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第5話

 店内のカウンターに席があるのを確かめ、二人は暖簾をくぐった。泉は食券の券売機に紙幣を入れてから結城に話しかけた。 「先刻、お勧めだって云ってたゆずのラーメンてこれですよね?」 「はい、ここの看板メニューみたいです」 「結城さんもこれ?」 「そうですね、それにします」 「じゃあ券買っちゃいますね。僕も同じのにするから二枚、と」 「あ、お金……」 「いいからいいから。座りましょう」  泉がラーメンをカウンターで食べられるようになったのは、今年の二月、妻が出て行ってからだ。彼女はある日突然、一人息子の海晴(みはる)を連れて、郊外にある実家へ帰ってしまった。そのまま現在に至るまで、別居状態が続いている。  結婚生活を送っていた頃、泉は接待以外でほとんど外食をしたことがなかった。栄養士として働いていた妻の樹里(じゅり)は、食事について人一倍うるさかった。栄養配分や添加物にうるさいのはもちろん、食べる量や時間帯なども決まっていて、アレルギー持ちでもない息子に対する食育もやたらに厳しかった。市販の菓子類は一切与えないし、人からもらうことがあっても、その場で受け取るだけで家で捨ててしまう。結婚記念日にレストランを予約しようなどと云っても、本当に食材や調理に信頼をおける二、三の決まった店にしか彼女は出入りしたがらなかった。息子が通う保育園の入所希望を出す際も、食材にこだわっていて、給食とおやつを施設内で手作りしているところ、というのが彼女の中での絶対条件だったのだ。  現在、保育園の年長クラスに通っている息子の海晴とは、ひと月に一度の頻度で会っている。先月は会えなかった。保育園で喉にくる溶連菌をもらってきてしまい、熱を出していたのだという。更に今月は妻の仕事が忙しいことや、方々でのクリスマスパーティーに招かれていることなどもあって、危うくふた月連続で面会を断られるところだった。息子は可愛い盛りで、成長の著しい時期でもある。二か月も会わなければ、顔つきが変わって、傍にいない父親のことなど忘れてしまうのではないかと、泉は怖くなる。  今度、子連れでも気兼ねせずに入れるボックス席のあるラーメン屋に連れて行ってやろう。お菓子も買ってやろう。あの子はきっと外食に飢えている。添加物だとか農薬だとか、色々健康に良くないものがあるのは分かっているが、過剰に外食を制限する教育方針には泉は反対だった。どうせそんなものは長続きしないし、成長すれば勝手に好きなものを食べるようになるのだから。  泉と結城が並ぶカウンターに、同時にラーメンが出された。水を一口飲み、箸を割る。もやしやねぎなどのトッピングからスープに浸して食べていく。それらを一旦端に寄せ、麺に取りかかる。爽やかなゆずの酸味が鼻を抜ける。 「美味しいね」 「良かったです」  実を云うと泉は豚骨や味噌などのコクのあるスープの方が好きだった。だが、今回の目的は自分の好みを優先することではなく、結城と接点を持つことだった。  帰りを待つ家族がいないことを免罪符にして、この数か月の間、時々男遊びに耽ってきた。  そうしなければ心の渇きを誤魔化すことができない。心が渇くのは、行き場のない父性愛が日々放出され続けているからだ。愛情の恐ろしいところは、相手が傍にいない時にとめどなく溢れ出して、自分を苦しめることだと思う。流れ出るばかりで逆に自分の心は渇いていく。愛情は受け止める相手との間で循環させるべきものだ。泉は胸の奥にダムをつくり、容赦ない愛情の流れをプールし続ける。月に一度、それら全てを一日だけ会える一人息子に注ぎ込む。息子の笑顔を得て、ようやく泉は満たされる。けれどそれはたった一日だけ。残りの日々は、父性愛に変化する前のエネルギーを、性愛に変えて、それを受け止めてくれる相手を探し求めて生きていく。  食事を終えた後、店を出てから結城はラーメンの代金を泉に手渡そうとした。 「あの、これ」 「付き合ってもらったのは僕の方だから本当にいいですよ。いい店を教えてくれてありがとう」  あまり食い下がるとかえって失礼にあたると思ったのか、結城は礼を云って金をしまった。 