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第54話
「見せたいものがあるって云ってたよね。気になるんだけど」
「見たいですか?」
深月は寝台から気怠そうに立ち上がって、自分の鞄を取りに行った。だが目的のものはすぐに出てこず、室内が薄暗かったこともあり、深月は鞄に入っていた他の荷物をテーブルの上へ出し、中を探っていた。見失うほど小さなものなのかと泉は思っていると、深月の荷物の中の薬袋に気がついた。
「ねえ、薬飲んでるの?風邪?」
「ああ……抗不安薬ってやつです。もう何度か処方してもらってるんですよ」
「何それ、大丈夫なの?」
「どの口が云うんですか?」
深月は笑いながらそう訊き返してきたが、その眼は氷のように冷たかった。
泉の携帯電話がメッセージの着信を報 せた。咄嗟に結城からではないかと思い、すぐに画面を確認したが、相手は樹里だった。近々、海晴との面会とは別に時間が欲しいと云う。
「この前の子から連絡ですか?」
「え?」
「白石さんの店の前で手繋いでた、あの若い子ですよ。連絡とってあげてます?」
「悪いけど誰のことだか分からないし、そういうの、深月くんには関係ないでしょう」
深月が葵のことを云っているのは分かっていたが、泉はそれについて話す気はなかった。
結局、深月はセックスの最中に泉の首を絞める素振りさえ見せなかった。
「それより、僕に見せたいものっていうのは見つかったの?」
「はあ、泉さんて、本当に俺に関心ないですよね」
深月は落胆した声でそう云い、寝台から立ち上がった。
「俺、わりと好かれることの方が多いんです。学校でも会社でも、大抵七割ぐらいの人間には好かれる。本当にすごく好きって思ってくれる人と、俺の近くにいれば何か利益があるんじゃないかって思ってる人、合わせてですけど。あとの約二割はもう生理的に肌が合わないのと、嫉妬とかで嫌ってくる人間ですね。でも本当に何をしても、全く関心を持ってくれない人間がたまにいるんです。〇・五割ぐらい。本当に見向きもしないならまだいい。でも、泉さんの性質 が悪いのは一見、優しそうで何にでも応じてくれるのに、本当は俺なんか見てないってことです」
「白石くんから、薄情な奴だってことは聞いてたでしょ」
「あの若い子があなたの関心を引いて、俺のことを見てもくれない理由は何ですか?」
「からむのはやめてよ。何もないんならもう帰るよ」
「あの子が今、どうしてるか、泉さん知ってます?」
「だから、先刻から誰のこと云ってるの?」
「本当に憶えてないって云うんですか?」
「うん」
「本当に?赤い髪で、いつもぶかぶかの服着てて、Oさんが眼をかけてる、若松立花 大学一年の」
ぎょっとして泉は深月の顔を見つめた。
「葵奏人くん」
葵の下の名前まで知っている。どういうことだと泉は深月を見つめた。
「可愛いですよね、まだ十八歳ですって。三月で十九になるとか云ってたな」
「葵くんと話したの?」
やっと認めてその名前を出した泉を深月は満足そうに見ていた。
「ええ、あの子も俺と同じで、白石さんの店にいればあなたに会えると思って毎日待ってましたよ。可哀想で話しかけたんですよ。だってあの子、俺と一緒じゃないですか。あなたに捨てられた」
深月は自分の煙草を取り出し、泉の点火器 を借りて火を点けた。
「でも泉さんらしくないですね。もう十代二十代は懲り懲りだってあれほど云ってたのに。二人で色々話をしましたよ。本当に可愛い子ですよね。俺が酒を勧めたら、二十歳になるまで呑まないって泉さんと約束してるって。見かけによらず純粋で真面目だなあと思いました。……手を出して下さい。やっと見つかりました。あなたに見せたかったものです」
深月は泉の掌に銀色の小さなものを転がした。それは葵が持っていた宮ケ瀬ダムカレーのキーホルダーだった。ボールチェーンの意外な冷たさが泉の掌に響いた。
「泉さんからもらったものだって、葵くんが大事にしてました」
深月は煙草の烟を吐いてから泉の方を見た。
「葵くん、父親がいないそうですね。うんと歳の離れた男に甘えたかったのかな」
