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第58話

 更に数分か経って、結城が口を開いた。 「葉月じゃなくて、俺が死ねば良かったのにって……よく思うんです。大崎先生について行くとあいつが決めた時、あんな風に反対すべきじゃなかった」  とても静かな声だった。 「葉月は俺に相談なんかしなかった。『行って来るから』って、もう自分で決めてたんです。ちょっと二、三日出張に行って来るって云うみたいに。何でそんな風に云えるのか、分からなかった。だって俺にはあいつ以外大事なものなんてなかったから。あいつと一緒にいるためなら何でもするって決めていたから、わけが分からなくて……あいつを責めたんです」 「ずっとそれを後悔してたんだね?」 「あの時はどうかしてました。浮気を疑ったり、大崎先生を貶めるようなことまで……ベランダから飛び降りようとしたこともあります。動けなくなれば、行かないでくれるだろうって。俺が一番葉月のことを理解して応援しなきゃいけなかったのに、俺は自分のことばかりだった。葉月に置いて行かれるのが怖かったんです。恋人が大事にしているものを理解してやれないなんて、愛想を尽かされても仕方なかったと思ってます。あの時、快く送り出していれば何か違ったかも知れないのに」 「何も違わないよ。君が賛成しようが反対しようが、葉月くんは先生について行ったと思う。そこで事故に遭ったのは君の所為でも何でもない。それが運命だったんだよ」  一見、結城の情緒は安定しているように見えた。だが泉はもう知っている。人間が辿る正気の橋は意外なほど細く、知らず知らずのうちに狂気の水際へと迫っていることもある。 「一緒に亡くなった現地スタッフの男性と葉月は、普段からとても仲が良かったそうです」 「……前にも云ってたね」 「もしも、葉月とその男性が深い仲だったとしても俺は葉月を責められません。あいつがその時愛していたのは俺以外の誰かかも知れない」 「そうかも知れないし、違うかも知れない。誰かが、たとえば大崎先生とかが、葉月くんには新しい恋人ができてたって云ってた?」  結城は俯いた。 「……よく互いのアパートメントを行き来していたということだけ」 「そうだよね。それだけじゃ、本当のことは分からないよ」  結城の言葉を半ば遮る勢いで泉は云った。 「この先ずっと分からない。考えてもきりがない。誰も本当のことは知らない。今、一つ云えることは、葉月くんはもう死んでいて、君は生きてる」  結城は苦しそうな、心底口惜しそうな眼をして泉を見上げた。 「他の誰かと死なないで欲しかったんです。俺が、葉月と一緒に死にたかった」 「分かってるよ。でも、もうそれはできない。だから、僕じゃだめかな?葉月くんの代わりにはなれないけど、君が死にたいと思った時は、僕が一緒に死ぬから」  結城の号泣はあまりにも静かだった。そして長かった。泣きすぎて彼の全身が溶けてしまうのではと思うほどだった。結城は今初めて、葉月の死を認めて泣いたのではないだろうか。  流した涙の分、この男の命が小さくなってしまう気がして、泉はキスをした。瞼に、頬に、唇に。この男の恋人かつてそうしたように。  泉の唇が喉に触れた時、結城は体を震わせて、自分でシャツの襟元の釦を外した。露わになったその部分に泉は顔を埋め、ぬるい皮膚の感触と、官能を誘うあの寂しさの入り混じった甘い香気の中へ沈んでいった。  愛が見えるものなら、自分たちはここまで不安になることはないだろう。けれど、愛のために必死になることもないかも知れない。  それから二晩、泉と結城はその部屋を出なかった。  互いの魂と体が融合するまで、互いの全てを貪り、与え、包み込み、揺さぶった。  その二晩のセックスは一日目と二日目で全く違っていた。  一日目はやっと触れることができたという安堵と飢餓感の混じった衝動が同時に込み上げてきて、抑えが利かなかった。  交尾をしたら死を迎える生き物の、最後の集中力。あのセックスにはそれに近いものがあった。互いの吐息と血涙と精液、そして皮膚や粘膜の全てを舐め尽くし、爪の先、髪の毛一本まで愛し抜く、紛れもなくこれこそが性愛の極致といえるところに二人で昇りつめた。羞恥心が溶けていくにつれ、結城は声をあげ始めた。  まだ遠い。間違いなくこの腕に抱いて体の中にまで入り込んでいるのに、果てしなく遠い。もっと近くへ。全てが見たい、全てが欲しい。もっと近くへ。愛の金液で魂を接ぎ合わせなければ。  泉は際限なく結城の体を求め続け、途中で結城が意識を失ったことにも、雪が降り始めたことにも気づかなかった。  寝台は二人の体から迸り、滲み出る性愛の雫でじっとりと湿っていた。  深夜に泉が息苦しさを感じて眼を覚ますと、結城が首を絞めていた。泉に微塵も抵抗する気はなかったが、結城はあるところで手を放して鼻を啜った。  会ったこともない海晴の声が聞こえる気がするのだという。 「俺があなたを連れてったら、海晴くんが可哀想だ」  直後に、ぬるい快楽のさざ波が泉の下半身をなぶった。薄闇の中で結城が泉の足の間に蹲り、フェラチオを始めたのだった。泉は初めて結城を自宅に連れて行った夜、こうしてもらった時のことを思い出した。  二日目は心の傷を癒す儀式のようだった。背中をゆっくりとさすっている時、結城が涙を流していることに気づいた。彼は痛みを堪えるかのように息を詰めて一言、 「ごめんなさい」  と囁いた。  それを聞いて、やはりここにこそ誰も見えないこの男の深い傷があったのだと泉は確信した。無情な世の中の冷気から身を守るため、後ろ指を指す人々の悪意に気づかぬふりを通すため、そして何より最愛の人の最後の視線に背を向け続けた罪の重さが喰い込んで、この背中は傷だらけなのだ。  この背中をかつて愛した男。そこにいるのか?もしいるのなら、お前にもこの傷が見えるだろう。どうかここに触れて、いつか必ず癒えるよう祈って欲しい。自分はこの背中を何があっても一生守り続けるなんて、どんなものからも永遠に守り続けてやるなんて高尚なことは云えない。でも眼を逸らさないと約束する。そして互いに支え合いながら生きるから。 「泉さん」  呼ばれて泉は自分が眠りに落ちていたことに気づいた。 「うん……なに?」 「俺もそう思ってます」 「……ん、何が?」 「聞こえましたよ、今」  結城は片方の手を額に当て、瞼は閉じたまま、微笑んだ口許でそう云った。夢現といった感じなのだろうか。囈言だとその時は思った。泉はその顔をいつまでも見つめていたいと思った。 「もう充分すぎるくらいです。本当に、泉さんに会えて良かった」

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