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第59話
性愛と純愛が交叉した三日目の朝、遠くで誰かが泣いているような気がして眼が覚めた。
雪は雨に変わっていた。
瞼を開く少し前からそこにもう結城の気配がないことは分かっていた。先程まで抱いていた結城の肌の名残が体中にしみついていたが、次第にそれはそのまま深い喪失感へ変わっていった。
テーブルの上には一通の封筒と文鎮代わりに、見覚えのある硝子瓶が置かれていた。結城のアパートの玄関先で見かけた、変わった形の瓶だ。
手に取って初めて、ああ、これは香水瓶だったのかと気づいた。蓋を取ると、結城が身に着けていた香りが鼻先に届いた。
封筒には恐らく結城のものと思われる文字で、
『泉さん ありがとう』
と一言書かれており、その中には金が入っていた。額は減っていたが、引き出した八十万の残りだとすぐに分かった。
部屋には結城の持ち物は一切残っておらず、彼がもう戻らないことを示唆していた。
どうしてか、この時、泉は直感していた。
結城とはもう二度と会えない。
泉は大急ぎで一階のフロントへ行き、そこにいたスタッフに部屋番号を伝えて、連れが出て行かなかったかと訊ねた。
「泉様ですね。はい、お連れ様から伝言を承っております」
「本当ですか?」
「はい、結城様は三時間ほど前に当館を出られました。泉様には『先に東京へ戻っていて頂きたい』との旨、お伝えするようにと。それとこちらを」
彼はカウンターの下から丁寧に折り畳まれた白いマフラーを取り出し、
「泉様にお渡しして欲しいとのことです。うっかり荷物に紛れ込んでしまったと仰っていて」
と云って泉の前へ置いた。そのスタッフは、朝に相応しい快活な笑みと、落ち着いているがはっきりとした声の男性だった。若く見えるが、フロントの責任者なのかも知れない。
「……これだけですか?他には、たとえば、これからどこへ行くとかは云ってませんでしたか?預けている荷物なんかは?」
「今朝承ったのはこちらで全てでしたが、念のため、伝言の記録とお荷物の記録をお調べ致します。どうぞ、あちらにおかけになって……」
「ううん、急いでるんだ。ごめんね」
プロフェッショナルな佇まいのその男は嫌な顔一つせず、パソコンで記録を調べてくれた。だが他に荷物はなく、他の従業員が伝言を受けた記録も残っていなかった。
「すみませんが、今朝の彼の服装や持ち物とかってどんな感じだったか憶えてますか?」
「はい。黒いコートと手袋をお召しになっていらして、お荷物は大きめの黒いトートバックをお一つお持ちでした。タクシーは使わずに徒歩で敷地を出て行かれて」
「ありがとう」
宿泊料金の確認をすると、もう全て結城が済ませて行ったと告げられた。
泉は一旦部屋へ帰り、チェックアウトの手続きをした後で、職場に電話をかけて体調不良のため一日休ませて欲しいと告げた。そして売店でビニール傘を買い、周辺を捜索しに出かけた。
だが結局、何の手掛かりも得らないまま陽は傾き始め、泉は仕方なく結城の伝言の通り、東京へと戻った。
道中のパーキングエリアで、そして自宅に帰ってから、何度か結城の携帯電話にかけてみたものの、「おかけになった電話は電波の届かないところに……」という無機質な音声が繰り返されるばかりだった。
二日間、無人だった家は底冷えしていた。土曜日、ほとんど発作的に自宅を出たために、泉は朝食で使った食器をシンクの中へ残したままだった。服も二日前のものだ。香水瓶と手許に戻ってきたマフラーがなければ、自分は本当に結城に会ったのかどうかさえ分からなくなっていたと思う。
その翌週の週末のことだった。
泉は実家で食事をしながら、夕方のニュースを聞いていた。
その日は海晴と両親を車に乗せ、ショッピングモールへ出かけていた。昼食をとった後で、少し遅いが海晴の誕生日のプレゼントを選び、サーティーワンでアイスケーキを購入したりして戻って来た。