「……これ、どうしたの?」
「泉さん、形に残るものはあげないって、いつも云ってたのに」
「深月くん、答えて。どうして君がこれを持ってるの?」
「あなたが俺を怒らせたから悪いんですよ。あんな風に一方的に別れを告げて、後は無視?それで俺が黙ってると思いました?そんなわけないでしょう」
泉は眼の前にいる男が何を云い出すのかと警戒し始めた。
「泉さんは俺を傷つけたんだから、俺にもあなたを傷つける権利がある。同じように心に傷を負ってもらわなきゃ気が済まない。あなたの弱みを考えた時、すぐに思いついたのはあなたの息子さんのことでした。息子さんを傷つければ、間違いなくあなたは俺を捨てたことを死ぬほど後悔するだろうと思って。でもやっぱり俺も人間ですから、流石に六歳の無垢な子供を巻き込むわけにはいきません。でも十八歳なら、大人ですよね?」
直後に深月はたった今おかしいものでも見たというように笑い出した。
「若松立花大なんて知らねーと思って調べたら、何、Fランじゃないですか。世間じゃバカ松大って呼ばれてるらしいですよ。あんなとこに入るとか、金の無駄でしかないし。黙ってOさんに飼われていればまだ良かったのに。そしたら少なくとも、顔も知らない、Oさんよりあなたよりずっと年上の童顔好きの変態に無理矢理レイプされることもなかったのに」
泉は眼の前が真っ暗になった。体中の血が凍りついたように感じ、俄かに深月が恐ろしくなって距離をとった。
「何それ……どういう意味?」
「ああ、もう遅いですよ。俺が葵くんを呼び出したのは昨日のことですから。俺があなたを呼び出すという約束で、あの子をビジネスホテルで待たせて、飲み物を頼んであげました。その後、事前にネットで知り合った男に、あの子がいる部屋の鍵を渡したんです。三万円で好きにしていいって云っておきましたよ。ちゃんともらえたかは分からないですけど。あの子もいい小遣い稼ぎになったんじゃないですか?この薬が役立ってくれました」
そう云って深月は先程の向精神薬の薬袋を指した。
「俺はこれ、普段外出先では飲まないんです。飲むと急激に眠くなって、体にあんまり力が入らなくなるから。多分、葵くんも同じだったんじゃないかな。ほとんど抵抗しなかったって聞いてますから」
人を殺す時、殺意と呼ばれるものでさえ後からやってくるということを、泉はこの時身をもって知った。もし手に刃物や鈍器を握っていたら、間違いなく泉は眼の前の男を殺していただろうと思う。実際には何も持っていなかった泉は、深月に掴みかかり、寝台に押し倒しただけで済んだ。
「……自分が何したか分かってるの?」
倒れ込んだ刹那、深月の顔に怯んだような色が浮かんだが、すぐに口許に笑みが戻った。相変わらず、彼は文句のつけようがないきれいな顔をしていた。直後、再びスイッチが入ったように笑い出し、泉は寒気を覚えて体を離した。深月は寝台の上で笑いを押し殺しきれないといった様子で鳩尾のあたりを抱え込むように体を曲げていた。次に顔を上げた時、その眼には涙が滲んでいたが、泉にはそれが割らい転げたためなのか、何か他の感情のためなのかは分からなかった。
「ああもう……最初は半分本気じゃなかったんですよ。どこかでうまくいかなくなると思ってました。だって、何だって邪魔が入るのがこの世の中じゃないですか。スムーズにいくと思ってたことでさえ、そうなんだから。それがこういうことほど、最後までうまくいっちゃうなんて、ほんと笑える」
深月は寝転んだまま、泉の顔をじっと見つめて云った。
「……は、何で俺、こんなことやってんだろう」
一足先に服を着替えた深月が部屋を出て行く間際、感情のない表情で一言云い残して行った。
「あなたの傍にいると、みんな不幸になる」
泉は何も云い返せなかった。残された泉は煙草を取り出して火を点けた。
すぐにでもここを出て葵に会いに行くべきなのに、そうできなかった。もう全ては起こってしまった後なのだ。自分にはもう二度と、誰かと恋愛をする資格などないと思った。
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