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第53話
大崎南との電話の後、泉は警察に行方不明者の相談の電話をかけた。無駄かも知れないが、捜索願出しておければと思ったのだった。
そこで分かったのは泉には何もできないということだけだった。家族や親戚でもない上に、内縁関係にすらない泉が捜索願を出すことはできなかった。
「お身内でない方からの捜索願は……会社の上司にあたる方が出される場合はあるんですが、これは行方不明者の方が在職したままいなくなった場合に限られますし」
「そうですか。でも何とかなりませんか?身寄りのいない人間なんです」
「お気の毒ですが、現状では何とも」
全ての精神力を使い果たした泉は、樹里の実家へ車を走らせた。海晴に会いたかった。あの柔らかい指と全てを受け入れてくれる甘い声が必要だった。外は小雨が降っていて、夜の八時を過ぎていたが、他には何も考えられなかった。心がひび割れそうなほど寒かった。
家の前に着くと、泉は門の前で妻の携帯にメッセージを入れた。間もなく玄関先に樹里が出てきた。
「急に何なの?海晴はもう寝てるわ」
「頼むよ、今夜だけはあの子に会いたいんだよ」
泉は門を開け、敷地の中へと足を踏み入れた。
「ちょっと入って来ないで。何の用なの?こんないきなり。前もって連絡を入れてくれなきゃ困る」
「ふざけるな。何の前触れもなくいなくなったのはそっちじゃないか」
「今更何を云ってるの?大体、あなたが悪いんでしょ?」
かっとなった様子で樹里は云い返した。化粧を落としていないところを見ると、まだ仕事から帰宅したばかりなのかもかも知れない。我が子のお迎えも、食事も、お風呂も、結局自分の親任せなのではないか。父親である自分から我が子を引き離しておきながら、あの子に寂しい思いばかりさせているのではないか。母親失格だ。平然と人の手を借りて、夜八時に帰宅する女に六歳の子の母親は務まらない。
「おーい、海晴。パパだよ。お迎えに来たんだよ、一緒に帰ろう」
泉は二階の窓硝子に向かって呼びかけた。隣近所にも聞こえぐらいの声だったので、樹里はぎょっとしていた。
「やめて。ちょっと、あなた酔っ払ってるの?」
「莫迦云うな。酒なんか呑んでたら海晴を連れて帰れない」
「だったら精神的におかしくなってるんだわ。明日朝一番で心療内科にでもかかって。いずれにしても海晴は連れて行かせない。どうぞお引き取り下さい」
これほど大騒ぎをしているのに、どうして元妻の両親は顔すら見せないのか不思議だった。出戻った娘が別居している夫に殴られる可能性がないとでも、本気で思っているのだろうか。
泉の眼から涙が出た。ほぼ錯乱状態になりかけていた。突然のことに樹里は一瞬たじろぎ、しばらく元夫の情けない姿を見ていたがやがて何かを堪えるような表情で、
「お願いだから、そんな姿を海晴に見せないで」
と云って家の中へ入って行った。泉は敷地を出て、車に乗り込んだ。号泣した。涙の所為で前が見えなかったので、しばらくそこに車を停めたまま、息子と結城のことを交互に考えていた。
深月と不意に再会したのは、その翌日のことだ。
会社の敷地を出たところで聞き覚えのある声に呼び止められ、泉は咄嗟に一度振り返ったが、それが深月だと分かると無視をして歩き始めた。
「お疲れ様です。お久しぶりですね」
泉は尚も聞こえないふりをして歩き続けようとしたが、深月に唐突に強い力で腕を掴まれ、立ち止まらざるを得なくなった。
「帰るなら駅まで一緒に行きましょうよ」
「勤め先に来ていいって云った覚えはないけど」
「それは謝ります。もう来ませんから。ただ、今日は泉さんに渡したい物があって」
「何?」
「ここではちょっと。せめて喫茶店に入りましょう」
面倒臭くなった泉は、半ば投げやりな気持ちで深月に従って歩いて行くことにした。駅を通り過ぎ、深月がホテルに足を踏み入れても一言も抗議しなかった。
ここでこの男に殺されても仕方がないのかも知れないと思った。海晴だけが心残りだが、きっと樹里の実家でそれなりに幸せに育ってくれるはずだ。
これが人生で最後のセックスになるかも知れないと思うと、泉は眼の前の男にできる限りのことをしてやりたいと思った。泉の方から深月に触れ、うんと優しいキスをしてから丁寧に服を脱がせていくと、深月は途惑った声で泉の体を離した。
「どうしたんですか?」
「別に……ただ、せっかくだからしておきたいなと思っただけだよ」
「あなた、こんなことしてるとそのうち誰かに刺されますよ」
「刺してもいいよ。深月くんなら恨まないから」
「何それ、今更遅いですよ。第一、俺のこと好きでもないくせに」
一度別れを告げた相手と寝るのは初めてだった。いつ、背中に冷たく鋭いものが当てられるか分からなかったが、泉は怖いとは思わなかった。死に対する恐れよりも、結城を喪失したことに対する深い絶望の方が勝っていた。
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