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第56話
樹里と会ったのは、それから一週間後のことだった。
待ち合わせに指定されたファミレスに着くなり、泉は挨拶もなしに席へ座った。
「今日の用件は?」
「びっくりした。挨拶ぐらいしてよ」
「君は毎回しないんだから、僕がする理由はないよね」
久しぶりに明るい場所でまともに見る妻の顔は美しかった。少し疲れぎみのようだったが、それでも年齢相応に美しかった。
「海晴の迎えは?」
「今日はお父さんに頼んである」
「今日も だろ」
樹里は苛立ちを抑えるために、静かに呼吸を整えていた。瞬きをし、鞄の中から何かを取り出そうとした。
「今日は喧嘩をするために来たわけじゃないの。これ見て」
樹里が泉の前に置いたのは、カラーの小冊子だった。企業案内のようだ。泉にそれを読ませながら、樹里はアメリカでケータリング事業を立ち上げる知人に社員として来てくれないかと誘われていると説明してきた。
「そう、場所はどこ?」
「シアトル」
「……どのくらい?」
「必要とされている限りは。イーストサイドだから治安は比較的いいと思う。海晴はまだ知らないけど」
「まさか、あの子を連れて行くつもりか?」
「そう。だから、今日はお願いに来たの。ちゃんと別れて欲しいの。あなた、離婚届不受理の申請をしてあるって云ってたよね」
夫婦はテーブルを挟んで見つめあった。樹里の眼には、嫌悪も憎悪もなかった。ただ、事務的に必要なことを喋っているだけといった感じだった。
「行きたいなら勝手に行けばいいよ。君の人生だ。離婚にも応じる。でも海晴は連れて行かせない。離婚するなら、あの子を僕の元へ戻すのが条件だ。親権は僕が持つ」
「あなたにそんなこと云う権利あると思ってるの?」
樹里は冷静な声で云った。
「そのことと、僕と君どっちといた方が海晴にとって幸せかは別問題だろ。今は父親だって子供を引き取れる。バイセクシュアルだからって離婚調停員に差別なんかさせない」
自分のセクシュアリティを明確に宣言したのは初めてだった。隣の席のサラリーマンがちらりとこちらを見るのが分かったが、今の泉は全く気にならなかった。
「僕には海晴を大学卒業まで見てやれる収入がある。小学校のうちは、習い事のオプションがついた送迎ありの民間の学童保育を利用させるつもりだし、実家の両親にも協力してもらう。旅行だって連れて行けるし、塾も予備校も心配要らない。それに、うちの会社はこれでもホワイトだからね。誕生日や運動会なんかのイベントの有給休暇申請はちゃんと通るんだよ。あの子に寂しい思いは絶対にさせない。言葉も通じない国に母親の勝手で連れて行かれるより、ずっといいはずだ。心配しなくても、君に面接交渉権は保証するよ」
「あの子はママと行くって云ってくれたわ」
「ママに唆されたんだな。子供の一時の感情だよ」
「あなたは海晴だけなんだよね。よく分かった」
落胆に近い吐息を漏らし、樹里は視線を珈琲の中に落とした。
「違うな、前からそうだった。大学の時からずっとあなたを見てきたけど、私が知ってる限り、あなたは取り乱したのは、私が海晴を連れて家を出て行ったあの日だけ。あの時、海晴が起きて来なかったら、きっと私は殴られてただろうね」
それに関して泉は何も云わなかった。妻はまだ眼を上げなかったが、この沈黙が肯定であることは伝わったはずだ。
「あの日、あなたはずっと海晴を返せって云ってた。今もそう。私とは別れてもいい。海晴だけは返せ。あなたは私がいなくて寂しいなんて、これっぽっちも思ってないんだよね。本当に海晴だけ。あの日、あなたは私と海晴を迎えに来たんじゃない。海晴だけを迎えに来たの。でも私もね、あの子を失うわけにはいかないから。あの子がいなくなったら、生きていけないもの」
そして彼女はもう一度鞄を探り、今度はA5サイズの茶封筒を取り出した。無言で差し出され、泉は何かと思いながら中身を取り出した。L判サイズの写真が数枚出てきた。
結城の顔が最初に見えて、はっとした。泉はそれをしばらく眺め、次の写真を確認した。葵がうちへ来た時のものだ。そして深月。それぞれの男と一緒に自宅やホテルへ入るところが、はっきりと映っていた。
「興信所つけたのか」
「私じゃなくて父がね。知らないうちに。あなたも莫迦だね。別居中の方が浮気の証拠を掴みやすいなんてのは常識だよ。ちなみに云っておくけど、うちの実家の玄関先にも音声付き監視カメラがついてるから。あなたが来た時の行動は全部録画されてる」
樹里の声にはしてやったりという気配は微塵もなく、ただただ静かで事務的だった。
「この数か月間、あなたと離れて色々考えたの。あなたのことは嫌いになれない。でももうこういう写真を見ても、私、そんなにショックじゃないの。あなただって、海晴さえ自分の手許に戻って来れば、私が再婚したって気にしないんじゃない?そういうところまできちゃってるのよ、私たち。海晴がいなかったら、もっとはっきりしてたと思う」
それから最後に胸元のポケットからICレコーダーを取り出して、録音を切った。
「あなたはいい人だよ。あなたの尊厳を傷つけたくはない。だから本音を云えば、こういうこと全部、第三者の前で晒したくはない。でも海晴のこととなれば、私だって何だってやる」
迂闊だったとしか云いようがないが、今日の会話は全て録音されていたらしい。
「私は海晴と二人で生きていく。そのことをあなたに認めて欲しい」
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