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第3話

 胸が痛くなるほどの苦しい恋など要らない。新鮮な輝きと甘い悦び、まったりとした楽しい時間を味わい尽くしてしまえば、やがて口の中には苦みが広がってくる。そうなる前に時期を見極めることは重要だ。  深月は連れて歩くだけなら確実に虚栄心を満たしてくれるが、付き合う相手としては相応しくない。寝台(ベッド)以外の場所で平穏を維持するためには、常にどちらかが我慢しなければならない関係性だった。何より、深月は孤独を知らなかった。寂しさを寂しさと感じる前に解消する手段を多く心得ていた。映画や音楽から始まり、ワインの味に至るまで、深く楽しめるだけの教養と金銭的な余裕、豊富な人脈、お願い付き合ってと迫る女たち。彼にとって、人と違うということはイコール人より秀でているということだった。  一言で云えば、性格の不一致。  妻ともそうだった。大事なところで自分たちは違いすぎた。妻と一人息子いれば充分幸せだった泉に対し、妻は二人目の子供を望んでいた。満たされていた自分は、その孤独を充分に理解してやれなかった。  とにかく深月はこれまで異性と恋愛をして満足してこられたのだから、バイセクシュアルということになるだろう。それなら婚約者の元へ戻った方がいい。今はちょっと血迷っているだけで、本当はどういう人生が生きやすいか、この男が分からないはずがない。互いに求めるものが違うと判明した今、これ以上関係を続けることは無意味に傷を広げるだけだ。 「少し経てば冷静になれるよ。もう、こうやって会うのはよそう。ほんとにありがとう。今まで楽しかったよ」 「何それ、この状況で終わりにする気ですか?少しは罪悪感とかないのかよ?」 「情に訴えるなんて、深月くんには似合わないと思うな」  別れ際に背中で受けた罵詈雑言は気にしないことにした。美人は男女問わず気性が荒い。今度、白石に仲立ちを頼む時は、大人しい相手かどうか見極めてからにしてもらおう、と考えながら帰路についた。  同性に性的関心を抱く人種を見抜くのは、泉にとってそれほど難しいことではない。昔からそうだった。この眼が利くうちは死ぬのが惜しい。これは心身の半分が異端者である自分が、孤独に絶望しないよう、神が授けた生きる術なのだと思う。  泉が作業を終えた時、既にオフィス内の人気(ひとけ)はまばらになっていた。時計を確かめると午後六時を過ぎている。  点検作業を終えた確認印を書類にもらうため、周囲を見回すと、先程眼が合った例の男性社員がいつの間にか席へ戻っていることに気づいた。真面目な顔をして、デスクの上で何やら作業に勤しんでいる。背後に近づいて行って手許を覗き込むと、何のことはない、彼は不器用な手つきで領収書を糊付けしているところだった。 「すみません」  泉の呼びかけに対し、男が振り返るのは早かった。単純作業に集中していたためなのか、一度目以上に過敏な反応だった。瞳の動きがやや硬直しており、彼の気の小ささを感じさせた。泉は得意の営業スマイルを浮かべ、相手を宥めるようなつもりで向かい合った。 「作業完了しました。特に機器に異常は見られませんでしたので、ご安心頂いて大丈夫です。こちらの書類に確認印を頂きたいのですが、宜しいですか?」 「……はい」  機器の購入や有償の作業の場合はともかく、補償内の点検作業の確認印を押すのは大抵、その辺にいる受付係や平社員であることが多い。  男はかさばるレシートをデスクの端に寄せ、泉からクリップボードを受け取った。その際に彼は挟んであったペンを外そうとして、うっかり落としてしまった。 「あ」 「ああ、大丈夫ですよ」  身を屈めようとした相手を泉は愛想の良い声で制し、懐から別のペンを取り出して男に手渡した。男はすまなそうに小さく礼を云った。  落ちたペンを拾いつつ、泉は改めてこの男を観察した。長めの前髪と眼鏡が邪魔だったが、近くでよく見るとこの男の顔立ちは決して悪くない。視線が印象的だったのは瞳が大きいからか。