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第4話

 男の苗字は結城といった。受け取った書類の最後に、その苗字の印鑑が押されていたのだ。  結城は自分が知っているラーメン屋は一軒だけだと答えた。駅から少し離れるが、その店のゆず胡椒ラーメンは口コミでの人気も高く、お勧めだという。 「あの、もし良かったら、結城さんも一緒に行きませんか?」  泉の誘いに対し、結城は明らかに躊躇した気配を見せた。今し方、仕事で知り合ったばかりの人間に、突然食事に誘われたのだから無理もない。彼は目に見えて困惑していたが、泉はそんなことを感知している様子は微塵も見せず、あくまで柔和な表情を保ったまま相手を見据えていた。恐らく、眼の前の男の脳内では今、心証良く断る文句をあれこれ思案しているのだろう。  少ししてから結城はおずおずと、 「いいんですか?」  と訊き返してきた。  断るなら素早く、というのは、特に社会人であれば人間関係の基本中の基本だ。不自然な間合いが生じると断りづらい空気になる上、たとえ理由が本当でも嘘臭さが増す。この男はあまり世渡りが上手なタイプではないな、と泉は思った。もちろん、相手の見た目や仕草から薄々そんな性格を感じ取っていて、泉は誘いをかけてみたわけだが。  警戒心がないわけではないのに、好意の顔をして近づかれると、断りきれずに他者の侵入を許してしまう。こういう人間は大抵、自分に自信がない。そして、眼の前にいる人間の機嫌を損ねることに必要以上に罪悪感を抱く。人事部にいて、社員のメンタル部分における相談に対応することも多い泉には、結城のような人間の心模様を推し量るのは容易なことだった。  この男にはとても引っかかるものを感じる。彼に対する、今までにない感覚が何なのか、追究してみたい。  更に云えば、単純な欲求もあった。我の強い深月と付き合った後の泉には、結城のような控えめで従順そうな男に癒されたかった。疲れている時は弱そうな獲物を狙うに限る。 「ほんとにラーメンで大丈夫?」  ビルを出ると泉はやや気さくな言葉遣いで話し始めた。  黒い襟巻とコートに身を包んだ結城は、夜闇の中でより一層存在感が薄まって見える。人通りの多い場所で眼を離したら、簡単に見失ってしまいそうだった。 「結城さんだったら普段、もっとおしゃれな店に行くでしょう?」 「いえ、そんなこと。ラーメン好きですし」  今後、どう転ぶにしても、まずは気さくな人間だと思ってもらって損はない。気取らない店に一緒に行くことで、相手の気持ちを和らげようと泉は考えていた。ちなみに女に対してこの手法は使わない。使えない、と云うべきか。 「もっと栄養バランスを考えないと、とは思うんですけどね、やっぱり好きな食べ物に足が向いちゃって」 「泉さんはラーメンお好きなんですか?」 「ええ。あとカレーライスも。でも男ってみんなそうじゃないですか?もうこれは宿命ですね」  結城は唇を閉じたまま、くすりと笑った。蛍の光が灯ったかのようなその笑みに、泉の肌に突き刺さっていた寒さが和らいだ。少しずつ少しずつ、相手の反応を見ながら泉は自分の敬語を剥いでいった。 「普段、結城さんは自炊なんかは?一人暮らし?」 「はい。自炊は休日に少しだけ……でも、そんなに大したものは」 「ああ、分かる。僕もですよ。平日はそんな気力湧かないし、レトルトとかコンビニ弁当についつい頼っちゃって。そろそろ気を遣わなきゃいけない年齢なんですけどね。失礼かもだけど、結城さんていくつ?僕は四十ちょうど」 「三十四です。今の会社には中途採用で入ったので、社歴はまだ浅いんですが」 「ええと、事務を担当されてるんですよね?」 「はい」  それは正解だと思った。結城は営業職には向かない。彼が他人とのコミュニケーションを苦手としているのは、見ていてよく分かった。会話の最中、彼はあまり泉と長く視線を合わせようとせず、俯いたり、どこか別のところへ注意を払ったりする動作が多く見られた。声もあまり通る方ではないので、注意していないと聞き漏らしてしまう。本人に悪気はないのだろうが、これでは対面した客からの信用は得にくい。でも、性根は真面目な男なのだろうなと思った。報われない日々の憂いの片鱗が、彼の横顔や耳、そして首の後ろのあたりからそこはかとなく漂うのを、泉は感じ取っていた。 「そう云えば先刻の写真集、あれは結城さんが何かお仕事で使われてるものなんですか?」 「いえ、私物です。仕事の合間に眺めるのが好きで」 「ああ、いいですね。気分転換になりそう」 「実は……友人が仕事で長い間パリに行っていて、それで私も興味が湧いたというか……」 「えっ、羨ましい。パリだったら仕事で行ったとしても楽しいだろうなあ。僕ね、機会があればもう一度旅行してみたいって思ってるんですよ。景色がいいから、街を歩き回るだけでも楽しいし」 「私も行ってみたいです。ほんとに、今すぐ飛んで行きたいぐらい」  そう云った時、結城の眼に浮かぶ憂いの色が濃くなった気がした。パリに何らかの思い入れがあることは泉にもすぐに分かった。直後に結城ははっとして、自分の発言を恥ずかしがるように俯いた。  一緒に歩き始めてからというもの、初対面の際に生じる居心地の悪さというものを、泉は結城との間にほとんど感じなかった。それは見栄や虚勢を張ろうとする気配が、些かもこの男になかったからだと思う。泉に対し、遠慮や多少の緊張は見せていても、そこに警戒や拒絶は混じっていなかった。もしかしたらそれは、自分を守ろうとする気がこの男にあまりなかったからなのかも知れない。 「この道の先です」  結城が指し示した隘路を抜けた先に、ラーメン屋の幟が見えた。

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