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第60話

 泉がシアトルに行くことを知っているのかと海晴に訊ねたのは、三月に入ってからだった。海晴は一学期の間だけ、樹里の実家から近いところにある小学校へ通う予定になっていた。  四月の上旬に泉と樹里の離婚調停の日が決まっていた。海外になんて行きたくない、パパと暮らしたい。そう云ってくれればと切に願っていた。 「……シアトル、海晴、よく分かんない」 「すごく遠いところだよ」 「うん、飛行機で行くってママ云ってた」 「どんなところか知ってる?いつ戻って来るのか、ママから聞いてる?」 「知らない」 「言葉の通じないところだよ。外国人もいっぱいいる。いつ帰れるか分からない。そんなところに海晴は行きたい?」 「行きたくない。何か怖い」 「そうだよね」 「みんなこのおうちにいればいいんだよ。ママもパパもおじいちゃんもおばあちゃんも、みんなこのおうち」 「それはちょっと無理かな。でね、お仕事でどうしてもママだけはシアトルに行かなきゃいけない。だから、ママとお別れしてパパと一緒にこのおうちに住むのはどう?」 「うーん、ママは?」 「ママはシアトルに行かなきゃ。お仕事だから」  海晴は首を振った。不安げな顔をしている。 「すごい遠いんでしょ?」 「うん」 「海晴、ママとは毎日会いたい」 「じゃあ海晴も行きたい?パパやこのおうちと別れて、ママと一緒に知らない場所に行ける?」  幼い子供の不安を煽る、狡い云い方をしているのは分かっていた。海晴は困惑し、泣き始めた。 「嫌なのか。泣くな。そんなに嫌ならこのおうちでずっとパパと一緒にいよう」 「だめ。ママが一人になっちゃう」 「そうだね。じゃあ、やっぱりママと一緒に行くんだね?」  息子は首を振った。 「やだ。パパに会えなくなっちゃう。パパはずっと一人ぼっちじゃん」  この質問をしている間、泉はずっと胸が苦しかった。自分の愛ゆえに、この子に残酷な選択を突きつけなければいけないのであれば、そんなものはもう愛とは呼べないと思った。 「パパには会えるよ、絶対。大丈夫」  自分でも驚いた。どこで変わったのかと思った。もう一人の自分が、必死で今、表に出ている自分を止めている。やめろ。何を云う気だ。お前は最愛の子供を失ってもいいのか。 「パパに会えない間は、いつでも電話しておいで。それに、もうちょっと大きくなったら、海晴はパパに会いに来てくれるだろ?」 「うん、とーぜんだよ。でもどうやって?」 「飛行機に乗っておいで。チケットを買うんだよ」 「大人になったら飛行機、買いたい。買えるかな?」  泉は笑ってしまった。 「そうだね、海晴なら買えるかも知れないね」 「ジェット機にする。そしたら絶対、パパを海晴の飛行機に乗せてあげるからね」 「ありがとう。ぎゅーしよっか」    愛している。  お前がいつかこの家にやって来ることがなくなっても、お前が走り回った床板にしみついている記憶が、父を慰めてくれる。お前の感嘆と笑い声はいつでも聞こえてくる。お前の髪の柔らかさをいつでもこの指先に絡めとることができる。お前が父のために流した涙を忘れない。  お前からの便りがなくなった時は、誰かを愛したのだと思おう。お前が父を忘れたら、その時お前はきっと誰かと幸せの最中にいる。そう信じている。必ず幸せになれる。  お前が生まれた時から、病室であの赤く柔らかい瞼に口づけをした瞬間から、父がお前に望むことと云えばそれだけだったのだから。  その日は海晴のために、レインコートと傘と長靴を買いに行った。  シアトルは雨の町だ。海晴に降り注ぐ、この世の無情から少しでも守ってやりたい。  帰り際に見かけた書籍と文具を扱う店で地球儀を購入した。東京とシアトルの距離は、六歳の海晴の掌で覆ってしまえるほどのものだった。 「ほら、こんなに近いよ」 「うん、そうだね」  海晴は地球儀には関心が薄いようだったが、「お勉強で使えるから」と泉が云うと、持って行くことを約束した。  その日の夜、海晴を妻に引き渡した際、シアトルに出発する日は空港まで車で送るからと云うと、樹里は驚いた様子だった。 「三人でドライブするのも、それが最後になるだろ?」  続けてそう云うと、樹里は躊躇いがちに頷き、礼を云った。  四月に入ると、泉は最初の調停で親権を妻に渡すことを決め、残りの時間は養育費の支払いと面接交渉権の保証についての話し合いになった。調停が終わると樹里は泣いていた。その涙にどんな意味があったのか泉には分からない。恐らく、これで本当に自分の家族が終わるのだ、という区切りをつけるための涙だったのかも知れない。  樹里と海晴の出発は七月の頭だった。  空港へ向かう道中、海晴はまるでピクニックにでも向かうかのようなはしゃぎっぷりだった。 「あの家は売らないの?」  助手席に座った樹里は静かな声で泉にそう訊いた。 「うん」 「維持するのは大変でしょう」 「それだけの価値があるんだよ。思い出に浸るためだけじゃないから、安心して」 「そう。別に心配はしてないよ。あなたの人生だもの。今までありがとう」  初めての空港に海晴は圧倒されていた。泉はずっと昂奮した海晴の手を握るか、抱きかかえていた。 「パパも飛行機に乗れればいいのに」 「ごめんね、チケットがないんだよ」  海晴はどこまで今の状況を理解しているのだろう。少なくとも、今日父親と別れなければいけないということは分かっているようだ。  保安検査場の入口まで来た時、泉は海晴の頬と額にキスをした。 「海晴、愛してるよ。愛してるって分かる?憶えてる?」 「うん、すっごく好きってことだよね。海晴もパパ、愛してるよ」  海晴は直前まで「パパもすぐ来てね」、「新しいおうちで遊ぼう」と何回も云って、泉の前からいなくなった。  その日、朝から葵は何度も泉にメッセージを送って来ていた。元妻と最愛の息子の見送りを無事済ませた後で、泉は彼に電話をかけ、家族を送り出したことを伝えた。  葵は少し間を置き、お疲れ様、と泉に声をかけた。 「これから家に戻るんだよね?俺、行くから。待っててね」 「いいよ、来なくて」 「だめ。どこにも行かないでね。家にいてね」  その日の夕方、葵は約束通り泉の家の玄関へ現れた。いつも会った時にそうするように少し笑みを浮かべ、憔悴しきった泉を支えるように抱きしめた。 「頑張ったね泉さん。大丈夫。俺がいるからね。俺はどこにも行かないからね」

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