色白で、唇は程よく肉感的だった。よれた安物のスーツを着替えて、髪型を整え、眼鏡を選び直せば、それだけで充分美人の類に入るだろう。日常的に美と格闘している女たちと違い、男には自分の魅せ方を知らないまま年齢を重ねる者も多い。  かと云って、他人のそういう無防備さを何とかしてやりたいというお節介さは泉にはないし、外見の素材の良さが判明したからといって、それだけでものすごく相手が魅力的に見える年齢は疾うに過ぎた。  それなのに、泉は何故かこの男に非常に引っかかるものを感じていた。その理由が何なのか知りたくて、何度も盗み見てしまう。とても他人とは思えなかった。どこかで会った気がするが、学生時代の旧友だとか、そういった類の既知感覚ではないのだ。この男の先程の視線を思い出すと、胸の中の熱源が疼き、かすかに呼吸が浅くなる。  未知の違和感に耐えかねて一旦視線を逸らしたその時、泉の眼は男のデスクの上にあった一冊の本に吸い寄せられた。雑多なファイルや書類の中で、その青い背表紙だけがオアシスのように鮮やかだった。 「あ」  思わず出た泉の声に、男も反応を示した。 「この本、持ってます。フランスの写真集ですよね」  男は泉の視線を追い、途惑いながらもファイルの間に挟まれたその本を取り出した。本の表紙は青空の(もと)、イエナ橋からエッフェル塔を撮影したものである。 「……これですか?」 「はい。ああ、やっぱりそうだ」  差し出された本と全く同じものを泉は持っていた。フランスの、主にパリの街並みから歴史的な建造物のディティールに至るまでが集められた写真集だ。撮影したのは大崎南(おおさきみなみ)という男性写真家で、日本よりも海外での方が一般に名前を知られている。街並みを撮影する際に映り込む通行人を除いては、一切人間の写真を撮らないというインタビュー記事を以前、泉は読んだことがある。芸術家によくある、凡人には理解できないこだわりだ。大崎南はこの他に、スペインやイタリアなどの写真集も出しているが、泉が持っているのはフランスを映したこの一冊だけだった。 「……フランスがお好きなんですか?」  遠慮がちに男は訊ねてきた。それに対し泉は、 「はい、パリが好きなんですよ。学生時代に一度、旅行したことがあって」  と答えた。それはもう二十年近く前のことだ。大学卒業を控え、泉は親友と二人で青春最後の記念にと、アルバイト代をかき集めて、一週間のパリツアーに参加した。泉の人生の中でも、指折りの大切な思い出だ。今でもあの時見た風景を懐かしく思うことがある。 「まあ、フランスの写真集なんて探せばいくらでもあると思うんですけど、僕は本屋で見つけた時、この本が一番いいなって思ったんです。写真がいい。どのページも風景の切り取り方が良くて」 「私も……この本の写真が好きで」  その瞬間、相手の眼元に仄かな明るさが滲んだのを泉は見逃さなかった。相手が発した短い同意の言葉に、心が浮き上がるのを感じた。 「もしかして、フランスに行かれたことがあるんですか?」  泉の質問に男が答えようとしたその時、フロアの照明が半分消えた。それを見て、まだ数人残っていた社員たちも次々に帰り支度を整え始めた。消灯することで有無を云わさず残業をさせないようにする取り組みだろう。  間の悪さを恥じるように男は眼を伏せて、書類を泉に返却した。紙面を確認後、泉は改めて男に笑顔を向けた。 「ありがとうございます。次回は半年後の点検になりますね。本日はこちらで終了になります。すみません、予定よりお時間を頂いてしまって」 「いえ、あの……お疲れ様でした。また宜しくお願いします」 「あ、そうだ。それともう一つお訊きしたいのですが」 「はい?」 「この辺にお勧めのラーメン屋とかってありませんか?」 「え……」  泉は人当たりの良い笑みを絶やさなかった。 「できればこの近くで食事を済ませてから帰ろうかなって思ってるんですが」

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