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第52話

「わざわざこうして僕なんかにまで相談していらしてるのを見ると、貸した金額は決して安くなかったはずです。そこまでの信頼関係があなたと結城くんにはあったということですか?」  泉が電話をしたのは金額が理由ではなかったが、結城の許可なしに自分たちの関係を誰かに打ち明けることはしてはならないと思った。 「結城くんと私は友人です」 「それだけ?本当に?」 「ええ、ただとても親しくはさせてもらっていました。まだ出会ってから二か月ほどなんですが、大崎先生の写真集を通じて話が弾んだのがきっかけで連絡をとるようになって……たまに時間が合う時に食事をしたり、出かけたり、独身の彼には退屈だろうに僕の妻や子供の話なんかも聞いてくれて」  虚実入り混じった話がすらすらと泉の口をついて出てきた。 「そのうち、結城くんの方も自分の話をしてくれるようになったんです。大崎先生のアシスタントを務めていた葉月涼さんのことは、その時に聞いて」  うん、と大崎は悩み抜いた後のような声を出した。 「同居人だった葉月くんと連絡が取れなくなったことを、結城くんは云ってましたか?」 「はい、そのことについてはかなり悩んでいました。突然先生のところを辞めて、その後は帰国したのかどうかも分からないと……もしかすると、私が貸した金は葉月さんを探すためのパリへの旅費として使うつもりなんじゃないかとも思うんですが」  大崎はそれには応えなかった。今度は比較的長めの沈黙があったので、泉は何か失礼な発言をしてしまったのかと焦った。 「……あのう」 「泉さんは結城くんと話していて、おかしいなって思ったことはない?」 「いいえ……特には」  大崎南は電話口で長いこと悩んでいた。 「あの、私は結城くんに金を持ち逃げされるんじゃないかとか、そんなことはこれっぽっちも思っていないんです。そんなことはどうでもいいし、彼はそんな人間じゃない。ただ、彼の所在と元気かどうかを知りたいんです。ちょっとした手掛かりでもいいから欲しくて。大崎先生なら結城くんと定期的に会われていて、彼の人柄を知っているし、何かご存知かなと思って」 「そうですか。泉さん、先に謝っておきます。こんなことになった原因の一端は僕にあるのかも知れない」 「え?」 「たとえ結城くんがパリに行ったって、彼が葉月くんに会えるわけないんですよ」 「どういうことです?」 「葉月くんは亡くなってるんですよ。二年前に、バイクの事故で」  泉は自分の耳を疑い、もう一度云ってくれと大崎に頼んだ。返ってきた言葉は先程と一緒だった。  亡くなっている?  結城はそんなことは一言も云っていなかった。一目でいいから会いたい。切実な声でそう云っていた。少ない給料の中から貯金もしていると云っていたのに。 「ちょっと待って下さい。もしかして、結城くんは葉月さんが亡くなったことを知らないんですか?」 「いいえ、知っていますよ。僕が直接彼に連絡をとって、葬儀にも一緒に参加しましたから」  泉は深い混乱の渦に巻き込まれた。どういうことだ?結城は自分に嘘を吐いていたのか?だとしたら何のために?まさか本当に金が目的だったのか?自分と付き合ってきた二か月はたかだか八十万で清算されてしまう程度のものなのか。 「葉月くんの葬儀を終えて、僕がパリに戻って二か月ぐらい経った頃かな。日本の僕の事務所に結城くんから電話がかかってきたんです。『葉月のことで直接話がしたい』ってね。スタッフから連絡を受けて、すぐに僕の方から電話をかけ直しました。そしたら『葉月から最近葉書が来ないけど、元気でやってるのか』というようなことを訊かれて……最初は何を云ってるのかと思いましてね、性質(たち)の悪い冗談かと思ったけど、そういう子じゃないし、話してるうちにだんだん普通じゃないなってことが分かってきたんです。結城くんは葉月くんが亡くなったことを、まるっきり憶えていなかった」  結城は葉月涼の死に関すること全てを忘れていた。事故の連絡を受けたことから、大崎と共に静岡へ行き、葬儀に参列したことまで何一つ憶えていなかった。自分の恋人はまだ生きてパリにいて、大崎の元で写真を撮っていると思い込んでいた。  その話を聞いて、泉の混乱は小康状態に落ち着いた。話の内容自体は更なるパニックを呼ぶものだったが、この話で何故結城が真実を話さなかったのか腑に落ちた。