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第57話
その週末、土曜の午前中に家を出た泉は、箱根に向かって車を走らせた。連日、寒い日が続いていたが、この日は午前十時を過ぎても東京の気温はマイナスだった。ラジオでは今晩からか明日未明にかけて、関東の山間を中心に雪がちらつくという予報を流していた。
この数日間、海晴のことと結城のことが入れ替わりに泉を苦しめていた。
海晴の親権のことで争う姿勢を見せれば、間違いなく樹里は興信所が撮ったあの写真を出してくるだろう。うっかりあの場でバイセクシュアルであるなどという発言をし、言質をとられてしまったために、このことについては誤魔化しが利かなくなってしまった。
あの写真を眼にした人間であればほぼ全員、この男は子供の親として相応しくないのでは、と思うだろう。セクシュアリティの問題ではない。複数の男たちと性的関係を持ち、しかもそのうち二人を妻子のいない自宅へ連れ込んでいる。しかも妻が別居を決意した理由も、また男が原因なのだ。客観的に見れば、自分もOのような人間とあまり変わらないのかも知れない。
初めて泉は本気で、異性愛者になりたいと思った。
もしそうだったなら、妻の死で精神を病んだ親友を抱いたりはしなかったし、深月に恨まれることも、葵をひどい目に遭わせることもなかった。樹里のことだって、きっと心底愛せたはずだ。そうすれば今、この時のように海晴を失う不安に駆られることもなかった。
今なら認められる。二十代の時、自分はどこかで親友の結婚生活に綻びが生じるのを待っていた。でも三年、四年、五年過ぎても、そうはならなかった。夫婦に子供ができないことも、かえって彼等の絆を強くしていた。
そんなことをしているうちに自分も世間体というものを考え始める年齢に差し掛かり、運よくそこに樹里が戻ってきた。出会った女たちの中で、泉は樹里が一番好きだった。彼女は趣味や仕事など、いつも必ず自分の世界を持っていて、一度たりとも彼女の方から交際や結婚をほのめかしたことはない。狭量な男ならプライドの高い女と見るかも知れないが、泉はそれを彼女なりのいじらしさだととっていた。あまり本気だという態度をとると、男は逃げていくと思っていたのだろう。よりを戻しにかかるのはいつも泉の方だった。そして結婚を申し込んだ。樹里を紹介した時、両親が喜んでくれたことも身を固める決心をした理由の一つであることは否定できない。
自分が妻に求めていたのは野球のバッテリーのような、愛情というよりはタッグを組むという言葉がしっくりくる、強固な信頼関係だった。それによって共に海晴を育て上げることが第一であり、彼女とのセックスは、あくまでその結束に破綻を来さないための手段だったのだ。その生活は、樹里の思い描いた理想の夫婦のかたちではなかった。遅かれ早かれ、自分たちの結婚生活は行き詰まっていたことだろう。
自分は本気の愛情を男にしか求められない。
箱根に近づくにつれ、泉は結城のことだけを考え始めた。
朝、眼を覚ました瞬間に気づく。自分の全世界はたった一人のために存在するとはっきり感じる。冬の朝の身も凍る冷気、それと同じくらい冷たい雑踏。その中を切り抜けて、今日も君に会いたいと背中に力を入れ、拳を握って外へ出る。
血の中を流れる運命が、君を求めている。
泉は芦ノ湖の畔に車を停めた。ここに結城と来たことを思い出しながら、しばらく景色を眺めていた。ラジオからはスザンヌ・ヴェガが聞こえてくる。眩しさに眼を閉じているうちに、午後の陽射しに誘い起こされた微睡みは次第に深いものに変わっていった。
それほど時間は経っていなかったと思う。
コツコツという音が耳元でして眼が覚めた。車の窓を叩く音だとすぐに分かった。誰かが外からこちらを見ていた。中を覗き込むその顔を見た瞬間、泉は心臓が止まりかけた。
優しく穏やかな瞳が、窓硝子の向こうから泉を見つめていた。間違いなく結城だった。眼鏡はかけていない。泉は急いで窓を開けた。途端に結城を包む狂おしい香気が流れ込んできた。
