなことになったのはあなたの所為でもあるんだよ」  やれやれと泉は思った。結婚前にちょっと冒険してみたいだの、後学のために色々教えて欲しいだのと云って、誘いをかけてきたのはこの男の方である。  深月は泉がこれまで交際してきた男たちの中でも群を抜いて美形だった。純粋な日本人だと云うが、二十代前半の頃のギャスパー・ウリエルを彷彿とさせる容貌で、本人もそれを意識しているのかブルードゥシャネルの香水を常に身に纏っていた。高学歴で女性経験も豊富、仕事も私生活もうまくやっているという自信があり、それ故に度々、プライドの高さを感じさせる言動が目立った。  泉の旧友の白石(しらいし)という男が営む店で初めて出会った時も、深月はそう簡単にはなびかないといった雰囲気を全身から醸し出していた。泉は深月の存在に気づいていたし、白石が深月に声をかけているのも知っていたが、特別関心を示そうとは思わなかった。翌週、二人はもう一度同じ店のカウンターで顔を合わせた。その日は白石を交えて初めて言葉を交わした。自分の価値の高さを会話の端々にほのめかしてくる深月に対し、泉はあくまでビジネスライクな笑顔を貫き、一段落するとタクシーを呼んで、彼より先に店を後にした。三度目に会ったのは、その三日後だった。またしても先に店を出ようとする泉に対し、 「今日も一人で帰るんですか?」  と深月は訊ねてきた。その一言に対し、彼の眼の方が余程雄弁だった。強気に見えて、こちらの様子を窺うような気後れした表情を泉は気に入った。  この時深月は既に泉の性的関心が同性にあることを白石から聞いて知っていた。すれ違う誰も彼もが、自分に云い寄りたいという熱心な視線を投げかけてくる中、全くといっていいほど興味を示さない泉が、新鮮に映ったらしい。  最初、泉は深月のことを一度か二度の楽しみぐらいにしか考えていなかった。好奇心を満たしてやれば、勝手に離れていくだろうと考えていた。その予想に反して蜜月は三か月と長く続いたわけだが、まさか婚約者との仲を手放してまでのめり込まれるとは思っていなかった。泉にしてみれば勝手に本気になられても困る。デートもセックスも楽しみたいとは考えているが、特定の恋人をつくる気はさらさらない。

ともだちにシェアしよう!