「それにしてもこの辺りは食べるところがたくさんあっていいね」 「そうですね」 「居酒屋も多いし。あ、立ち呑み屋だ。ちょっと軽くビール一、二杯ひっかけるならこういうところがいいんですよね」 「あ、あの、もし良かったら入りませんか?」  結城は立ち呑み屋の店先を指したが、彼が純粋に乗り気なわけではなく、先程のラーメン代の帳尻を合わせようと律儀に考えているのはすぐに泉には分かった。 「いやあ、本当にそうしたいんだけど、今日は社用車で来てるから」 「あ……そうだったんですね」 「呑むのは好きなので、また今度行きましょう」  それから地下鉄の駅に向かうと云う結城と共に、泉も来た道を戻った。途中、人通りが多く道幅の広いところで、たまたま結城が先を歩いていた。結城の耳の後ろあたりからは、薄い香水の残り香がした。  そこで、ああやっぱり、と泉は思った。  行きの道中でも感じていたことがあった。泉はこの男の背中に強く惹きつけられていた。オフィスの中では地味で垢抜けず、街中では雑踏に紛れ込んでしまいそうな男。薄くて頼りない、孤独な背中。そうだ、この男から滲み出ていたのは、憂いを通り越した孤独だった。職場でも夜の街でも、結城は何となく周囲に馴染めていなかった。孤独の冷気とも呼ぶべきものが、彼と世の中の空気を隔絶していた。誰もが身を寄せ合いたくなるような寒さの中で、その寂しい背中を見つめていると訳も分からず泉は切なくなった。  泉は、寒いね、と云って再び結城の隣に並んだ。 「結城さんがフランスに興味を持ってるっていうのが僕ちょっと嬉しいんです。なかなかそっちの話ができる人に出会えなくって。人によっては、海外の話をすると気取ってる、なんて思う奴もいたりするから」 「私は全然、そんな風には」 「良かった。そうだ、先刻現地の雰囲気を知りたいって云ってたけど、それなら映画を観るのもいいと思いますよ。映画は好き?」 「映画ですか」 「うん、フランス映画はハリウッドとかとはまた違う魅力があって。ちょうどこれから年末年始の休暇に入るし、一本か二本、観てみるのはどうですか?いくつかお勧めがあるんだけど」 「いいですね。たとえば、どんな」 「あ、じゃあいくつか作品のタイトルを送りますよ」  そう云って何気なく携帯電話を取り出し、 「はい、これが僕のQRコードです」  とメッセージアプリを開いて画面を見せた。微かな途惑いが、結城の眼に仄見えた。だが泉の予想通り、あまり間を置かずに彼は自分の携帯電話でそれを読み込んだ。またしてもこの男が断れないであろうことを泉は見抜いていた。来る者を拒めない、どんな人間にも真正面から応えようとしてしまう雰囲気が結城にはある。これでは日々、生きていくのが大変に違いない。  地下鉄へと続く階段の入口で、泉は結城を見送った。 「今日は本当に、ご馳走様でした」 「いいえ。じゃあまた。お疲れ様」  二人は同時に方向を変えた。だがいくらか歩いた後、何となく泉が振り返ると、結城もまだ階段を下りずにこちらを見ていた。結城が会釈をしてきたので、泉は軽く手を挙げて応え、先程よりもやや速足で歩き出した。  車に戻った泉は、先程登録した結城のメッセージアプリのプロフィールを開いてみた。アイコンも背景も初期設定のままで、名前も苗字のみだった。そこからは新しい情報は何も得られなかった。  それからふと自分が分からなくなった。  興味が湧いたとはいえ、仕事中に声をかけることなどこれまでほぼなかった。だが自分を疑ったのはほんの少しで、まあいいか、とそれ以降はあまり深く思い悩まなかった。  今すぐ何かを期待しているわけではない。少しでも個人的な接点を持っておけば、何かの折にそれが芽吹いてくれる可能性がある。それに、失敗したとしてもほとんど痛手を被ることのない関係性だ。  携帯電話を傍らに置き、運転前に軽く伸びをしながら結城の黒い瞳を思い出してみた。  夜の海を閉じ込めた宝石の両眼。閉じた瞼の裏側で、眼が合った。その瞬間、泉の胸に微かな緊張と不安がよぎった。  後から考えてみれば、これが会うべきではなかった人に出会ってしまった、運命が狂い始める最初の日だったのだ。

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