「こんにちは。お休みのところ、すみません」
ああ、結城だ。結城だ。その声を聞いた瞬間に胸がつかえるような感覚に陥り、泉はすぐには声が出せなかった。
「お一人ですか?」
頷く泉に、結城は続いて、私もです、と答えた。泉の心臓は早鐘を打っていた。確実に寿命が縮んでいくのを感じていた。
「まさか、ここで泉さんに会えるとは思っていませんでした」
「僕もだよ」
「私、この近くのホテルに宿泊しているんです。良かったら来ませんか?」
「うん……行くよ。乗って」
やっとそれだけ答えると泉は助手席を片付けた。結城が車を回り込んで、扉を開けて座っても、まだ現実味がなかった。
どうしてこんなところにいるのだ。パリは、葉月涼はどうした?八十万を持って、会社も辞めて、今までどこでどうやって生きていたのだ。
結城に案内してもらうまでもないほど、彼が宿泊しているホテルは近かった。本当に芦ノ湖までは散歩の距離だ。
結城はフロントで預けていた部屋のキーを受け取ると、慣れた様子でエレベーターまで歩き出した。エレベーターには後から一組の家族連れが乗り込んで来た。
ふと、結城の方を見ると彼もまた泉を見上げていて微笑みかけてきた。黒曜石の瞳。どうして微笑むのか。その笑顔には一体、どんな意味があるのか。
結城が泊まっていた客室からは芦ノ湖が眼の前に見えた。いい部屋だった。
「朝、寝台で体を起こすと湖が眼の前に見えるんですよ。こんなにいい部屋に泊まったの、初めてで」
それから振り返って泉を見た。
「本当に久しぶりですよね」
「結城くん、どうして突然いなくなったの?何で電話一本くれなかったの?」
泉はやっと声が出るようになって、絞り出すようにそう訊ねた。
結城の方でもいくらかその言葉を待っていたようだった。振り向き、後悔と懺悔を眼に浮かべて俯いた。
「パリに行こうと思っていました。随分前にパスポートはとっていたので、あとは飛行機の便を予約するだけだと思って。泉さんの信頼を裏切るようなことをして、本当にすみませんでした。通帳を見た時……咄嗟に、あれだけの金額があれば、葉月のところへ行けると思ってしまって」
「それで、パリへは行ったの?」
「はい。あの日、ネットでパリまでの航空券をとって」
結城は拙い英語で葉月から受け取った葉書を頼りに、二日がかりで恋人がかつて住んでいたアパルトマンを探し出した。だがそこにはもう別の住人が入っていて、葉月涼に関する手掛かりは全く得られなかったという。大崎南も日本に帰国してしまっている今、彼に頼れる人間はいなかった。
「少しは観光したの?」
「はい。でも初めての海外旅行に一人でなんて行くものじゃないですね。少なくとも私には合っていなかった。泉さんと来れば良かったってずっと後悔してました。二日間かけてパリに行ったのに、結局三日もいられずにすぐに帰って来ちゃいました。食べ物は屋台のケバブとピザぐらいしか買う気になれなくて」
エッフェル塔もシャンゼリゼ通りも凱旋門も、それほど結城の心を捉えはしなかったようだ。だがセーヌ川だけは別だった。
「以前、泉さんに教えてもらった映画の中に、橋の上で生活するホームレスの男女の話がありましたよね」
「ああ、『ポンヌフの恋人』だね」
「あれは花火の中で踊るシーンが最高でした。あの夢をパリで見たんです。踊っていたのは自分でした。葉月と一緒だった。でも映画と違うのは、俺と葉月は川へ落ちたんです。しっかり抱き合って落ちたはずなのに、いつの間にか葉月と手が離れて……このまま死ぬんだと思いました。でも、気づいたら俺は寝台の中にいて、泉さんが傍にいた。泉さんが助けてくれたんだ、って思った瞬間、眼が覚めたんです。その日に、日本へ帰ろうって、そう思いました」
それから結城は泉を見た。
「でも帰って来てからも、泉さんに会う勇気がなかなか出なかった。連絡しても、お前なんか知らないって云われたらどうしようかとか……正直に云うと、警察に云われたんじゃないかとも思って。自分を守るために、逃げていました」
