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第61話

 泉は葵が大学生活を送る間、ずっと面倒を見ていた。卒業後、彼は泉の家から車で十分ほどのところにあるホームセンターで正社員として働き始めた。  最初、泉は歯科医院の二の舞になるのではとかなり心配したが、思いがけず相性の良い上司に恵まれ、二十五歳になる今もそこで働いている。一つ一つの売り場を理解するまで丁寧に教えてくれるし、基本的に異動の少ない会社なので、自分に合っていると葵は云っていた。 「大変なことがあっても、泉さんが支えてくれてるって思うと頑張れるよ」  過去の悪夢については、葵が何か云い出したことは一度もないし、泉も云う必要はないと思っている。誰が何と云おうと、葵は自分以外の誰にも抱かれたことはない。  大学の卒業式を控えたある日、一緒に暮らそうかと泉が訊ねた瞬間、葵はこれ以上ないぐらい顔を輝かせて笑った。だがその後すぐ、 「ここは泉さんと海晴くんの家だから、海晴くんの許可なしには住めないよ」  と断った。確かに葵はいつも、泉の家に泊まりに来ることはあっても、ずるずると居座ったりはしなかった。私物も毎回持ち帰っていた。  話し合いの末、海晴がハイスクールに進学する前にこの話を打ち明けようということになった。海晴とはよくメッセージのやりとりや電話をしていて、日本に帰って来た時は泉の家で過ごしていた。  十五歳になった息子は今、自分の理解が及ぶ範疇で、父親の人生を応援してくれている。 「ノープロブレム。僕のことは心配しないで。パパのことは好きだし、会いに行くけど、僕の今の居場所はここだから」  その言葉をもらったのが、十日前だ。  新しいチェストは二階の寝室にきれいに納まった。設置担当の業者が帰ると、葵は抽斗を引いたり戻したりした後で、 「うん、いいんじゃない?ずっと前からここにあったって感じ」  と、葵は嬉しそうに泉を振り返った。  自分の人生はまた新しいかたちで完成されつつある。そのことを泉は実感していた。  翌週、葵の仕事が休みの日に、たまには都心の方へ出かけて行こうということになり、二人で銀座へ向かった。  数日前に葵がうっかり急須をぶつけて割っていたため新しいものを買いたかったのと、葵に長く使える質の良い食器を贈るつもりでいたのだ。 「泉さん、今日がイブだって分かってるよね?土曜のクリスマスイブの休みなんて、地獄の争奪戦だったんだから」 「うん、ありがとう。嬉しいよ」  松屋銀座の七階に着くと既に正月飾りや来年の干支の置物などが目立つところに置かれていて、年の瀬の空気を感じさせた。  葵の希望でル・クルーゼのマグカップとラウンドディッシュ、そして箸を買い、次に和食器の売り場へと向かった。途中、正月用に設えられた通路側の売り場を見て葵は、 「泉さん、正月になったらこれで呑まない?」  と錫の片口とぐい呑みを指して云った。葵は決して酒に強くないのに、呑むのが好きだった。飲酒については泉がうるさく云って聞かせてきたからかも知れない。 「そうだねえ、じゃあ内側が金のと銀のがあるから、好きな方を選んでいいよ」  熱心に能作のぐい呑みを眺める葵から離れ、泉はすぐ近くの売り場にある急須を選びに行った。  南部鉄器の急須というのもなかなかいいかも知れないと商品を観察していた、その時だった。  泉の右側から人がやって来る気配がして、すぐ後ろを通り過ぎて行った。  すれ違ったその瞬間、泉ははっとして顔を上げた。今し方すれ違ったばかりの人物の方へ眼を向けると、そこで泉は信じられないものを見た。  そこにあったのは、紛れもなくあの孤独な背中だった。今し方、脳髄に達した香水の香りが、あの男に間違いないと告げていた。彼は黒いコートを纏い、振り返ることも脇目を振ることもなく、真っ直ぐ売り場を抜けてエスカレーターへ向かって行った。 「結城くん!」  泉は周囲が振り返るほどの声でそう叫び、男の跡を追った。  生きていた。  結城は生きている。  どうしようもなく狂おしい、鮮やかな愛が瞼の裏に弾け、泉は葵をその場に残したまま急ぎ足で売り場を抜けた。  運命の道から逸れた湖の畔で、愛を交わしたあの二日間。  この数年間、泉は愛と孤独と夢のきれぎれに、あの男の背中を思い出していた。 「結城くん、待って!」  泉さん、と呼び止める葵の声が聞こえてきたが、泉は足を止められなかった。  通路を走り抜け、エスカレーターを駆け下り、地下一階から銀座線へと続く連絡通路を歩く人々の顔を見ながら、改札を抜け、尚も走り続けた。  ちょうど電車が到着したばかりで駅には無数の人々がいた。  今日はクリスマスイブだ。愛する者と互いに見つめ合いながら触れ合いながら、人々はとても幸せそうに見えた。  泉だけが愛する者の背中を追い、今度こそあの孤独の湖から救ってみせると、いつまでも冷たい地下鉄の駅の中を走り回っていた。  

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