海晴のリクエストでハンバーグを拵えた母も、海晴の卒園式に関する話について耳を傾ける父も、どこか寂しさを隠せずにいた。樹里に連れられて、海晴がいなくなってしまうのではと思っているのだ。
三日前、海晴が海外に連れて行かれるかも知れないと伝えたのは電話でだった。しばらくの間、母は黙って泉の話を聞いていた。
「そりゃあ子供は、やっぱりママがいいのかも知れないけど、でも海晴は男の子でいずれ成長するんだから、父親の背中を見ておかなきゃ。男の子だからうちに欲しいとかじゃないの。あの子が外国でつらい目に遭った時に、傍にいてあげられないなんて」
母が昂奮して泣き出すのを泉は初めて聞いた。父にも電話を代わってくれと云ったが、出かけていていないという。母に伝言を頼んだが、父がその日、電話をかけ直してくることはなかった。
テレビでは不祥事を起こした国会議員の釈明が終わり、次のニュースに移った。画面に芦ノ湖が現れ、右上に『男性が湖面に……』とのテロップが出された。
「……今日午前六時三十分頃、箱根町の芦ノ湖で、水面に意識のない男性が浮いているのを発見し、警察に通報しました」
泉は画面を注視し、ニュースに耳を傾けていた。
その男性は黒いコートと手袋を身に着けていて、付近にはその男性ものと思われる黒い鞄が置いてあった。搬送先の病院で死亡が確認され、コートのポケットに入っていた財布から身分証が見つかり、東京都に住む三十五歳の男性だということが判明した。遺書はなく、誤って湖に転落した事故と、自殺の両面から捜査は進められているという。
ニュースではその報道が全てだった。海晴の声で泉は我に返った。
「パパーお箸止まってるよ」
「ああ……うん」
「テレビばっかり観ちゃだめ」
「ごめんごめん」
だが、泉の体は小さく震え、それ以上食欲も湧かなかった。
その晩は実家に泊まった。ニュースを眼にした時から泉は頭が霞みがかったようになり、せっかく会えた愛しい息子の相手を充分にできないと思ったからだった。海晴はおばあちゃんと一緒に入るお風呂や、おじいちゃんに寝かしつけてもらうことを単純に喜んでいた。
深夜、泉は実家の居間で一人、缶ビールを開けた。
思う相手は一人しかいない。
そして泉は徐々に理解した。
愛は万能ではない。
どれほどの強い愛をもってしても、それは眼に見える力ではない。愛は何かを守る道具ではない。ましてや武器にはなり得ない。
自分はただ負けたのだと思った。
葉月に負け、結城の葉月を思う愛に負けた。そして一人、冷たい現実に取り残された。
泉は父と海晴の隣に敷かれた布団で眠ることになっていた。
風呂を済ませて、寝室の引き戸を開ける頃には深夜十二時近くなっていた。携帯電話の充電器をコンセントに繋ぎ、横になる前に海晴と父が眠っている方を見た。寝かしつけている間に、父も深く眠り込んでしまったらしく、二人分の寝息が聞こえてきた。
海晴の足が布団から出ていたので、泉はそっとその足を布団の中へ戻し、それから父の方を見た。
泉が子供の頃に見た父の寝顔は、いつも難しい顔をしていた。眉間に皺が寄り、夢の中でも次々に襲ってくる世間の荒波に耐え抜いているようだった。
それが今は、無垢で温かい小さな命の傍で、とても穏やかな顔をして眠っていた。
少なくとも愛には、こういう力がある。
泉は無力感に打ちのめされ、悲しみの水底へ深く沈水しながらも、何かを信じたかった。
分かっている。愛さえあれば世の中が全て良くなるなんて思わない。
何が愛なのか、どこからが愛なのか、どんな愛が本物なのか、愛は必要か。この年齢になってみてもそれは分からない。
ただ、四十年以上世間の荒波に揉まれ、その辛抱強さのためにかえって世間から顧みられることのなかった七十歳近い父。そんな男の眉間に深く刻まれた皺をそっと伸ばしてくれるだけの力はある。
きっと愛は、もらわなくても、一人で抱 くだけでも、少し世界は違って見える。
愛は心をくるみ込むもの。
君がどこへ行ったとしても、僕から贈ったそれは、君の心から離れることはない。
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