「警察には云ってない。いつからここにいたの?」
「今日で三日目ぐらいです。箱根神社にもまた行って来ました。あなたともう一度会えたら死んでもいい、だから会う勇気が欲しいって祈ったんです。そしたら、帰り道にあなたの車を見つけた。合わせる顔なんかないのに、あなたの寝顔を見たらどうしても声をかけたくなって……我慢できなかった」
「良かったよ。僕は君をずっと探してたんだよ」
「本当に申し訳ありませんでした。殴られても蹴られても文句は云えないと思ってますから、どうぞ好きにして下さい。そのために泉さんにここまで来てもらったんです」
「そんなことしないよ」
「だって、俺を恨んでますよね」
「違う。愛してる」
切羽詰まった愛の告白が溢れ出た。無意識から出た言葉だった。その一言で、結城の動きが止まった。ほんの一瞬だけ彼の唇が躊躇いがちに動いたが、声にはならなかった。
「君が昔の男にけりをつけてくれるなら八十万ぐらい安いもんだよ」
泉が抱きしめようと手を伸ばすと、結城は自身に見えない汚れがついているかのように身を引いて距離をとろうとした。泉は構わずに更に踏み込んで、その震える肩を引き寄せた。息を呑む様子が手を取るように分かり、何秒かしてか細く乱れた呼吸が漏れてきた。結城の緊張が解けるまで、安心してもらえるまで、泉は体を離す気はなかった。結城の体は初めて体を重ねた時よりもずっと激しく戦慄 いていた。
「ごめんなさい」
小さく謝る声が聞こえた。泉はそんな彼の耳元で、
「大丈夫だよ」
と囁いたが、それでも結城はもう一度、同じように謝った。本当に許していることを分かって欲しくて、泉は結城の髪をそっと撫でた。それから項を撫で、背中を撫でた。
「大崎先生と話したよ」
その言葉に結城はぴくりと反応した。
「入院中だったけど、君がいなくなったことを伝えたらすぐ電話をくれて……葉月涼さんのことも含めて色々教えてくれた」
「……そうですか」
もし結城に会えたら、本当のことを云わなければと思っていた。それができるのは自分しかいない。
だがそれは、本当にこの男のためなのか。自分自身のためではないのか。この男を自分のものにしたいがための、この上なく自己中な行為なのではないか。真実を突きつけることに何の意味がある?打ちのめして弱らせたところにつけ入ろうとしているくせに。卑劣だ。結局そうしなければ、この男の一番になれないことが分かっているから。
「ねえ結城くん、僕は君が必要としてくれる限り、絶対君から離れないし、どこへも行かない。信じて」
窓の外に見える湖水が光を湛えて揺らいでいるのが見える。結城もそんな瞳をしていた。
何が悪い。
自分には一生をかけて結城を支えて尽くす覚悟がある。何があっても放さない。死者に結城の魂の半分を渡したままにはしない。自分は生きている。死者に愛は育めない。それは生きている人間の役目だ。結城だって愛を求めている。触れられる、姿かたちのある、温度のある愛を。生きているからこそ愛を求めているんだ。それに応えられるのは自分だけだ。
「聞いて。葉月くんは亡くなったんだよ。君は、本当はそのことを知ってるね」
途端に、結城の眼が見たこともない表情になった。彼はかすかに震え、今初めて自分が何者であるかを悟ったかのように、泉を見つめた。放心状態とはこういうことをいうのだろうと泉は思った。何秒かののち、徐に視線を逸らすとその眼はあてもなく空をしばし彷徨った。結城は泉の腕から逃れ、魂が抜けたような表情で、しかし自らの足取りを確かめながら、寝台へ腰を下ろした。
消し去った記憶は彼の中へ戻ってきただろうか。泉はすぐに隣へ腰かけ、結城の肩を抱いた。先程まで腕の中で強張っていた結城の体は柔らかく、弛緩しきっていた。しばらく、二人とも何も喋らなかった。
もしこれで結城が壊れたら、ずっとこの男の面倒を見よう。自分には結城を支えながら一生を生きる覚悟がある。
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