結城は恋人の死を自分の記憶から消したのだ。 「葬儀の時は、結城くんはどんな様子だったんでしょうか?」 「ええ、結城くんとは当日、品川で待ち合わせをして、そこから一緒に車で葬儀会場まで向かったんです。表情は暗かったけど、挨拶や身なりなんかはちゃんとしてましたよ。でも僕が気になったのは、彼はその日僕たちの前で涙一つ零さなかったことです。前の晩に泣き疲れたとか、そういう様子でもなかった。で、葬儀後の精進落としの席に彼は現れなくてね、スタッフに訊いたら先に新幹線で帰ってしまったということだったんですよ」  その二か月後に結城からの異様な電話がかかってきたというわけだ。会話の最中、大崎は時折話を逸らして、結城の仕事や私生活について訊ねてみた。特に問題はなさそうだったが、葉月涼に纏わることだけはどうしても咬み合わなかった。 「それから一年も経たないうちに、僕の方が体調を崩して帰国ってことになっちゃったんですけどね」  大崎は小さく咳払いをした。 「結城くんにお見舞いに来てもらったり、電話をしたりするうちに感じたんですが、彼はちょっと気の毒すぎるぐらい良い子ですよね。非常に繊細な神経を持っていて、常に周りの人間の感情を敏感に汲み取ってる。眼を見てれば分かります。何と云うか、常に何かが張りつめているような感じがあって」 「ええ、よく分かります」 「だからね、葉月くんについて本当のことを云わなくちゃいけないといつも思ってるのに、いざ結城くんを前にすると僕は毎回何も云えなくなっちゃうんです。もし結城くんを支えてくれる誰かが傍にいると分かっていたら、僕も本当のことを話していたと思います。でも、彼は本当に一人だった。結城くんのことは、葉月くんからよく話を聞いていたんです。『あいつは家族と縁を切ってるから、自分があいつの家族になるんだ』って。葉月くんが云っていた通り、結城くんは寂しい人でした。本当に葉月くんしかいなかったんですね。拠り所になる存在がいない人間の精神を壊したら、と思うと僕は怖くてね。そんなことをしたら結城くんは生きていけないんじゃないかと思って。僕は彼に対して何か責任を負える立場にないし、いつか結城くん自身が、自分のタイミングで本当のことを悟ってくれればと逃げていました。あなたみたいな人が彼の傍にいると知ってたら」  大崎はそこで大きく咳き込んだ。呼吸器官に異常があるのではと思うほどの苦しそうな息遣いの中で、すみませんね、と云った。 「……とはいえ、僕が今一歩結城くんに踏み込んでいれば、泉さんにだってこんな迷惑はかけずに済んだのかも知れません」 「いえ、そんなこと仰らないで下さい」 「僕が知ってることと云えばこれぐらいなんです。あなたが貸した金額によっては、パリが一番可能性が高いのかなとは僕も思うんだけれど」 「そうですね。あの、話して頂いてありがとうございます。ご入院中に長々と申し訳ありません。すみませんが最後に……一つだけお訊きしたいことがあるんですが」 「はい、何でしょう」 「パリに連れて行くのは、どうしても葉月さんでないとだめだったんですか?」  まだ大崎が呼吸を整えようとする間があった。 「どうして、そんなことを訊くんですか?」 「もちろん、葉月さんを見込んでというのは分かります。ただ、葉月くんが結城くんという親友と一緒に暮らしていることや、その結城くんに身寄りがいないことを大崎先生はご存知だったんですよね?葉月くんを連れていくことに躊躇いはなかったんですか?多少、時間がかかったとしても、日本に居続けて葉月さんが夢を叶えるというのは難しいことだったんでしょうか?」 「それについて、あなたに理解して頂けるとは思っていません」  穏やかだが毅然とした風格のある声だった。大崎のその声は泉に入り込む余地がないことを感じさせた。冷たい硝子の扉を眼の前ではっきりと閉じられたようだった。 「芸術家にはね、目標の達成と引き換えに孤独を知る時期というのも必要なんです。捨てなければいけないものが大きければ大きいほど、それが身を切るようにつらければつらいほど、芸術家たちは成長できるんです。悲しみと痛みが彼等を強くさせるんです。身寄りのない恋人を置いてきた葉月くんはその罪悪感と苦しみと孤独の分、それは熱心に仕事に打ち込んでいましたよ。生きていればきっといい写真家になれたのに」

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